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第1章 声が聞こえる

 朝の空気は少し肌寒くて、僕の鼻先を冷たく刺激している。

 校門を潜るたびに毎回こうなのに、慣れる気配がまるでない。ジャージ姿の生徒たちがグラウンドを走っていて、遠くから声援が聞こえる。

 まるで自分とは別世界の光景に思えるけど、きっとこの平凡で何気ない風景が――僕の望んできた日常だ。


 僕は天宮蓮。高校二年生。目立った取り柄はないし、誰かと競うのも得意じゃない。周囲に溶け込んで、波風を立てずに生きるのが僕のポリシーだ。理由があるわけじゃないけど、“平凡であること”が一番の幸せだと思ってる。


 だけど、どうしても気にかかることがある。左手首に小さく残る火傷の痕だ。

 これは十五年前に日本を襲った大震災のときにできた傷。その震災で、僕は母親を失った。

 幼い頃の記憶はあやふやだけど、黒く焦げた瓦礫の匂いと母さんの泣きそうな声――その断片だけは、今もはっきり耳に残っている。


「蓮、またぼんやりしてる」


 声をかけてくるのは橘凛。

 僕の幼馴染で、クラスメイトでもある。明るい栗色のロングヘアが朝日を受けてキラキラしている。僕より少し小柄だけど、その分、元気さでは僕なんかよりだいぶ上をいく。


「おはよう」


 凛はカラッとした笑顔を浮かべながら僕の横に立つ。いつも朝は僕より早く登校していて、こうやって校門付近で待ってくれるんだ。ありがたい半面、何とも言えないプレッシャーを感じるときもある。


「寝坊してないか心配だったよ」

「今日はギリギリ間に合った」

「もっと余裕をもって来たらいいのに」


 凛の口調は明るいけど、僕のことを気遣っているのが伝わる。彼女にとっては僕がどう見えているのだろう。いつもだらけているように映っている気がしなくもない。


 二人で渡り廊下を歩いていると、朝練明けのクラスメイトたちが騒がしく昇降口に集まっていた。バスケ部のやつらが声を張り上げて、何やら盛り上がっているらしい。


「なあなあ、聞いたか? また校内で変な噂が出てるんだって」 「え、どんなの」 「よくわかんないけど、夜の校舎で人影が消えたりとか…」


 モブっぽい会話が耳に入る。怖いのか面白がっているのか、どちらにしても高校生らしい噂話だと思う。僕はチラッと彼らの話を聞きながら下駄箱を開ける。


「自分には関係ないかな」


 そう呟くと、凛はクスクス笑っている。


「まあ蓮はそう言うと思った」


 教室に入ると、平凡な授業が始まる。国語に数学、英語。先生の声を聞き流しながらノートを取るのも慣れたものだ。ただ、僕は時々、窓の外を見やる癖がある。晴れた空を眺めていると、当たり前だけど静かな気分になる。こんな風に、何事もなく一日が終わってくれればいいといつも思う。


 だけど、凛は違う。昼休みになると、彼女は僕の机にお弁当を持ってやって来る。


「一緒に屋上行こ」

「教室で食べてもいいだろ」

「外の方が気持ちいいよ」


 多少強引なところも凛の魅力だ。僕はため息をつきながら鞄を持って立ち上がる。

 屋上に行くと、柵越しに見える町並みが風に揺れていた。雲がゆっくり流れて、遠くにはビルの影がぼんやり見える。都会とは言えないけど、それなりに人が住んでいて、毎日賑わいがある場所。


「ねえ、蓮は将来何になりたいの?」


 凛が唐突に問いかけてきて、思わず口を噤む。

 進路か……考えていないわけじゃないけど、深く思い描いたことはない。


「うーん、平凡に生きて、平凡に死にたいかな」

「それ、本気で言ってる?」


 凛が少し呆れたように笑う。僕は肩をすくめて弁当箱を開ける。から揚げと卵焼きが見えて、少しだけホッとする。母さんがいない今、父さんと二人暮らしだけど、料理は僕が受け継いだ。なぜか料理だけはそこそこできる。


「真面目な話さ、将来の夢とか、ないの?」

「特にない。今の生活を続けられればいいかな」


 そう言うと、凛は切なそうな顔をする。でも何かを指摘したりはしない。彼女なりに僕の気持ちを汲み取ってくれているのだと思う。僕が母さんを失ったことを、凛は知っている。震災で母が亡くなったという事実は、周囲も当然知っていることだ。

 でもそれを話題にされるのは、正直、あまり気分がいいものじゃない。


「ただ…時々、怖いときはある」

「怖い?」


 凛が首をかしげる。僕はうまく言葉にできなくて、視線を空に向ける。

 震災の記憶や母の死因……それを思い出すと胸がざわつく。地面が揺れて、建物が崩れ、焦げた臭いが広がり……あの日の残像は今でもはっきり脳裏に焼きついている。


「いや、なんでもない」


 会話を切り上げて、僕はから揚げにかぶりつく。外は冷たい風が吹いているけれど、太陽は意外と優しく肌を温めてくれる。凛の視線が少し気になるが、そこは気づかないふりをしておく。


 昼休みが終わり、放課後も特に大きな出来事はなく過ぎる。補習を受けるわけでもなく、部活に入っているわけでもない僕は、そのまま真っ直ぐ帰るつもりだった。

 でも、なぜか凛が「最後まで屋上で粘る」と言い出す。


「風が気持ちいいから、少し残ろうよ」

「理解できないよ、その感覚」

「私がそうしたいんだからしょうがない」


 結局、僕は屋上に付き合わされる。夕方のグラウンドでは運動部が走っていて、その掛け声が屋上まで聞こえる。凛はフェンスに寄りかかりながら、じっと遠くを見つめている。

 夕暮れに近づいてきた空がほんのりオレンジ色を帯び始めていて、意外と悪くない光景だ。


「蓮はさ、本当は何がしたい?」

「……大して何も」

「ふうん」


 凛は僕の目をまっすぐ見てくる。いつもは軽口を叩くのに、今は静かな笑みを浮かべている。

 何かを言いかけて、でも言葉を飲み込むようにも見える。僕が母のことを口にするのを待ってるのだろうか。でも、僕はあまり過去の話をしたくない。何も得るものがないから。


 すると、凛が急にフェンスを乗り越えかけて驚かせる。


「危ないだろ」

「ちょっと眺めがいい位置を探してるだけ」

「落ちたらどうするんだ」

「大丈夫だって。柵に捕まってるし」


 僕は少し慌てながら、凛の腕を掴んで戻そうとする。けれど彼女は「大丈夫」の一点張りで、妙に嬉しそうに笑う。もしかしてスリルを楽しんでるのか、まったく理解できない。


「なあ凛、もう帰ろう。暗くなってきた」


 そう言って僕が背を向けた瞬間、凛が体勢を崩す。フェンスに絡ませていた手が一瞬滑ったらしい。


「――凛?」


 僕が振り返ると、ちょうど彼女の姿が視界から消えそうになっていた。


「嘘だろ」


 彼女は「ひゃっ」と短い声を出して、そのまま重力に引き寄せられていく。

 胸が一気に締め付けられるような感覚になり、心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ねる。

 頭の中が一瞬で真っ白になる。やめろ、ふざけてる場合じゃない。


 金属フェンスが揺れる音と、凛の小さな悲鳴――その二つが重なって僕の耳に届く。

 咄嗟に体が反応して、僕は柵に駆け寄ろうとする。でも彼女はもう足もとから消えかけていて、掴むものがない。

 どうしよう、どうしたらいい――いや、考えるより先に叫んでいた。


「止まれ」


 半ばヤケクソのように声を張り上げる。

 僕自身、何をどうしようとしているのかわからない。ただ、頭のどこかで必死に“止めろ”と祈る。それしかない。とにかく止まってくれ。


 その瞬間、目の前の景色が妙に歪む。空気がねじれるというか、熱で揺らいでいるように見える。耳鳴りに似た音がして、まるで時間が静止したように感じる。

 いや、実際に止まっている。

 凛の身体が空中でふわりと止まっている。そんなバカな。


 僕は慌てて柵に手をかけて下を覗き込む。地上までそこそこ距離があるのに、彼女はまるで見えない手に支えられるように浮かんでいる。

 信じられない光景だ。けれど僕には凛の表情がちゃんと見える。

 彼女は驚きに目を見開いているけど、ゆっくりとこちらを見上げて声を絞り出す。


「……蓮?」


 動揺しすぎて、どう応えたらいいのかわからない。

 だけど、凛は間違いなく落ちていない。変な汗が背中を伝って、頭がクラクラする。

 誰かの幻覚じゃないかと思うほど不自然な光景だ。


 気がつくと、僕の心臓はありえないくらいドキドキしている。自然と手のひらには汗がにじんでいて、足が震えそうになる。このままどうにか助けなきゃいけないけど、具体的に何をすればいいんだ。僕の叫びで現実が変わるなんて、そんなオカルトがあってたまるか。


「大丈夫か」


 そう声をかけると、凛が少しずつ身体を動かして、壁の方に手を伸ばす。さすがにすぐには体勢を戻せないのか、苦しそうだ。僕は柵を乗り越えて凛の腕を掴み、なんとか引き上げようとする。

 その瞬間、彼女の身体がスッと軽くなる。重力が戻ったのかもしれないけど、僕にとっては何が起きているのか全くわからない。


「ありがとう、蓮」


 凛は息を切らせながら僕の腕にしがみつく。

 僕の方こそありがとうと言いたい。なにしろ、僕の心臓が今にも破裂しそうだ。


「ど、どうなってるんだ、今の」

「わからない。けど、蓮が叫んだら止まった気がする」

「いや、そんなことあるか」


 もはや何がなんだか。凛を屋上に引き上げてほっとしたのも束の間、現実味がなさすぎて頭が追いつかない。なのに凛は意外にも落ち着いている。少し顔が青ざめているものの、すぐに僕の頬をペチペチ叩いて元気を取り戻そうとする。


「うん、死んでない。大丈夫」

「それはそうだけど……」


 一体何が起きたんだろう。僕は汗で濡れた前髪をかき上げながら、凛の表情を確認する。彼女は軽く肩を震わせている。


「蓮、もしかして何か力を隠してたり?」

「隠してない。そもそも何の話だよ」


 僕は冗談交じりに否定するが、心のどこかで嫌な予感がしている。思い当たるフシなんてない。僕はただの高校生で、地味に平凡な生活を望んできた。それにあの震災だって、子どもの頃の僕には何もできなかった。


 けれど今、この身に起きた異常な現象はどう説明したらいい? 僕の声に反応して、凛の落下が止まった。それは確かに起きた事実だ。過去の自分が体験してきた“普通”をはみ出す出来事。


 震災……もしかすると、あのとき母が何か力を使っていたという噂があったのを思い出す。詳しくは聞いていないが、近所の人たちが「あの家は何か怖い力を持っている」とひそひそ話していたことがある。ただのデマだと父は言っていたけれど、実際にこういうことが起きると、まったく笑い飛ばせない。


「ほんとにわからない。今のは偶然だろ」

「偶然で人が空中に止まるわけないでしょ。何度も空想してみたけど、実際に経験するのは初めて」

「そりゃそうだ」


 凛の声が少し震えているのを感じて、僕はなんとか落ち着こうと深呼吸する。

 校舎の屋上には夕暮れが迫っていて、気温も下がり始めている。日が落ちたら人気もなくなるし、あんまり長居していると先生に見つかって怒られそうだ。いや、それ以前にこの現象を誰かに見られたら大騒ぎになるかもしれない。ちょっと悪い予感しかしない。


「とにかく屋上を出よう。誰かが来たら面倒なことになるかも」


 凛を促すと、彼女はまだ少し肩を震わせているものの、こくりと頷いてくれる。僕たちは急いで扉を開け、階段を下りて人気のない廊下を足早に進む。

 先ほどの光景が頭に焼きついていて、心臓がばくばくしている。凛も同じらしく、互いに声を交わすこともできない。


 校舎の出口近くまで来たとき、突然背後から声が聞こえた。


「その力、俺に譲れ」


 低いトーンの声に思わず振り向くと、見慣れない男子生徒が立っている。

 プラチナブロンドの髪と鋭い灰色の瞳。身長は僕より少し高いくらいかもしれない。

 少なくとも同じ学校の生徒には見えない。それに、今の言葉はなんだ? 何を譲れだって?


「誰だお前」


 僕が思わず詰め寄ると、その少年――いや、同年代くらいに見えるけど――は冷ややかな目でこちらを見つめてくる。何かを見透かすような瞳だ。


「篠宮圭。お前は天宮蓮だろ」

「……知ってるのか」

「少しだけな。というか、お前の家のことは昔から聞かされてきた」


 凛が僕の腕をぎゅっと掴む。彼女は全く知らない顔だし、その少年がただ者ではないことは雰囲気でわかる。嫌な冷たい空気が流れている気がする。


「その力、いずれ誰かを殺す。だから俺が奪う」


 圭と名乗った少年は淡々と言葉を続ける。その言い方があまりに普通すぎて、逆に不気味だ。

 まるで当たり前の取引でもするかのように、命だの力だの語っている。


「悪いが訳がわからない。何を言ってる」

「お前がまだ気づいていないなら、それでもいい。ただし、いずれ俺の言ってる意味がわかるはずだ」


 そう言って圭はつっと笑う。笑っているのに少しも楽しそうじゃない。むしろ底知れない冷たさに背筋がゾクッとする。

 凛が言葉を失っているので、僕が代わりに声を張り上げる。


「僕には意味不明だ。悪いけど、力だの何だのに興味はないんだよ。そもそもそんなもの、さっきのは偶然かもしれないだろ」

「偶然? ふん、ならそう思っていればいい。それでも、お前に眠っている“言霊”の力が目覚めたのは事実だ」


 耳慣れない言葉が飛び出して、頭が追いつかない。「言霊」? そんなもの、古典とか伝承の中で聞いたことがあるような気はするけど、現実にどう関わってくるんだ。

 圭は僕の表情を見ながら、まるで何かを試すように口を開く。


「俺がここに来た目的は一つ。お前が母親と同じ過ちを犯す前に、力を回収することだ」

「母親……?」


 急に母さんの話が出てきて、息が詰まる。震災で亡くなった母と、この少年は何か関わりがあるのか。きっと、あの日の出来事と関連しているに違いない。父からはあまり詳しく聞かされていなかったけど、もしかすると母は何か特別な力に関わっていたという噂がある。それをこの圭が知っているのか。


「あんた、一体――」


 最後まで聞く前に、圭は背を向ける。廊下の窓から差し込む夕陽が、そのプラチナブロンドをぎらりと照らして、まるで残像のように彼の輪郭を歪ませているみたいだ。


「そのうちまた顔を合わせる。今はおとなしくしていろ、天宮蓮」


 それだけ言い残して、彼は廊下の先へ消えていく。僕はあっけに取られたまま立ち尽くす。凛もまるで金縛りに遭ったように微動だにしない。

 彼が去った後の廊下には、冷たい風が吹き抜けたような気配が残るだけだ。


「ねえ、今の……」


 凛が震える声で呟く。僕は声にならない返事を飲み込みつつ、彼女の肩に手を置く。さっきの落下の一件だけでも信じられないのに、それをはるかに超える謎の出現。

 言霊? 母親の過ち? 一体何のことだ。


 ぐちゃぐちゃになった思考を落ち着けるために、僕は一度大きく息を吐く。

 凛はまだ不安そうな目をしているけど、少なくともあの冷たい少年はいなくなった。


「とりあえず……帰ろう」


 時間はとっくに下校時刻を過ぎている。今ここにいても仕方ない。頭を冷やすにしても、屋上に戻ったら教員に叱られるかもしれないし、何より今日はもう色々ありすぎた。

 僕はそっと凛の手を引いて昇降口へ向かう。彼女の手はまだ少し震えている。


 胸の奥でざわざわしているものがある。それは恐怖かもしれないし、怒りかもしれない。でも、それ以上に母の名前を出されたことに対する嫌な気配を感じている。どうして彼が母を知ってるのか。本当に母が何か力を持っていたというのか。そんなこと、現実にあるのか。


 ふと左手首の火傷痕がじわりと熱を帯びたように感じて、僕は慌てて袖を握る。怖いと思いたくないのに、その感覚からは逃れられない。凛の手の温かさが、唯一の救いだ。


「大丈夫、帰ったら何か温かいもの飲もう」


 凛がそう言って、僕を見上げる。そうやってさりげなく支えてくれる彼女の存在に感謝しつつ、僕はうまく笑えないまま玄関にたどり着く。夕陽はほとんど沈みかけていて、校舎の窓ガラスに赤い光が滲んでいた。


 現実が突然歪む、そんな経験は漫画や映画の中だけだと思っていた。

 だけど、僕はほんの数分前、それを確かに目の当たりにした。凛の落下が止まり、謎の少年が僕の母親に言及した。すべてが繋がりそうで、でも真実からは程遠い。

 頭の中が一杯で、うまく言葉にできない。凛とどんな会話をしても、まともに意識が追いつかない。


 だけど、ひとつだけはっきりしている。何かが始まった。平凡を望んできた僕の生活が、大きく揺さぶられようとしている。

 それを甘んじて受け入れるか、拒むかは、きっと僕自身の意志次第だ。だが、まだどうするべきかはわからない。


 僕は靴を履き替え、凛の顔をチラリと見る。彼女は疲れたような笑顔を浮かべている。言いたいことはたくさんあるけれど、言葉がまとまらない。とにかく今は、家に帰って頭を整理するしかないと思う。


 昇降口の扉を開けたとき、最後に背後の廊下を振り返ってしまう。何かが変わってしまった気がして、後戻りできないという胸の高鳴りがあった。窓から差し込む夕暮れの光だけが、静かに床を染めている。そこにはもう誰もいない。


「帰るぞ、凛」

「うん」


 小さな声で返事をする彼女を連れて、校舎を後にする。頭の中で繰り返し響く言葉がある――“言霊”。あの少年――篠宮圭は確かにそう言った。その意味を知るのが怖い。でも、避けて通れるものでもないだろう。母が残した影を、僕は嫌でもこれから追わされることになるのかもしれない。


 夜風が少し強まってきた気がする。鳥肌が立つほどの冷たい空気だけど、凛が隣にいるからまだ耐えられる。彼女の温もりを感じながら、僕はどうにか足を進める。何の変哲もないはずの帰り道が、やけに長く感じられた。

 日常と非日常の狭間で揺れる僕は、これからどうなるのか――いや、考えても答えは出ない。


 そのときだけは、そんな些細な不安すら大きなものに思えていた。とにかく、凛を怪我なく救えたという事実がある。それをどう説明するかなんて、今はわからない。

 だけど僕の中で確かに“何か”が目覚めたのは事実だ。

 母さんが残した傷跡とともに、すべての歯車がゆっくり動き出したのを感じる。


 遠くの空はすっかりオレンジを通り越して、紫がかった深い青へと変わりつつある。冷え込む風と校舎の影が長く伸びて、妙に不安をかき立てる。だけど、凛が僕の腕を離さない。彼女の手の温かさだけが、この不可解な状況に踏み止まる勇気をくれている。


「蓮、ありがとう」


 ふと凛が微笑む。僕には何も応えられない。むしろ彼女の方こそ危険な目に遭ったのに、そんな言葉をかけてくれることに戸惑う。僕は少しだけ笑ってみせる。どうしようもない不安を隠すには、それしか方法がないから。


 帰宅すると、父はまだ仕事らしく家には誰もいない。ふだんは気楽でいいけど、今日はどこか頼れる人が欲しかったような気もする。もしかしたら父なら、母について何か知っているかもしれない。でも、あえて聞くのが怖い。無性に胸がざわつく。


 シャワーを浴びて布団に潜り込んでも、凛が落ちたあの瞬間や圭の言葉が頭を離れない。まぶたを閉じても何度も思い出されて、そのたびに心臓が嫌な音を立てる。天井を見つめながら、気づけば夜が深くなっていた。眠れそうにない。けれど、ぼんやりしているうちにまぶたが重くなり、意識が遠のく。


 そして静かな闇の奥で、母の声が微かに聞こえた気がする。

 震災の瓦礫の中で、僕を守ろうと必死に呼びかけていた、あの声だ。揺れる記憶の片隅で、母は確かに僕の名を呼んでいた。


 けれど、それが何を意味するのかはまだわからない。

 僕はただ、薄れる意識の中、左手首の火傷痕に触れながら眠りに落ちる。

 あの時の炎と、母の温もりを同時に感じるような、不思議な感覚のまま――。

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