8.令嬢、来たる
町を歩いていたディディを呼び止めた、一人の令嬢。彼女は淡い金髪をふわりと垂らして、明るい紫色の目でディディをじっと見つめていた。少々質素ながらも、まとっているのは貴族の略装だ。
彼女の背後、少し離れたところには、旅に向いた頑丈なつくりの馬車が停まっている。
「……わたしは、ずっとあなたを探していました」
こわばった顔で、令嬢はそう言い放つ。こんな田舎の小さな町にはまるで縁のなかった光景に、町の人間たちが呆然と立ち尽くしている。
しかしディディはあくまでのんびりと、小首をかしげている。
「わざわざこんな田舎まで、わたくしを追いかけてくる、ねえ……心当たりが全くないのだけれど。そもそもあなた、誰だったかしら?」
「サリエラ・ライエルです。ライエル男爵家の」
そう名乗る令嬢の声は、かすかに震えていた。リックと荷車を引いていた三兄弟が、何事だろうと視線を見交わす。しかしリタは、涼しい顔をしていた。
「ああ、思い出したわ。あの時のお嬢さんね。……何をしにきたのか知らないけれど、こんな田舎までご苦労様」
納得した顔で、そう答えるディディ。その優雅な笑みは、この場の困惑に満ちた、緊迫した空気にはまるでそぐわないものだった。
それから、少しして。ディディは屋敷の応接間で、サリエラと向かい合ってお茶を飲んでいた。来客ということもあって、リタとリックは給仕として横に控えている。
いつもはお茶に参加しない三兄弟までもが、使用人を装って部屋の片隅に行儀よく立っていた。ディディとサリエラの関係が気になって、立ち聞きすることにしたらしい。ディディはおかしそうに笑いを噛み殺すだけで、彼らのそんな行いを止めることはなかった。
サリエラは緊張を隠せない顔でお茶を飲んでいたが、やがて顔を上げ、ディディを見つめた。
「わたし……いつかまた、どこかのお茶会か舞踏会であなたにお会いしたいって、そう思っていたのです」
そう語るサリエラに、みなの目が集中する。たじろぎつつも、彼女はさらに言葉を続けた。
「……どうしても、あなたにお礼を言いたくて」
彼女の態度とはまるで逆のそんな言葉に、リックと三兄弟が無言のまま目を見張る。そんな彼らを横目に見て、リタがかすかに口元をゆがませた。笑いをこらえているらしい。
そしてディディはすっと目を細め、にやりと笑ってサリエラを見つめた。面白がっているようなその表情には、何とも言えないすごみがあった。
「お礼? 恨み言の間違いではないかしら」
恨み言。ディディがさらりと言い放ったその言葉に、隅っこで三兄弟が震え上がる。
「やっぱり女王様、恨みを買うようなことしてたのか……?」
「いやあっちの子、お礼って言ってたぞ?」
「何がどうなってるんだ?」
すかさず、リタが無言で三人をにらみつける。すると、三人ともぴたりと口を閉ざして背筋を伸ばした。
「恨み言なんて、そんなこと! いえ、最初は……ありましたが……でも!」
テーブルの上でぎゅっと両手を握りしめて、サリエラは懸命に主張する。やっぱりあったんだな、と三兄弟の誰かがぼそりとつぶやき、またしてもリタににらまれていた。
「……ディディ様が、その悪事によりルシェンタ殿下との婚約を破棄され、遠くの町に追いやられたと聞いて、わたし、いてもたってもいられなくて……それで、急いでここまで……」
うつむいて語るサリエラの声に、次第に力がこもっていく。
「あれは、何も知らない人間が見れば悪事だと思えたでしょう。でもわたしにとっては、違ったんです!」
そうして、サリエラははきはきと話し始めた。かつて彼女とディディとの間にあった、一連のできごとについて。
◇
それは一年前、十六歳になったサリエラが社交界デビューを果たした舞踏会でのこと。
しかしサリエラは、年の近い令嬢たちが集まって話しているのを遠巻きに見ていることしかできなかった。
彼女は小さい頃から引っ込み思案で、自分の意思を主張するのがとても苦手だったのだ。それは成長した今でも、変わらないままだった。
それでも、どうにかして友人を作らなくてはいけない。そう思っていたものの、サリエラは会場の壁際を離れることができず、ただひたすらに困り果てていた。
だがそんな彼女に、やがて数人の令嬢たちが話しかけてきたのだった。
「あの時わたしは、嬉しかったのです。こんなわたしのことを気にかけてくれている人がいるんだって、そう思えましたから」
そうしてサリエラは、彼女たちと友人になった。一緒にお茶をしたり、買い物をしたり。
「最初は、とても楽しかったのです。ですが次第に、風向きがおかしくなっていきました」
彼女たちはサリエラに、あれこれとおねだりをするようになったのだ。
ちょっとした物を譲って欲しいという要望から、豪華なお茶会を開いて自分たちを招待して欲しいという面倒なものまで。要求は、どんどん大胆になっていった。
「仲間に入れてもらったのだから、そういったことをこなすのも当然なのだ。あの頃のわたしは、そう信じて疑わなかったのです」
当時の彼女は違和感こそ覚えていたものの、気づいてはいなかった。自分に近づいてきた令嬢たちは、最初から自分のことを利用するつもりだったのだということに。
「けれど、そんなある日のことでした。わたしとその方々が話しているところに、ディディアルーア様が近づいてきたのです。女王のような、悠然とした足取りで」
あなたたち、みんな目障りよ。それが、ディディアルーアの第一声だった。
自分からは何も言い出せない弱虫に、甘い汁を吸おうとする害虫がわらわらたかって。見苦しいったらありゃしないわ。
たくさんの出席者がいるお茶会の場で、ディディアルーアは堂々とそんなことを言ってのけたのだ。近くにいる者が全員振り向くほどの、はっきりとした声で。
当然ながら、害虫呼ばわりされた令嬢たちは面白くない。しかし、公爵家の令嬢であるディディアルーアに正面切ってたてつくほどの度胸もない。
結局彼女たちは「素晴らしいお方に援護してもらえてよかったわね!」と捨てぜりふを残して、サリエラのもとを去っていった。
「そうしてわたしは、また一人きりになってしまいました。けれど不思議なくらい、胸がすっとしたのを覚えています。その理由をはっきりと自覚したのは、もっと後のことでしたが」
そうしてぽつんと残されたサリエラは、戸惑いながらもディディアルーアに声をかけたのだった。ディディアルーアその人に対しての興味が、人見知りのサリエラを突き動かしたのだ。
「あなたはどうして、このようなふるまいをなさるのですか。震える声でそう尋ねたわたしに、ディディアルーア様はびしりと言われたんです……ああ、今思い出しても麗しい、凛々しいお姿でした……」
『あなたは友人が欲しかった、でもどうやって友人を作ればいいか分からなかった。そうではなくって?』
『欲しいものがあるのなら、もじもじしていないで踏み出しなさい。黙って口を開けていれば木の実が落ちてくるなんて甘い考えにすがっていても、ろくなことにはならないわ。今回のことで、よく分かったでしょう?』
ディディアルーアは言うだけ言うと、さっさとサリエラの前を去っていったのだった。
それからしばらく、サリエラはぽかんとしていた。自分は何を言われたのか、うまく呑み込めないまま。
やがて、近くで様子を見ていた令嬢たちがサリエラに近づいてきた。色々大変な目にあってたみたいだけれど、大丈夫? と、彼女たちはサリエラのことを気遣ってくれた。それをきっかけとして、サリエラは彼女たちと友人になることができたのだった。
◇
「……これが、わたしとディディアルーア様との間にあったことの全てです」
一通り話し終えて、サリエラがうっとりとため息をついた。三兄弟が小声で「貴族って面倒なんだな」「女王様は前からああなんだな」「というか、強ええよ女王様」などとこそこそささやき合っている。
「それからしばらく、わたしはディディアルーア様のことを疎ましく思っていました。いきなり現れて、わたしたちを罵倒して、と」
その頃のことを思い出しているのだろう、サリエラは恥じ入るような表情でうつむいた。
「新しい友人たちから『あの方は気まぐれでメイドを全部解雇してしまうような、恐ろしい方よ』と聞いていたから、余計に……」
「まあ、それが当然の反応でしょうね。だからこそ、このキスカの町まであなたがやってきたことに、大いに驚いているのだけれど」
ほんの少し呆れたような声音で、ディディが頬に手を当てる。
「ですがじっくりと考えているうちに、こう思うようになったのです。あの方は言い方こそきつかったけれど、言っていることに嘘はなかった、と」
どことなく弱々しかったサリエラの声に、熱がこもっていく。
「わたしは確かに、弱虫でした。周囲の人間が真の友ではないと気づきながら、一人になるのが怖くて目を背けていました。あの時、ディディアルーア様が割って入ってくださらなかったら、きっと今でもわたしはあの偽物の友人たちに好きなように扱われていたでしょう」
それを聞いたディディの口元に、かすかに笑みが浮かんだ。
「ディディアルーア様は、わたしにとっては大切な恩人なのです。だからいつか、お礼を言いたかった。けれどあれ以来、お目にかかる機会がなくて……こちらからおうかがいしようにも、家の格が違い過ぎて……」
熱心に語っていたサリエラが、ふとしょんぼりしたように肩を落とす。
「……そうこうしていたら、ディディアルーア様が婚約破棄され、田舎に追放されたのだと、そんな話を聞いて……」
しかしまた次の瞬間、彼女はばっと顔を上げた。
「だからわたし、決めました。こうなったらこちらからディディアルーア様に会いにいって、あの時のお礼を言おう。そうして、あの方のお力になろう。恩を返そう、と」
そうして彼女は、ディディに向き直る。ディディと、その隣のリタがちょっぴり身構えていることにもお構いなしに。
「ディディアルーア様、あの時は大変お世話になりました。ありがとうございます。そして、どうかわたしもここに置いてはもらえないでしょうか!」