35.新たな一歩を
手紙を読み終えたディディは、顔色一つ変えずに手紙を机の引き出しにしまい込んでしまった。そうして、大げさに肩をすくめる。
「このキスカの町が、わたくしのもの、ね……つまりわたくしは望むだけ、この町にいられる。というか、もう戻るところはなさそうね」
普段と同じ声音で、さらりとディディはそんなことを言っている。
「正式にあの家と縁が切れるというのはありがたいけれど。これでもう、親の顔色をうかがわなくて済むから」
しかし周囲のみなは、すっかり押し黙ってしまっている。普段はディディと一緒になってシャイエン家の悪口を言っているリタや、ディディの詳しい事情を知らない三兄弟たちですら、何も言えずにいた。
「という訳で、わたくしはこれからもここで暮らすわ。町の人たちとの関係も良くなったし、アンガス伯爵のおかげで流通も安定した。すっかり住み心地も改善された」
にっこり笑ったディディの目元が、かすかに揺らぐ。
「……けれど、いつまでもあなたたちをここに縛りつけておくのもなんだから、それぞれ好きな時に出ていってくれていいわ。人手が足りなくなったら、町の人に頼むから」
彼女はその言葉を、やはりあっさりと口にした。自分は何一つ気にしていないのだと、そう証明しようとしているかのように。
いつも軽やかなリックの表情が暗い。泣きそうなサリーを、ジョイエルが支えていた。
何ともちぐはぐな空気の中、唐突にルシェが動く。そうして、ディディの前にひざまずいた。緊張に震える声で、彼は言い放つ。
「……ディディ。どうか私と、婚約してくれないか」
誰一人予想していなかった言葉に、全員が目を丸くしてルシェを見つめた。
「まさかとは思うけれど、この事態についての責任を取ろうとか思ってるの? いらないわよ、そんな気遣い。わたくしはこうなってよかったと思っているのだから」
あわてて言葉を返したディディだったが、彼女ですら動揺を隠し切れていなかった。いつもあでやかなその声は、見事に裏返ってしまっている。
「違うんだ。ずっと前から、申し出ようと思っていて、言えなかった。……それに」
ルシェはうつむいて背中を丸め、自信なげにつぶやいている。リタたちは固唾を呑んで、ひたすらになりゆきを見守っていた。
「……実は、父上に掛け合い、このキスカの町を君のものとするよう頼んだのは私なんだ。ここは君が自由に過ごせる、大切な場所だと思ったから……」
ディディの鮮やかな青の目が、まん丸になる。彼女は食い入るように、ずっと下にあるルシェの白金の髪を見つめていた。
「私はこの町で、自由に暮らす君を見ていたい。そんな君を支えたい。前の騒動からずっと、その思いは増すばかりで……そのためにできることを考えたら……こうなった。だがまたしても、私はしくじってしまったのかもしれないが」
またしてもとんでもない告白に、リックとジョイエルが無言で視線を見かわす。
「気にしないの。結果としては、まあまあいい感じなんだから。それよりも、その無駄に思い切りのいいところ、相変わらずなのねえ。いえ、磨きがかかったというべきかしら」
少し呆れたような表情で、しかし軽くディディは笑い飛ばす。キスカの町について、そしてわたくしのこれからについての話はここで終わりよと、そう言いたげな声で。
しかしルシェは難しい顔のまま、首を横に振る。
「いや、私は……臆病者だ。ずっと自分の心に目を背け、真に告げるべき言葉を押し込めてしまうくらいには」
ルシェはそうつぶやくと、ゆらりと立ち上がった。
「今まで、一度も伝えられなかった……本当は、最初に伝えておくべきだったのに……機会は、何度だってあったのに」
かすかに唇を震わせながら、ルシェはディディの目をまっすぐに見つめた。珍しくも、ディディのほうが圧倒されているようでもあった。
「ディディ。私は、君に……憧れていた。初めて君に会った、その時からずっと。そしてその思いは、いつしか恋慕の情に変わっていた」
その甘い告白に、リタとサリーがうっとりとしたため息をついた。もちろん、懸命に気配を殺したまま。
「できることなら『愛している』と告げたかったが……そんな図々しいことが言える立場でもないからな、私は」
ルシェの表情が、ふっと自嘲の笑みにゆがむ。かすかに視線をそらし、目を伏せる。
「かつて私は、真実を見極めもせずに君を捨てた。それもあって、君が私に幻滅していることも分かっている」
そしてまた、彼の視線がディディに向けられた。
「だが私は、変わっていきたい。いや、変わってみせる。だからどうか、やり直すための機会が欲しい……一度だけで、いいんだ……」
苦しげに言葉を紡ぎきって、ルシェは口を閉ざす。哀願するような目で、じっとディディの返事を待っていた。
一方のディディは、ルシェから目が離せなくなっていた。
彼がこの町に来てすぐにこんなことを言い出したのであれば、即座に断っていただろう。彼女にはそんな確信があった。
しかしルシェは、この町で暮らすうちに変わっていった。先日の騒動の際、彼は町に戻るためだけに危険を冒して崖を登り、そして争いを終わらせるためにベルストと戦った。
以前の彼なら、そんなことはしなかった。危険な行いも、王の命令に逆らうことも、王子としてふさわしい行いではないからだ。
しかも彼は、この町に、ディディのそばにいるために、王太子の座を投げ捨てると宣言していた。
そういったあれこれが、ディディの脳裏に次々と浮かんでは消える。
「…………ああもう、分かったわよ」
ディディが困ったように息を吐き、それからすっと手を伸ばす。そうして、ルシェの首元のスカーフを外した。その下からのぞくのは、あの青いリボン。
「……そのリボンに免じて、その申し出を受けてあげるわ。ただし、また馬鹿な真似をしたら、今度こそ容赦なく町の外に放り出すわよ?」
彼女の言葉の後半は、ルシェの耳には入っていないようだった。彼はぱあっと顔を輝かせ、潤んだ目でディディを見つめていたのだ。感動と喜びだけを、顔いっぱいにたたえて。
「ああ、ありがとう……今度こそ、間違えない。ずっと君のそばにいられるよう、全身全霊をもって努力する」
その喜びっぷりにディディは戸惑いつつも、ちょっと視線をそらして小声でつぶやいた。
「……それにあなた、もう変わったわ」
「ん? 何か言っただろうか、ディディ」
「いいえ、何も」
澄ました顔で答えるディディと、そんな彼女を愛おしげに見つめるルシェ。
どうやら話はまとまったようだと、リタたちはほっと胸をなでおろしながら静かに部屋を後にした。晴れて元のさやに納まった二人を、そっとしておくために。
そういえばあのリボンって、結局何なのでしょう? どなたか、ご存知ですか? というサリーの声と、知らない、というみなの声が廊下にこそこそと響いていた。
そうして、ディディはキスカの町の領主となり、ルシェと再度婚約することが決まった。ルシェは王太子の座を投げ打つ覚悟を決め、キスカの地で彼女を支えることにした。
今度こそ、平穏が戻ってきた。
……と、誰もが思っていた。一人を除いて。
「こうしてみなに集まってもらったのは、他でもない。ディディのことだ」
ルシェが真剣な顔で周囲を見渡し、声をひそめてささやく。
彼がいるのは、町の東の崖の下、町からは見えないところだった。彼はここに、仲間を呼び集めていたのだ。ディディ以外の全員を。
しかも、それぞれに別の理由をつけてばらばらに屋敷を出るように仕向け、ディディに見つからないように集合させるという念の入れようだった。
さらに彼は抜かりなく、町の子供たちにディディの足止めを頼んでいた。おそらく今頃、彼女は転移の魔法を活用して子供たちと遊んでやっていることだろう。
そうやって、仲間たちと秘密の話をするための状況を整え終えたルシェは、やけに深刻そうな声で言い放った。
「みなも知っての通り、私は父上に掛け合って、キスカの町が彼女の居場所となるよう計らってもらった。でも、それだけでは足りない。先日、シャイエン公爵の書状を見て、そう確信した。なぜなら」
彼の言葉に、みなは引き込まれるように身を乗り出した。彼はその視線を受け、短く言い放った。
「ディディはまだ、不自由なままなのだから」




