30.彼の本気
ディディの転移の魔法により、キスカの町を追い出されたルシェ。彼は大いに驚きながら、周囲の王国兵を見渡した。
「感謝いたします、ディディアルーア様」
そう言ってベルストが町に向かって頭を下げ、それからルシェに向き直る。
「さあ、戻りましょう、ルシェンタ様」
しかしルシェは、返事をしない。やがて彼は、小声でつぶやき始めた。
「……私は、王太子だ。しかし、それだけだ。みなのような取り柄がある訳でもなく、誰かと心からの信頼関係を築くこともできない」
ベルストたちはじっと黙って、彼の言葉を聞いている。キスカの町も、すっかり静まり返っていた。
「だが私は、そんな自分を変えたいと、そう思う」
ルシェの声が、大きくなっていく。頼りなげだった声音が、張りのある、高らかなものに変わっていく。
「この町で、彼女たちと共に暮らすようになって、私はたくさんのことを知った。少しずつではあるが、変わりつつあると思う」
その言葉に、王国兵たちは聞き入っていた。自分たちの未来の主君は、こんなにも立派な雰囲気をたたえている人物だっただろうかと、内心ひそかに感心しつつ。
「だから、私はここを離れる訳にはいかない。……離れたくない」
ほんのり切なげに言葉を添えると、彼はいきなり叫んだ。
「それに私は、ディディの犬なのだ!!」
言うが早いか、ルシェは首に巻いていたスカーフをむしり取る。その下、開いた首元には、鮮やかな青いリボンが結ばれていた。
町のほうから、「何恥ずかしいこと叫んでるのよ、というかまだそれ持ってたの!?」というディディの叫び声が響く。彼女にしては珍しく、大いに動揺して上ずった声だった。
ルシェはそちらを見て微笑むと、突然走り出した。町の入り口ではなく、そのすぐ西の下り坂へ。
一瞬遅れて、王国兵たちがルシェを追いかける。しかしこの町で暮らし、この辺りの地形についても頭に入っているルシェは、王国兵たちの追跡をやすやすとまいていた。リタとリックにあれこれと教わっておいてよかった、などとつぶやきつつ。
そうして彼は、西の谷川までやってきた。崖の上にはディディや町の人間たちが集まり、どうなることやらと下を見つめている。
追いかける王国兵、見守るディディたち。驚くほどたくさんの視線を集めたまま、ルシェはこの場の誰もが予想していなかった行動に出た。
なんと彼は、いきなり崖を登り始めたのだ。真上に見える、キスカの町を目指して。上と下から、同時に悲鳴が上がる。
「ちょっとルシェ、危ないわよ!」
崖の下をのぞき込んで、ディディが叫ぶ。
「ああ。だが、これなら兵士たちは追ってこられない……それに、わがままを通そうというのなら、これくらいの無茶は避けて通れないだろう?」
少しずつ、しかし着実に崖を登りながら、ルシェが答える。
王国兵たちは、崖を登ろうとはしなかった。うっかり崖の途中でルシェに触れでもしたら、彼を落としてしまうかもしれない。だから彼らは崖の下で固まり、万が一に備えることしかできなかったのだ。
そしてキスカの町は、すっかり騒がしくなってしまった。このままだとルシェが危ない、綱か何か垂らしたほうがいいんじゃないか、そんなことを言い合う声と、様子を見にきた女性や子供たちの叫び声で。
しかしディディは、口を閉ざしていた。彼女はひどく真剣な顔で、じっとルシェを見つめ続けていた。彼女の周囲にはリタたちも集まり、静かになりゆきを見守り続けていた。
ディディは、ルシェをまた下まで飛ばすことができる。あるいは、この町まで引っ張り上げることもできる。けれど彼女は、動かない。
そしてルシェもそれ以上何も言わずに、ただひたすら登り続けた。途中何度か足を踏み外しかけ、つかんだ小石が岩壁から外れた。さらに大きくなる悲鳴の中、それでもディディは動かなかった。
まるで無限のように感じられた時間の後、ついにルシェの右手が崖の上の柵をつかむ。続いて、左手も。そうして彼は柵を越え、再びキスカの町に降り立った。
「……本当に危なくなったら、転移の魔法で助けてあげようかと思っていたけれど……不要だったみたいね」
「ああ。この試練は私一人の力で乗り越えてこそだと、そう思った。だから君を頼らずに済むよう、慎重に登ったんだ」
命がけの崖登りを、試練なのだと言ってのける。その図太さに、ディディは目を丸くした。明らかに、ルシェのことを見直したという表情だった。
「……あなたにここまでの根性があるなんて、知らなかったわ」
「実は、自分でも驚いている。きっと、君と共にここで過ごしているうちに、私は強くなれたのだろう。心身ともに。そして、ここにいたいという思いがさらなる力をくれた」
「そうかもね。……けれどそれでも、本当はベルストたちと一緒に王宮に戻るのが正しいんだって、分かっているわよね?」
「ああ。それでも、私は戻りたくない。君のそばにいさせてくれ」
「でも、そうすると代わりに色々失うわよ?」
「元より、覚悟の上だ」
白い歯を見せて、さわやかに笑うルシェ。緑の草の香りをはらんだ風が、彼の白金の髪をさらりとなびかせた。
崖を登っている間にシャツはあちこち裂け、ズボンもすっかり汚れてしまっている。爪は割れ、手にはすり傷ができていた。
そんな痛々しい姿だというのに、彼はこの上なく幸せそうに見えていた。少なくともディディには、そう思えてならなかった。
「……リボン、ほどけかけてるわよ。本当にもう、物持ちがいいんだから」
ディディは、ルシェの笑顔をまぶしいと思ってしまった。今まではただ生真面目なだけの甘い王子だと少々あなどっていた相手の、意外にもたくましい一面を目にしたことで、ディディはひそかに動揺してしまっていたのだ。
そしてその動揺を隠すように、彼女は手を伸ばしてルシェの首のリボンを結び直してやる。もっとも、彼女は照れを隠し切れていなかったが。
「ありがとう、ディディ。君からもらったものだから、身につけておきたかったんだ」
さらに嬉しそうに礼を言うルシェ。それを見て、ディディは苦笑する。
「……こうなったからには、こちらもいい加減覚悟を決める時……かしらね。リタ、リック、王国兵はまだ町の中には侵入していないわね?」
にやりと笑って、ディディは肩越しに呼びかける。双子は声を揃えて、はい、と叫んだ。
「それじゃあ、久々にとびきりの『悪事』としゃれこみましょうか。わたくしたちの仲間を守るために」
その言葉に、みなが彼女を見る。リタにリック、サリーにジョイエル、ゼストにレストにシスト、そして町の人間たち。みな、期待に目を輝かせていた。少し前までの動揺は、もうみじんも浮かんでいなかった。
「みんな、準備しておいた通りにね!」
ディディの高らかな合図に続いて、みなは町のあちこちに駆け去っていった。




