22.自由な王子様
食後、ルシェは屋敷の一室にいた。リタに案内されてやってきたのは、きちんと整えられた客間だった。
「ルシェ様がこちらに滞在される間は、この部屋をお使いください」
「ああ、ありがとう。……ずいぶんと居心地のよさそうな部屋だが、私が使ってしまっていいのだろうか?」
部屋を見渡しながらつぶやくルシェに、リタが即座に答える。
「そのことについて、ディディ様から伝言です。『あいにくと、この屋敷に犬小屋はないの。だから空き部屋を使ってちょうだい』とのことです。それと『別に巣でおとなしくしている必要はないわよ。食事時以外は、好きに過ごして』とも」
そう話しているリタの表情には、呆れたような色がはっきりとにじんでいた。しかしルシェは気にした様子もなく、分かった、と明るい笑みを返している。
「……あの……私もずっと気になっていたんですけど、本当に、本当にその……犬って設定、続けられるつもりですか……」
ためらいがちに、この上なく複雑な顔で問いかけるリタに、ルシェはさわやかに笑って答えた。
「ああ。それこそが、私がここに滞在するための条件だから」
「……ディディ様、あなたのことを追い払いたくてああ言ったんですが……」
「それでも、引きたくはなかった。彼女のそばにいられるのなら、多少の苦行には耐えてみせる。いや、耐えるべきなんだ……私は、彼女にそれだけのことをしてしまったのだから」
かつて彼女の行動をよく調べもせず、一方的に婚約を破棄したルシェ。彼の顔には、そのことを悔いている色がありありと浮かんでいた。
「……それだけの覚悟があるのでしたら、私からはもう何も言いませんが……先ほどリックが宣言したように、私もその設定、無視しますので」
きっぱりと言って、リタが出ていく。そうして一人になると、さっそくルシェは動き始めた。
まずは部屋の中を一通り確認して、それから屋敷の中もぐるりと見て回る。途中、物珍しそうな顔の三兄弟と出くわしたが、彼らは目を真ん丸にしたままそそくさと逃げていってしまった。
それでも、ルシェは止まらない。楽しそうな笑みを浮かべたまま、浮かれた足取りで屋敷の外に出る。さらに、庭を突っ切って。
「……ここが、キスカの町か……あまりに小さく、しかし穏やかだ……」
屋敷の庭の一角、キスカの町が見下ろせる崖の前。そこにたたずんで、ルシェは目を輝かせていた。白金の髪を風になびかせ、うっとりとした目で町を見つめている。ほうというため息が、その口から漏れた。
しばらくそのまま、町を眺め続けて。そして唐突に、彼は歩き出した。屋敷の前の下り坂、町の中に続く道を。
「……行ったわね」
と、屋敷の窓からディディがひょこっと顔を出す。また何か面倒なことが起こるのではないかと、警戒しているような表情だった。
「はい、行きましたね。自由にしていいって言ったとたんこれですか」
「それにしても、ご機嫌ですね……というかルシェ様、鼻歌、歌ってませんでした?」
さらにそのそばには、リタとリックも。
「町に下りられた、ということは……ルシェ様はみなの話を聞きたいと思っておられるのでしょうか」
「わたしもそう思います、ジョイエル様。……うふふ、町の方々がディディ様をたたえ、その話を聞いたルシェ様が感心される……その様が、目に浮かぶようです」
三人のすぐ隣の窓では、ジョイエルとサリーがそんなことを口にしていて。
「サリー様、女王様のこととなると変わるよなあ」
「リタさんも割とそうだけどな。それに、ジョイエル様も少々」
「でもさ、たぶんあの王子様が一番変わったんじゃねえかって気がする……」
そうやって外を見ている五人を眺め、三兄弟がしみじみとつぶやいていた。
屋敷のみなにそんな風に噂されているとはつゆ知らないルシェは、そのまま町の中心に向かって歩いていく。とても物珍しそうに、きょろきょろと辺りを見渡しながら。
そして町の人間たちは、そんなルシェを遠巻きにしていた。ちょうど、初めてディディが町に下りてきたあの日のように。
しかしルシェもかつてのディディと同様、そんな視線は全く気にしていなかった。幸せそのものの笑みを浮かべて、素朴な町並みに優しい目を向けている。
実のところ町の人間たちは、彼の王子という肩書以上に、その奇妙な態度に面食らっているのだった。
ふらふらと歩き回るルシェと、戸惑いながら距離を置く町の人間たち。その均衡は、しかしじきに崩れることになった。
「あれ、まあ……」
ルシェがちょうど一軒の民家の前を通りがかった時、玄関の扉が開いた。そうして出てきた若い女性が、ルシェを見て目を丸くする。
彼女は買い物にでも行こうとしていたのか、片手に大きな袋を提げている。反対の腕で赤子を抱え、さらに四、五歳くらいの男の子が、彼女のスカートをぎゅっとつかんでいた。
町の人間たちの中でもさらに素朴な身なりの彼女は、ルシェを見つめて目を真ん丸にした。
「あんれまあ、王子様ってのはこんなに綺麗なんだなあ! ディディ様もとおってもお綺麗な方だけど、こちらもおんなじくらいお綺麗だあ!」
その言葉に、ルシェがほんの少し頬を染める。自分の容姿についてはさほどこだわりがない彼だったが、ディディと並べて称賛されたことが、嬉しかったのだ。
「ありがとう。私はそのディディについて知りたいのだが、少し話を聞かせてもらえないだろうか」
彼の頼みに、女性は少し考え込む。
「お話するのはええんですけど……おら、早く買い物に行かねえと……うちの人が帰ってくる前に、晩飯こさえなきゃなんねえんで」
「ならば、歩きながらでも構わない。そうだ、荷物は私が持とう。話してもらう謝礼代わりに」
「いやあ、それは申し訳ねえだ。王子様に、そんな……」
「私のことは王子だと思わなくてもいい。それに、君は二人も子供を連れているだろう。どうか、助力させてくれ」
そうして、さわやかな笑みと王子ならではの押しの強さで話をまとめ、彼は女性と子供たちと一緒に歩き出す。
「そんで、ディディ様のことって、何を話せばいいんでしょう?」
「何でもいい。彼女がこの町に来てから今までの間にあったこと、それについて君がどう思ったか、そんなことを聞かせてもらえるとありがたい」
そう答えて、彼は女性の話に耳を傾ける。彼女が来て間もない頃のぎこちない空気、町の鼻つまみ者を飼い慣らしてしまった手腕、そして増えていく貴族。
「ほんでディディ様たちは、おらたちの悩みごとを解決してくれるようになって……街道が通れるようになった時は嬉しかったなあ。隣の村、おらの妹が嫁いでるんです。あの街道が使えないと、とっても不便になるんですよう」
その時のことを思い出しているのか、女性はほっとしたように目を細めている。
「ああそうだ。こないだ、畑を荒らすイノシシをディディ様が狩ってくれたんですよう。そのあと、町のみんなでイノシシ鍋にして……あれは本当においしかったです。おかげで、お乳もよく出るようになって……」
「そうか、聞いているだけでこちらの心も浮き立ってくる。やはりここは、いい町なのだな。ディディがすっかりここになじんだのも、分かる気がする」
「いんやあ、ただの田舎ですよう。人より獣が多いくらいの。でもおらたち、みんなディディ様のことが大好きなんです」
いつの間にかルシェは女性とすっかり打ち解けて、買い物を済ませると荷物を彼女の家まで運んでいった。王宮にいた頃彼の眉間によく浮かんでいたしわは、影も形もなかった。
そんな彼を、こっそりと物陰からリックが見張っていた。万が一何かが起こった時に備えて、尾行していたのだ。
「まあ、あれなら大丈夫か……考えてみれば、貴族っぽい人間が暴走するのには慣れてるんだよな、この町の人間は。前にサリー様が豪快に引っかき回してくれたおかげで」
ぽりぽりと頭をかきながら、それでもリックは尾行を続けている。ルシェ様、いい笑顔してるよなあと、そんなことを思いつつ。




