20.とんでもない願い
朝早くにど田舎のキスカまでやってきたルシェ王子が、ここに残りたいと言い出した。
誰一人として予想していなかった事態に、場が凍りつく。
「……ええっと、今、とんでもない言葉を聞いた気がするのだけれど……」
それでもどうにか立ち直ったディディが、困惑した視線をルシェに投げかける。
「私はここで、君のそばで暮らしたい。君が気に入ったという、ここでの暮らしを知りたい。今の、自由に生きる君を知りたい、君に近づきたい」
しかしルシェは、ひとかけらの迷いもない言葉を口にした。少し遅れて、周囲がざわめき始める。ルシェのそばに控えた、王国兵たちまで。
すっかり騒がしくなってしまった中、ディディとルシェはもう少し近づいてささやき合う。
「見ての通り、ここは何もない田舎よ? 王子をもてなせるようなところなんてないから、帰ったほうがいいわ」
「構わない。無理を言っているのは私だと分かっている。だから、もてなしなど要求しない。ただ、滞在させてもらいたいだけなんだ」
「こんな田舎でぼんやりしていたら、王太子の座から降ろされてしまうかもしれないわよ?」
「それでも、君と離れてしまうよりましだ」
ディディの説得にも、ルシェは揺るがない。これは本格的にまずいことになったと、ディディは内心大いに焦っていた。
駄目だわ、これ。どう説得しても帰ってくれなさそう。実力行使……は避けたいし。ディディは心の中で、そんなことをつぶやく。眠気のせいで、頭がうまく回っていなかった。
「ディディ様、あれ、どうしましょう……」
「どう考えても、あれをここに置くのはまずいと思いますよ」
そうしていたら、リタとリックがディディに近づき、そっと耳打ちしてきた。堂々と王子をあれ呼ばわりしている。二人とも、それくらいに動揺していたのだ。
「あの方がおられたら、ディディ様も窮屈なのではないでしょうか……」
「ああ、僕もそう思います。もてなしは不要だと言われても、どうしても気は遣ってしまいますし」
続いて、サリーとジョイエルもやってきた。
「女王様を追いかけて王子様がやってきた、か。すげえな」
「この町に王子様が来るって、初めてだよな、間違いなく」
「さすがに、あんな偉い人を町に置いとくのはまずいんじゃねえか? オレたち、まともな礼儀作法なんて持ち合わせてねえぞ。女王様はおおらかだからいいようなものの」
そして三兄弟も、ごつい顔を突き合わせて真剣に話し合っていた。
町の人たちはおそれ多いのか腰が引けているし、王国兵たちは「どうか思い留まってください、ルシェンタ殿下!」と叫び続けている。
そんな騒ぎを一通り見渡して、ディディは決意する。これは何としても、ルシェを追い返さなくてはならないわ、と。そもそも、当の本人以外が全員反対しているし。
でも、正面から説得しても聞いてはもらえそうにない。だったら何か、絶対に帰りたい! と思えるような、強烈で凶悪な条件をつけるとか……。
眠い頭を必死に働かせてそこまで考えたところで、ディディはふと思いついた。そうだ、あれを試してみましょう、と。
そうして彼女は、ルシェを間近で見すえてにっこりと笑う。やけに甘く優しい声で、言葉を紡いでいった。
「あなたは気にしないのかもしれないけれど、こんなところに『王子』を置いておくことはできないわ。聞いての通り、問題が多すぎるから」
「だが、私は……!」
「けれど『犬』なら、問題ないわね。わたくしの屋敷に、大きな犬がやってくるだけなら」
苦悶するルシェに、ディディはとんでもない言葉をささやきかけた。ここまですれば、きっとルシェは帰ってくれるに違いないと、そう踏んで。
当のルシェは、一瞬だけ戸惑いを見せていた。けれど次の瞬間、彼はこの上なく落ち着き払った顔で、力強くうなずく。
「分かった。その条件を呑もう。これより私は、君の忠実な犬だ」
再び、辺りがしんと静まり返る。一呼吸おいて、辺りに絶叫がとどろいた。
「おい、本気かよ!?」
「ルシェ様って、そういう趣味があったんですか!?」
リックとリタは、呆然としたまま手を取り合っている。
「ディディ様の……犬……何だか、背徳的な響きですわ……」
「……恥ずかしながら、少しうらやましいと、思ってしまいました……」
サリーとジョイエルは、二人して頬を赤らめていた。
「オレたち、とんでもない瞬間に立ち会ってるのかもな」
「その時、歴史が動いた! とかそういうやつか」
「そうだなあ。つい半年前は静かだったのになあ、ここ」
三兄弟はそこまで驚かなかったらしく、しみじみとそんなことを話している。
そして王国兵は、真っ青になってルシェに話しかけていた。どうかそのような真似はなさらないでください、早く王都に戻ってくださいと、悲痛な声で話しかけ続けている。
で、この恐ろしい提案をしたディディは。
「……呆れた。まあ、どこまで耐えられるか、お手並み拝見といったところね」
うんざりした顔でそう言うと、ふうと息を吐いて肩を落とした。
「それより……もう、駄目……限界よ、ひと眠りさせて……それじゃあ」
彼女はそんなことを言い残すと、ぱっと転移の魔法で姿を消してしまったのだった。大混乱に陥った人々を残して。
「ディディ様、そろそろ起きてください。もう昼近いですよ」
そんな穏やかなリタの声に、ディディはううんと身じろぎをする。
ルシェとの面会の後、着替えずにそのまま寝台に倒れ込んでしまったディディの身なりは、さすがに少し乱れてしまっていた。
「もうじき、お昼ご飯ができますから。その前に、髪を結い直しましょうね」
まだちょっとぼんやりしているディディを座らせ、リタは手際よく髪をくしけずっていく。
「今朝はお疲れ様でした。かなり、というかとんでもなく面倒なことになったかとは思いますが……まあ、そのうちどうにかなるでしょう」
何の話だったかしら、とディディが首をかしげる。
「それで、ルシェ様の処遇なんですけど、どうしましょう? 本当に犬扱いしたら、大変なことになりますよ?」
ディディの顔から、すうっと血の気が引いた。今の言葉に、我に返ったらしい。
ルシェを犬としてここに置くという提案をしてみたら、彼は少しもためらうことなく受けてしまった。そんなことを、思い出したらしい。
「……ルシェ様は、結局本当にこの屋敷まで来てしまったの?」
「はい。王国兵たちの制止を振り切って。しかも『私は犬なのだから、こうして片隅に控えている』っておっしゃって、今は応接間の隅っこにおられます」
その答えを聞いて、ディディが心底うんざりしたような顔になる。眉間にしわを寄せて、低い声でうなった。
「……とにかく真面目で融通が利かない人だとは思っていたけれど、まさかそこまでだったなんて……」
「まあ、ルシェ様なりに必死なんですよ。ディディ様のことが好きなんだって、今さら自覚したみたいですし。面白かったですよ、あの人の表情の変化っぷり」
リタの指摘に、ディディが深々とため息をつく。
「好きだのなんだのって、あの人本当に王子なのかしらね……? 高貴な家に生まれたからには、そんなもので添う相手を決められはしないのに」
そうつぶやく彼女の声には、ほんの少しの寂しさのようなものがにじんでいた。
「まあいいわ、ちょっと彼と話してくる。食事の支度、お願いね。……九人分」
少しためらいがちにそう言って、ディディは寝室を出ていった。今まで、彼女は仲間たちと共に食卓を囲んでいた。七人の仲間たちと一緒に。
「ルシェ様は素直過ぎ、ディディ様は素直じゃなさ過ぎ、ってところですかねえ」
一人でてきぱきと寝台を整えながら、リタが楽しげに笑っていた。




