15.それぞれの思い
「……何かがおかしい、そんな気がしてならない」
王宮の一室で、ルシェンタ王子は深々とため息をついていた。
「ディディアルーアは私と婚約していたにもかかわらず、他の令息を誘惑した。のみならず、立場の低い令嬢相手にどなりちらし、追い詰めた。しかも、使用人たちに対してもきつく当たっている」
彼は椅子に腰かけたまま、両手で頭を抱えていた。目の前の机には、何度も読み返されたのであろう書類の束。
「そんな匿名の報告が、同時にあちこちから上がってきた。最初は信じられなかったが、配下たちにひそかに調べさせたら、その事実を裏付ける証拠が次々と出てきた」
独り言のようにぼそぼそとつぶやきながら、ルシェンタは無意識のうちに頭をかき回している。白金の髪が乱れ、ちかちかときらめいていた。
「やむなく本人を問いただしたら、何の言い逃れもせずに素直に認めた。それで頭に血が上ってしまって、婚約破棄を言い渡したが……」
整った顔に、苦悶の表情が浮かぶ。ぎりりと奥歯を噛みしめて、ルシェンタはこぶしを握りしめた。
「何か、見落としているような気がしてならない……何なんだ、この居心地の悪さは……」
その声には、かすかな焦りの響きがある。しかし彼はふっと肩の力を抜くと、途方に暮れたようにつぶやいた。
「……ディディアルーア。君は、何を考えていたのだろうか……君の本当の心は、どこか別にあるように思えてならなかった……」
彼の脳裏に、初めて見た時の彼女の姿がよみがえる。
あれは一年半ほど前の、とある夜会でのこと。彼女は女王さながらの貫禄を漂わせ、人々の視線を一身に集めていた。自分と同じ十六歳とは思えないと、ルシェンタは目を見張っていた。
彼がディディアルーアに対して最初に抱いた感情は、おそらく『憧れ』と呼ぶべきものだったのだろう。だが女性との交流経験もろくになく、自分の心の動きにも無頓着な彼は、それを恋慕の情だと取り違え、彼女との婚約を望んだのだった。
そうして彼女と顔を合わせた彼は、大いに落胆することになったのだ。
挨拶のために王宮を訪れた彼女は、以前の彼女とはまるで違って見えた。かつての貫禄は消え失せ、代わりにおっとりと控えめな、完璧な淑女の微笑みがそこにはあった。
「あれからというもの、彼女はずっとあのような態度だった……まるで、上品な微笑みの仮面を張りつけたような、そんな表情で……」
夜会の時の凛々しい彼女、ありふれた令嬢とは明らかに違う強烈な輝きを放った彼女には、あれ以来一度も会えていない。別れを言い渡したその時ですら、彼女は仮面を被ったままだった。
「……できることなら、もう一度彼女と話がしたいな……いや、それはもうかなわぬ望みか」
そうつぶやいて、顔を上げるルシェンタ。
「他ならぬ私が、彼女を拒んでしまったのだから」
その表情には、隠しようのない寂しさのようなものが浮かんでいた。
◇
「あの、一つ聞いてもいいでしょうか?」
ある夜、寝る前のハーブティーをディディのもとに運んできたリタが、おずおずとそう切り出した。いつになくこわばったその表情に、ディディが小首をかしげて微笑みかける。
「どうしたのリタ、妙に改まって。どうぞ、遠慮なく聞いてちょうだい」
「……ルシェ様のことなんです」
思いもかけない名前に、ディディがわずかに目を見張る。
「私、ずっと気になっていたんです。貴女があの方のことを、どう思っていたのかなって」
ディディと目を合わせずに、リタは小声でつぶやき続けている。
「旦那様の一存で決まってしまった縁談でしたが、それにしてはディディ様がずいぶんとおとなしくしておられた気がして……」
リタは難しい顔をしながら、もごもごと言葉を濁す。ディディは優雅な態度を少しも崩さずに、リタに問いかけた。
「わたくしが素直にかごの鳥になろうとした、そのことが不思議なのね? わざわざ淑女のふりまでして」
「はい。……もしかしたらディディ様は、多少なりともルシェ殿下に思いを寄せておられたのかなって、気になってしまって。もしそうなら、私、何か手を考えますから……」
「ふふ、優しい子ね。でも、心配は無用よ」
その言葉に、リタが弾かれたようにディディを見た。
「ルシェ様は、とにかく真面目で単純。おまけにちょっと頭が固い。やる気があるのは認めるけれど、空回りしがち。しかも思い込みが激しいし。正直、彼が王になったら下の者は苦労するでしょうね」
何一つ手加減のないディディの言葉に、リタはちょっとほっとしたような、けれど複雑な表情になる。
「……容赦ないですね、ディディ様……どうして縁談をぶち壊さずにおとなしくしておられたのか、ますます分からなくなってしまいました……」
「簡単な話よ。わたくしはいずれ、どこかに嫁にいくはめになる。その嫁ぎ先の候補を冷静に洗い出してみたら、ルシェ様が一番まともだったのよ」
身も蓋もないことをさらりと口にしたディディだったが、すぐにその形のいい眉をぐっとひそめる。
「もっとも、わたくし本来のふるまいは、未来の王妃にふさわしいとは到底言えない。特に王があの頼りないルシェ様であれば、なおさらよ」
王妃ではなく女王の貫録を漂わせてしまっている王妃ディディと、その隣で所在なげにしているルシェ王。そんな二人の姿を想像してしまい、リタがぷっと吹き出す。
「だから彼と顔を合わせる時は、これでもかってくらいに控えめにふるまっていたの。お父様や、わたくしにとって代わろうとする令嬢なんかに、隙を見せないようにね。……でも、思っていた以上に面倒だったわ、あれは」
かつてルシェと婚約していた頃のことを思い出しているのだろう、ディディが大げさにため息をつく。そんな彼女に、リタがにっこりと笑いかけた。
「お疲れ様でした、ディディ様。そうですね。ディディ様と釣り合う家の出で、かつ年の近い未婚男性はそう多くはいませんから」
二人はひそひそとそんなことをささやき合って、そして同時に苦笑する。
「……ほんと、ろくな男がいないわね、この国」
「はい、ディディ様に本当の意味で釣り合う方なんてどこにもいませんね」
声をひそめてくすくす笑っていたディディが、やけに晴れやかな表情で続ける。
「もっとも、もうわたくしにはシャイエン公爵家の娘にふさわしい縁談はこないでしょうね。これからはもっと格下の相手、もしかすると年の離れた相手になるかも」
「家の格はこの際置いておくとして、年の離れた相手、ですか……」
「あら、案外悪くないっていう話よ? 経験を積んでいる分思慮深く、包容力もある人が増えるっていう話だし。もっとも、年を取っても駄目な男は駄目なままだけれど」
肩をすくめ、ディディはゆったりと首を横に振る。
「まあ、今もし縁談が来たら、それこそ力ずくでも断るつもりよ。もうあの黒薔薇の君の時みたいに、回りくどいことをする気はないし」
今度はジョイエルとの面倒な日々を思い出してしまったらしく、ディディが深々とため息をついた。
「思えばあの時も、転移の魔法であの女を適当なところに放り投げて、これ以上悪さをしないよう釘を刺しておけばよかったのよね。変な噂が立つのを警戒して、実力行使をためらってしまったけれど」
「今度は遠慮なくぶっ飛ばせますね!」
「ふふ、そうね。だって私は『悪女』だもの。ともかく、今はこのキスカでの暮らしを楽しむつもりよ」
「ここに来てから、ディディ様は生き生きしておられますよね。私、嬉しいです」
「それはそうでしょう。シャイエン家の名誉がどうたらこうたらと、いちいちうるさいお父様はここにはいないんですもの」
晴れやかな表情で、ディディは窓の外をちらりと見る。
「だからもうしばらく、ここで楽しくやりましょう。いっそ、終の棲家にしてもいいかもね」
「はい!」
そうして二人は、また楽しげに笑い合っていた。




