第17話 運命は動き出す
もうすぐ十二時になる。でも、未だに黄昏さんの鬼畜日本語授業は終わる様子を見せなかった。
「この文字は『と』だ! 昨日食べたフレンチトーストとか豆腐の『と』だ! 覚えたか!?」
「トースト…豆腐…お腹減ってきました。そろそろ何か食べませんか?」
「甘えるなァ! ほら次だ次! コイツは『な』だ! 一昨日の鍋に入ってた長ネギの『な』だぞ! 覚えたか!?」
「長ネギ…やっぱりお腹減ってきました。お昼ご飯食べませんか?」
「甘えるなァ! 基本中の基本だぞ! こんなのでへばっててどうするんだ!」
「じゃあいい加減食べ物で例えるのやめてくださいよぉ!」
僕と黄昏さんが喧嘩しながら勉強をし、同じく先生を任されたはずの時雨さんと鬼灯さんはいつの間にかパソコンを持ってきて仕事していた。
「なあシュウ、俺たちも腹減って来たからそろそろ休憩しないか? もう三時間くらいずっとやってるじゃないか」
鬼灯さんが黄昏さんに一言釘を刺してくれた。時雨さんも同意するように滅茶苦茶首を縦に振っている。
「いや…、せめてひらがな五十音が終わるまでは…!」
「あとどれ位かかるんだよ。そもそも時間かかりすぎだろ。普通に教えてればもう終わってる。お前がレイメイのペースを無視して突っ走るからこうなったんだ。もっとレイメイの事を考えてやれ」
「んなこと言うんだったらお前が教えろよ! 黙って見てれば黙々とデスクワークしやがって! 俺だって仕事進めたいんだよ!」
黄昏さんと鬼灯さんの喧嘩が始まってしまった。時雨さんがスーッと僕の後ろまで移動してきて、シュッと僕の背中に隠れた。
「時雨さん!? どうしたんですか!?」
「あの二人喧嘩すると怖いからさー…。レイメイ君、助けてくれる?」
時雨さんが上目遣いで僕を見てお願いしてきた。男だと分かっていてもこれは可愛い洗練された動きだった。柊さんから、時雨さんは女装による潜入に慣れているとは聞いていたが、まさかこれほどとは。
「…っ、分かりましたよぉ。…ちょっと二人とも! 喧嘩してる暇があったら僕に教えてくださいよ!」
僕が二人を仲裁しようとするも、そんなこともお構いなしで二人は喧嘩を続けていた。
正にカオスともいえる状況になったその時、部屋のドアが勢いよく開いて、柊さんが部屋に入って来た。
「みんな! 大変だ!」
柊さんはとても慌てた様子で入ってきたが、そのとんでもない有様を見て目が点になっていた。
「…お、おー。随分と楽しそうな授業だね、ハハハハハ…」
柊さんは笑ってこそいたが、その奥から溢れ出る怒りを隠しきれていなかった。まあ、黄昏さんと鬼灯さんが暴れて部屋が滅茶苦茶になっていたから、その気持ちも分からなくもない。
「ってそんな事よりレイメイ君、確認なんだけど、この画像の人物、誰か分かるかい?」
柊さんがスマホの画面に映る画像を見せてきた。僕はその画像を見て、すぐに分かった。
この世界ではありえないという紫色の髪に、特徴的なしわの刻まれた顔。普段の海での仕事で黒く焼けた肌。
それは間違いなく、僕たちを乗せていた船の船長、ロール・ハレその人だった。
「これ…間違いありません、船長、ロール・ハレさんです!」
「やっぱりか。これはついさっき、福島県警から届いた写真だ。福島県警によると、この人は昨日の昼過ぎごろにボロボロの状態で倒れているところが街の人に発見されて、警察に保護されたらしい」
僕は、元の世界の仲間を初めて発見し、迷い込んだのは僕だけではなかったんだという謎の安心感を実感した。そして、ジョンや、カルザ、スザンナも生きてこの世界に流れ着いた可能性が高まったのだ。僕は安堵せずにはいられなかった。
「船長…、無事で良かった…!」
「ひとまず、命に別状は無いそうだ。ただ、長時間海を漂流していたことに加えて、ろくに食事をとっていなかったこともあり、今は話せる状態では無いらしい。でも、話ができるようになった時の為に、私たちには近くにいてほしいらしい」
「社長、それってつまり…」
黄昏さんが柊さんを見てつぶやいた。その目には若干の期待がこもっているように思える。
「…今から私と君たちの五人で福島に行く。もちろん、いつも通り泊りは『温泉旅館』だ」
柊さんの口から『温泉旅館』という言葉が出たとたん、さっきまであんなに喧嘩していた黄昏さんと鬼灯さんが手を取り合い、時雨さんも歓喜した。温泉旅館ってそんなにもすごい物なのかな?
「早速だけど十五時にはもう出発するから、社宅に戻って準備しておいて。十四時半にまたここに集合!」
柊さんの一言で、僕たちは一旦社宅へと戻ることとなった。
僕は仲間が生きている希望を持てたことで、他三人は温泉旅館に浮かれて、社宅までの帰り道の足取りは皆とても軽かった。
設定こぼれ話
船長ロール・ハレは漁師としても働いていた。島の皆に貴重な食料を届ける彼は皆から慕われる良い人であった。