さよなら、またね。
「ぽん太に家のチャイムを鳴らしてもらって、気を引いてもらう。その間に行くよ」
灯花は塀の近くに自転車を静かに止めると、荷台に足を乗せる。
「後で、副担任にクレーム入るかもね」
別にいいじゃん、と灯花は家の塀をよじ登った。
灯花のクラスの副担任は本当に嫌な教員で、学校中から、そして同僚の教師からも嫌われていた。
この人はなんで教職をを選んだんだろうと思わせるような態度や、口の悪さは他の追随を許さない。
そんな話は置いといて。
アグレッシブな灯花の動きは積極性に反して、少し鈍臭い所があった。
陽太はその姿を見て笑いながらその後を追う。
庭に降り立つと右手に古臭い物置が置いてあり、少しだけだが扉が開いていた。
「あそこだよ」と陽太は蚊の鳴く様な声で灯花に場所を教える。
「しー! 言ったでしょ? しずかに、だよ。陽太の声は家族に聞こえてしまうかも知れないから。本当に静かに」
灯花は口に人差しを当て、陽太に小さく耳打ちする。
陽太は可愛らしい見た目の灯花の顔が近づくと、少し照れて後退りをしてしまった。
灯花は静かに扉を開け、物置の中に入るとカバンから人がすっぽり入る位の大きさがある黒い風呂敷を広げた。
灯花はその風呂敷を被り何やらモゾモゾとし始めた。不思議そうな顔で陽太が見ていると、風呂敷の動きが止まった。
すると不意に真横から金木犀の香りがする。
陽太が横を見ると「よっ。お待たせ」と灯花が手を上げていた。そこには陽太と同じ幽体の姿になった灯花の姿があった。
陽太は図書館からここまで驚きの連続だ。目を丸くして灯花見ていると。
「そんなに待った? お待たせとは言ったけど、言うほど待たせてないでしょ? さぁ。家の中の様子を見に行こうか」
灯花は陽太の手を引いたと思うと、おもむろに立ち止まる。
「あ、そうそう。さっきも言ったけど家族には声が聞こえる様に、姿が見つかる可能性だってあるからね。ほらよく言うでしょ? 枕元におじいちゃんが、とか。死んですぐはその状態だからね」
灯花は「気をつけてね」と再び陽太の腕を引っ張り歩き出した。
陽太は灯花に圧倒されっぱなしだが、それに負けじと家の中に入るならあそこだ、と自分の部屋の窓を指差した。
灯花は方向転換し陽太の部屋に向かう。
そう案内する陽太だが、彼は灯花の顔が近づくだけで照れくさそうにする少年だ。
自分の部屋を灯花に見られるのは恥ずかしくは無いのだろうか?
しかし、そんな心配は杞憂に終わる。見られて恥ずかしものなんて何もなかったのだ。あるとしたらその異様な光景か。
陽太の部屋は三畳程しかなく、恐らく万年床と思われるせんべい布団が一枚だけ引いてあるだけだった。
灯花の思考は思わず停止してしまった。
そして、なんとか絞り出しす。
「……いい部屋だね」
圧迫感のあるその部屋に、灯花の声が染み渡った。
「多分、親は僕が死んでも悲しんでいないよ。分かったんだ、思い出した。僕の未練、やり残し」
「親と仲良くないとか? そういう事?」
すると陽太は洋服をおもむろに脱ぎ出した。
「ちょっと、ちょっと、ちょっと。陽太くん? 待て待て待て。待ってって!
灯花はそのサバサバした性格とは裏腹にこういった事はトコトンだめだった。
灯花を気にせずは陽太が上半身をあらわにすると、その身体には隙間もないくらいの青あざや擦り傷が刻み込まれていた。
灯花は言葉を失う。
「虐待ってやつだよ。僕の家は両親とも本当の親じゃなくて、最初はお母さんが再婚して、でもお母さん死んじゃって」
陽太は言葉に詰まる。
「それで義理の父親が再婚したんだ」
灯花の家は厳しくはあるが、愛情持って育てられた。目の前に広がる光景はテレビでした見た事のない衝撃の光景。
「そこからだよね。日に日に暴力が酷くなって」
「……酷い」
「でも約束したんだよ! 元々病弱だったんだよね、僕のお母さんは。でも、約束したんだ。僕は大丈夫だよ、って。それが最後の会話だよ」
学校に、そして同級生に全く興味がなかった灯花は衝撃を受ける。
陽太も学校が嫌いだった。
痛みに耐えて登校し、体育はいつも言い訳をして休んでいた。授業中も家の事は頭を離れないし、とても授業なんて身に入らなかった。
ただ少なからずいた友達に支えられていたのも事実。だからまだ通う事が出来ていた。
しかし、やはり陽太にとって学校とは家に帰ってから何をされるかを想像して、恐怖を溜め込むストレスの場所だった。
そしてその溜め込んだストレスや恐怖は解放する場所も無く只々蓄積されていく。
灯花は幽霊や妖怪の類の現実離れした事には全く驚かないが、現実世界における現実離れしたこの光景に言葉を失った。
「この事をを思い出したの? それとも」
「やり残し、かな。折角ここに来た所悪いんだけど、場所変えれるかな?」
「分かった。思い出せただけでも、ここに来た価値はあるよ」
灯花と陽太はその残酷な部屋を後にした。
すると庭で煙草を吸っている男が目に入る。見るからにガラの悪そうな、体格の良い男だ。
「やばい! ばれる」
「大丈夫、話を聞いて分かったよ。愛とか、信頼とか、そういう感情で結ばれていないと姿形はもちろん声も届かないよ」
そう言いながら灯花は男を睨みつけていた。
その後男が立ち去るのを確認し、灯花達は物置に向かった。灯花は黒い風呂敷を被せてあった生身の身体に戻る。そしてすぐに庭を抜け出した。
「思い出しても腹立つ! なんだあいつ!」
「ありがとう。その気持ちで十分だよ」
「で? やり残しって」
「猫だよ、子猫。ここ一週間の間にお昼の残りをあげてたんだ」
「なんというか、お人好しなんだな。君は」
灯花はなんとなく分かっていた。九十九里が子猫と自分を重ねているのを。
そして二人は子猫のいるという空き地に向かった。
しかし、あたりを見渡してもどこにも子猫は見当たらない。二人でしばらく探していると、そこに口の空いたボロボロのトランクケースが見つかる。
覗いてみるとそこには身体が冷え切って息を引き取った子猫の姿があった。
立ち尽くす灯花と陽太。
「三日も空いてしまったしね。元々弱っていたもんね、僕と一緒だね。死んでしまったんだね」
ごめんね、と呟く陽太。
灯花は冷たくなった子猫を抱き抱える。
「僕のやり残しは無くなったよ。どうすれば良い? 元々、死にたかったんだ僕は。きっと」
もうこの世界から消えてしまいたい、と陽太は俯く。
灯花は子猫を埋葬しながら静かに陽太の声に耳を傾けていた。
すると突然、陽太が大きな声を出した。それに目を丸くして驚く灯花。
「あっ! 待って! でも思い出の場所は出来たよ」
「出来た? 思い出したんじゃなくて?
「さっき見た山の上の景色が見れる場所」
「じゃあ、行こうか」
灯花は優しく微笑むと、再び自転車を漕ぎ出した。
灯花はぐるぐるペダルを回す。
行きは怖いの山道を必死にぐるぐる漕ぐ灯花。でもすぐ辞めて歩いて登る。
道になぞってぐるぐる登る。登る間に陽太と色んな話をする。
元々の性格もお互い合っていたのか、灯花にとってこんな事は初めてだった。
好きな食べ物や音楽、ゲームの話や将来の夢。そんな普通の友達なら誰でも話す事。
昔から学校に興味がない灯花にとって、初めての気兼ねなく話せて、一緒に笑える相手。
初めて出来た、子猫が好きな優しい男の子の友達。
途中、ベンチに腰掛けて休みながら話をする。まるで二人とも山の上に行きたくないかの様に。
そして灯花のお気に入りの場所に着くと、再び二人はその景色を、今度は無言で眺める。
その景色は変わらず同じ時を刻んでいる。
「もういくよ」
「分かった」
「ありがとう、灯花。図書館で会えたのが君で良かった」
陽太は初めて灯花の名前を呼ぶ。不意をつかれた灯花は少し耳を赤くした。
またいつか会えるかな?そう言うと陽太の身体から淡い光の粒が湧き上がる。
「灯花は一つ勘違いしてそうだから言うけどね。学校で僕は友達に何度も救われたよ。灯花も学校を好きになる努力をしてみれば」
検討します。そう答える灯花はまだ少し照れ臭さそうだ。
陽太の体は一つの丸い輝く球体となり、向かい合っていた灯花の両手に収まる。
灯花はそれをまるでタンポポの綿毛を飛ばす様に両手を広げて夜空に放つ。
光の粒は細かく一つ一つ広がり、辺りを照らしゆっくりと夜空へと消えていった。
初めて出来た、学校の友達。初めて出来た、クラスメイトの友達。もう会えない、優しい男の子の友達。
次に生まれ変わったら、また友達になろう。その時は学校で、教室で。
次、会えるのがいつになるか分からない。でも、きっと、必ず、絶対に。
灯花は夜空を見上げ続ける。その光の粒を全部見送ってから目をつぶり、呟く。
「また会えるよ。陽太」
友達の名前を、小さく呟く。
明るい太陽の様な名前の友達は、光り輝く月夜の闇に紛れていき、そして静かに綺麗に消えた。
輪廻はぐるぐるぐるぐる廻る。だから、また会える。
その時まで。
さよなら、またね。