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3月2日

~序章~



 人間は死ぬ直前、一瞬のうちに自分の人生を走馬灯のように見るという。映る期間はどれくらいなんだろう。生まれてからずっと? どうせなら、彼女に出会ってから今までの1年間、いや、364日間だけを見たいと思う。それ以前のことは、どうでもいい。



~プロローグ~



2日前:2020年2月29日(土)

全国の感染者数 9人

十海県の感染者数 0人


 4年に一度の誕生日。


 学生時代からほば10年を過ごした部屋での、最後の朝を迎えた。有休消化でもう2ヵ月近く出勤していない会社を、今日付けで正式に退職となる。


 朝9時。今さら会社の誰とも連絡を取る気はない。一人を除いて。人事の中村さんの個人アドレスにメールを送る。すぐに返事がくる。力になれなくて申し訳なかった。いえ、ボクの話を真っ正面から聞いてくださいました。それだけで充分です。


 引っ越し業者は11時の予定。やかんと食器類を一つの箱に詰め、寝具一式を布団袋に入れる。貴重品や手帳など細々したものと、念のため2日分の衣類をカバンに入れて持っていく。余計なものはあらかた処分して、引っ越し荷物は小ぢんまりとしたものになった。室内が広々として見える。


 荷物の搬出が終わった頃、賃貸管理代行会社の人が来た。室内を確認し、書類の手続きをすませると、鍵を引き渡す。


 駅前まで歩いて少し遅めの昼食。あの頃のことを考えれば、落ち着いて昼食がとれるだけでも有難い。朝食抜きで出勤して一日働き続けて、深夜の牛丼店でその日最初で最後の食事、ということもざらにあった。


 手元には今日まで有効な定期券がある。改札を通って電車に乗れば、一銭も使わずに1時間ほどで実家に着ける...


 ボクがこの街、天歌あまうた市に住むようになったのは、大学に入ってから。十海とおみ市の実家から高校に通っていた期間も含めると、人生の半分近くをこの街で過ごしたことになる。

 小雨模様の中歩いてみる。まずは駅の北側、城址公園へ向かい母校があるあたりから...


 夕方には雨は本降りになった。夜7時、ボクは天歌駅南側の商店街にあるハンバーガーショップにいた。「JUJU」という名のその店は、ボクが大学3年のときから4年間付き合った同期の女の子がバイトをしていた店。ボリュームたっぷりのクラシックバーガーのセットを片付けると、満腹になって動くのが億劫になった。兄貴のアドレスにメールを入れる。今夜はこちらで友人のところに泊まる。



1日前:2020年3月1日(日)

全国の感染者数 14人

十海県の感染者数 0人


 天歌駅からすぐのAUショッピングモールから、もう少し行ったところのネカフェで一夜を過ごした。それまでにネカフェを使ったのは、働いていた頃に終電を逃したとき。ヘビーユーザーではないが、慣れればそれなりに快適に過ごせるかも。


 駅ナカのコーヒーショップでモーニングを食べていると、帰ったボクを迎える家族の姿が脳裏に浮かんできた。仁王立ちで無口で迎える父親。その少し陰になるような場所から小さな声で「お帰り」と言う母親。微妙な笑みを浮かべながら「しばらくゆっくりするといいさ」と言う兄貴。妹は部屋から出てこない...


 雲間から陽の差す天気。城址公園の西側にある天歌市立城址図書館に歩いて行く。高校時代よく放課後を過ごした場所。9時開館の少し前に着いて、列の後ろに並んだ。

 閲覧コーナーの席をゲット。朝刊をぼんやりと眺める。新型コロナウイルスとやらのせいで、中国の武漢はもう1ヵ月以上都市封鎖。ここ十海県でも一昨日初めて、感染者が確認されたらしい。


 うるう年の2月29日生まれのボクは、「誕生日」も4年に一度。それ以外の年は、3月1日にお祝いをして貰っていた。12歳になったとき、家族がうるう年ということを忘れて、3月1日が「おめでとう」になってしまった。気付かないふりをしたけれど、あの時からかもしれない。家族の中で疎外感を感じるようになったのは...


 日曜日の図書館は午後5時まで。このまま実家に帰れば、夕飯に間に合う。とぼとぼと天歌駅へ向かう...気が付くと、いつの間にか改札を通り過ぎて駅の南側、商店街のほうへと向かっていた。まあいいか。着替えは明日の分まである。



1.喜の章



1日目:2020年3月2日(月)

全国の感染者数 14人

十海県の感染者数 0人


「少しお時間ありませんか? よかったら、お茶でも」

 そう言ったのは、彼女だった。

 マスクで隠れた笑顔の下半分が、二つの瞳から溢れんばかりに伝わってくる...


 ...昨夜からの雨は、朝9時に城址図書館に着く頃には上がっていた。

 今日から小・中・高が臨時休校になったからだろうか、朝の駅近辺の人出がぐっと減った。新型コロナの全世界での死者数が、累計で3000人を超えたらしい。街中ではほとんどの人がマスクを着用し、買えるお店が見つからなくなったという。ボクは花粉症気味で、もとからこの季節はマスクをしていた。カバンの中に買い置きしていた分がある。


 午後3時頃の天歌駅へと向かう大通り。ボクの5メートルくらい前を、すらっとしたシルエットの女性が歩いていた。コートの肩に手のひら一つ分くらいかかるくらいのストレートの黒髪。少しゆっくりめに歩いているボクとの距離は縮まらない。

 コートの右ポケットを彼女が探った拍子に、ハンカチが落ちた。気付かずに歩き続ける彼女。そのままにしておくと、強い西風に吹き飛ばされるだろう。放っといてもよかったのだけど、ボクは歩みを速め、ハンカチを拾うと、小走りで彼女に近寄った。

 あのー、と背後から声をかける。

「はい?」と言って振り返る彼女。

 切れ長で二重の目。マスク越しにもはっきりとわかる整った顔立ち。今までお会いした女性の中で、トップ3に入るその美しい顔に、ボクは思わず見とれてしまった。

 ボクの視線の5センチくらい低い位置から、少し見上げるような彼女の視線。ヒールを考えると、身長は160より少し高いくらいか。

「あのー、ひょっとして、それですか?」と彼女が、ボクが右手に持ったハンカチを指差す。

 は、はい、これ...と言って、薄いピンクのハンカチを彼女に差し出す。

「よかった! これ、大事な人から貰ったものなんです」と言いながら彼女はハンカチを受け取る。

「本当にありがとうございます」

 ニッコリと微笑む彼女の目。

 いえ、別にどうってこと、じゃあ...と言って立ち去ろうとするボクに、彼女が声をかけた。

「少しお時間ありませんか? よかったら、お茶でも」

 えっ? この展開。いつか聞いたことがある、昭和時代の典型的な「ボーイ・ミーツ・ガール」。

 いいんですか? ボクで。

「もちろん。少し時間が空いちゃって、どこかで時間をつぶそうと...あ、ごめんなさい」

「しまった」という表情の彼女の目。どうしようもなくチャーミング。

「ヒマ潰しにつき合えっていうんじゃないですよ」

 いいですよ。時間はあるし。ボクでよろしければ。

 彼女の顔に笑顔が戻った。

「じゃあ、行きましょう。お気に入りの店にご案内しますね」

 おまかせします。

 ボクたちは、並んで駅のほうへ歩き出した。


「わたしは『狩野希かのう・のぞみ』。狩猟の狩に野原の野、希望の希」

 日本画の「狩野派」の狩野?

「そう。『狩野』も『希』も普通の名前なのに、変でしょ。二つ一緒になるとキラキラネームになっちゃう。望みなんて、そうそう叶うわけないのにね」

 ごもっとも。

「キミは?」

 一緒に歩き出してから2分くらいしか経っていないのに、すっかりタメ口になっている。まあ彼女ほどの美貌から発せられるタメ口なら、大歓迎だ。

 ボクは「光崎歩みつさき・あゆむ」。光線の光に、長崎の崎、一歩、二歩の歩。いつも三歩遅れた人生だけどね。

「いい名前だよね。光の、その先のほうまで歩んで行くんだね」

 自分の言葉に酔ったようにうっとりとした眼差しを、ボクのほうに向ける彼女。再び見とれてしまいそうになるのを我慢して前を向く。

 すれ違う視線を何度感じただろう。無理もない。清楚だけれど高級感溢れるファッションのとてつもなく美人の彼女と、ファストファッションに身を包んだどこまでも平凡なボクの二人連れ。


「そうだ、わたしって、いくつに見える?」

 目をキラキラさせながら、メッツォ・ソプラノの声で彼女が聞く。

 雨上がりの雲間の陽射しが時々窓から降り注ぐ、天歌駅前の老舗の喫茶店。彼女はアールグレイを頼み、ボクはキリマンジャロを頼んだ。どちらも結構大きめのポットでサーブされた。

 マスクを外した彼女の顔は、想像に違わぬ美しさ。

 そうそう、彼女の年齢。ええと...ボクより3つ下かな?

「キミはいくつ?」

 28になったばかりだよ。

「大正解! わたしも25になったばかり。すごいな。一発で当てる人、珍しいんだよ」

 あてずっぽうだったことは黙っておこう。

「わたしって、年齢不詳ってよく言われる。10代だって言っても信じてもらえるし、30代でも納得されちゃう。ねえ、キミはどう思う?」

 そう言われても、うん、そうだね、と返すしかない。

「そんなわたしの年齢を当ててくれたキミ...あ、年上の人に『キミ』はいけないかな?」

 いや、「キミ」でいいよ。

「じゃあキミにお礼として、ケーキをご馳走します」

 そう言うと彼女はウェイターに声をかけた。


「なったばかり」ってことは、最近誕生日だったの?

「それがね、実は昨日なんだよ。キミは?」

 その前の日。

「つまり、うるう年の2月29日?」

 そう。だから一昨日は、4年に一度の誕生日。

「ふだんの年はお誕生祝いはどうするの」

 子供の頃、お祝いはだいたい3月1日にしてもらってた。

「じゃあ、来年は、わたしと同じ日にお祝いだね」

 そういうと彼女は、クククと笑った。


 1時間ほど話をして、LINEでつながるとボクたちは店を出た。再び並んで駅へ向かう。

 改札のところで、ホームへ行こうとする彼女を見送る形になる。

「あれ? キミは乗らないの?」

 う、うん。ちょっとショッピングモールへ。

「了解。じゃ、またね」

 自動改札機を通ると、エスカレーターの手前で彼女は振り向き、ボクを見て軽く手を振った。

 手を振り返すとボクは、春の到来を感じさせる暖かい風の中、何日分かの着替えを買いにAUショッピングモールへ向かった。



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