④鮫と手紙と大嵐
どうしてこんなことになってしまったのか。
あの男のせいだ、と少年は思った。
すべて順調に進んでいたのに、あの男がいたせいですべてが台無しになった。
もしもあの男が乗っていると最初から知っていたならば。
少年はきっと、この船には乗らなかった。
あの男の事情は、少年も風の噂で聞いたことがある。
彼はこの唐の国では有名な高僧だ。
仏教の伝戒儀式を伝えるべく、遠い日本の地を目指しているらしい。
だがこれまでにあの男は五回ほど渡海を試みるも、すべて失敗に終わった。
密告により役人に阻止されたのが三回。
そして残り二回は密航に至るも、激しい暴風に阻まれて陸に戻されている。
うち一回は船が沈んで漂流しており、生きて戻ったことが奇跡であった。
きっと秘伝の儀式を外国に持ち出さないように、御仏が図らっているのだ。
きっとあの男は一生、唐の国から出ることなどできないのだ。
だからあの男が役人に隠れて船に乗れば、何度でも船は嵐に遭うだろう。
世間ではそんな風に囁かれていた。
実にそのとおり。
現実として、あの男が乗ったこの船は、今まさに大嵐に襲われている。
そしてこの船に居合わせた少年もまた、この嵐に巻き込まれている。
しかも、ただの嵐ではない。
数えきれないほどの鮫が、船の周りを舞っている。
船体を痛めつける激しい暴風に乗って、鮫がそこら中に浮き上がっているのだ。
そして、船上にまだ残っている人間たちに猛然と襲い掛かっている。
先ほどから何人も、鮫に噛みつかれてそのまま海に引きずり込まれた。
鮫。
それは、聖なる大海の守護者。
東の方角を司る四聖獣がひとつ、青龍の眷属。
これは海の怒りだ、と少年は確信する。
あの男の三度目の密航に対して、海が怒っている。
深海の使いたる鮫が嵐に乗って襲ってくる異様な光景が、その証拠だ。
あの男を海に落とせば、海の怒りは鎮まるのではないか。
そんなことを少年は考える。
しかし船上にはすでにあの男の姿はない。
付き人に抱えられながら船内に避難している姿を、少年は見ていた。
自分も早く船内に隠れるべきだ。
船上の甲板につっ立っていたら、鮫に襲われてしまう。
しかし少年は、激しい雨風のせいで上手く進むことができないでいた。
大波と大雨による水浸しとなった床はただでさえ滑りやすい。
くわえて船自体が何度も激しく傾くので、船上の人々は海に弄ばれるように何度も転んだ。
そしてそのたびに何人かがそのまま船外に放り出されたり、鮫に捕まっていた。
こんなところで死ぬわけにはいかない。
少年はもがくように這いながら甲板室を目指す。
飛び交う鮫の群れをなんとか避けながら、命からがら前に進む。
しかしついには足を滑らせ、船床に頭を強く打ち付けてしまった。
その衝撃で、少年の意識はあえなく途絶えたのであった。
◇◇◇
「大丈夫か。意識はあるか?」
「うう、ここは……」
気付くと少年は船内の一室にいた。
周囲には、びしょ濡れの船乗員たちが意気消沈したように座り込んでいる。
きっと船上の嵐から無事に逃げおおせた人たちだろう。
どうやら自分は誰かに助けられたらしいと少年は察した。
そして同時に、先ほどの地獄の光景が夢でなかったことも理解する。
「ところで君、目覚めたばかりで悪いんだが確認させてくれ」
船員の一人が少年の肩をおもむろに掴んだ。
他の船員たちも少年を囲むように集まってきた。
「君、見ない顔だな。密航者だろう?」
船員の言葉が耳に届く。
少年は自分の体から再び力が抜けていくのを感じた。
あの嵐さえなければ。
こんな形で密航がばれることもなかったのに。
つくづく運が向いていないらしい。
「俺、船から捨てられるんですか?」
弁明できまいと悟った少年は力無く尋ねた。
密航が発覚した者は、海に放りだされても文句は言えない。
だが船員たちは首を横に振る。
「そのつもりなら君をこの部屋に運んだりはしないさ。あのまま鮫の餌にしてやればいいだけだ。それに我々は密航を咎める気もない。なにしろ……」
そういうと、船員たちは部屋の奥に座る人物に視線を集中させる。
その先には、あの高僧の男がいた。
先の嵐のせいでどこかやられたのか、壁にもたれかかり目を閉じている。
意識はなさそうなものの、まだ生きてはいる様子だった。
「我々もまた、密航者を一人かくまっているわけだからね」
その言葉とともに部屋の中で張り詰めていた空気が少し緩んだ。
船員たちはどうやらあの高僧の密航を知っていながら手助けしていたようだ。
彼らの雰囲気から、少年はそのことを理解する。
当局の役人に見つかれば全員厳刑は免れないはずだ。
それほどの危ない橋を渡らせるほどに、高僧は皆から慕われているのだろう。
「咎めはしないが君は部外者だ。船内では大人しくしていてもらいたい」
「わ、わかりました」
少年が素直に従うと、船員たちは頷いた。
「それにしても、これからどうするかね」
「嵐は少し収まったが、まだ船上には鮫がうようよいるみたいだぜ」
「海の神様はどうやら、あの方を唐の国から出したくないらしいな」
船員たちが今後について話し合いはじめた。
あの嵐が高僧の引き寄せたものだということは皆の共通認識らしい。
そのままいくらかの時間が経った。
船は依然として嵐に揺られていた。
好転しない状況に船内は重苦しい空気を増していく。
一方、少年は少しずつ落ち着きを取り戻していた。
嵐の中で鮫に襲われそうになったときは流石に死を覚悟した。
だが結局は、今こうして自分は生きている。
そのことに少年は安堵していた。
そもそも。
よくよく考えれば、自分は死ぬはずなどなかったのだ。
鮫が飛び交う地獄絵図を目の当たりにして、そのことを失念していただけだ。
少年は懐にそっと手を忍ばせる。
そこには少年にとっての「お守り」の感触があった。
あの嵐のなかでも無くすことなく身に着けていた、それ。
それがある限り、自分は無事にこの海を越えていけるはずだ。
そのことを、少年は改めて信じ直すことができた。
「なにを隠しているのかね?」
「うわっ!」
不意に声をかけられて、少年は素っ頓狂な声をあげた。
いつの間にか真正面に座っていた声の主は、あの高僧である。
「見てたんですか?」
「あいにくもう眼はほとんど見えないが、おおよそ気配で分かる」
そういえば噂にもなっていた。
高僧は度重なる苦節を得て、視力を失いつつあるらしいと。
ずっと目を閉じて座っていたから、意識がないものと少年は勘違いしていた。
実際はずっと起きていて、部屋の中の会話を聞いていたのだろう。
「それで、なにを隠しているのかね」
「気になりますか?」
「気になるな」
「なぜです? 別にたいしたものじゃありませんが」
「だが君は、どうやらそれに大きな勇気をもらっているようにみえる」
その言葉に少年は驚く。
目が見えないと言いながらこの高僧は、こちらの心の内を言い当てたのだ。
「なんで分かるんですか?」
「見えずとも、人の気持ちは気配で推し量れるものだ。長く生きていればな」
よく分からないが、そういうものかと少年は理解を放棄した。
そして懐にしまっていたそれを、素直に取り出す。
そのまま差し出すと、高僧はそっと両手で手探るように掴んだ。
「これは、折りたたまれた、紙? 地図かなにかかな?」
「それは手紙ですよ」
「ふむ、手紙か。しかしあの嵐の中でよく雨に濡れなかったものだ」
「きっとご加護があるんでしょうね」
「加護?」
不思議そうに高僧が聞き返した。
少年は少し得意になる。
「この手紙は、俺を育ててくれた師匠が書いたものでしてね。俺にとっては旅のお守りのようなものなんです」
「なるほど。しかし手紙がお守りとは、幾分と珍しいように思えるが」
「普通はそう思うんでしょうけどね」
少年は手紙のお守りをそっと懐にしまいこんだ。
「あなたはこの船に乗って日本を目指してるんですよね?」
「そうだが」
「俺も同じです。日本に渡るため、この船に密航しました」
「ふむ、なぜ日本へ?」
「この手紙を、届けるため」
高僧が少し驚いたように息を呑んだ。
そんな理由で、と言いたそうだ。
「師匠は日本生まれで、この手紙は故郷に向けて書かれたものらしいんです。俺はこの手紙を日本の『茅原郷』って所に届けるように師匠に頼まれたんです」
「君のような子供を一人で日本に向かわせるとは、随分と無茶をする御仁だ」
少年の説明に、高僧は非難めいた口調で呟いた。
だが少年は小さく首を横に振る。
「無茶なんかじゃないですよ。俺にはこの手紙がありますから」
「その手紙がいったいなんだというのかね」
「さっきも言ったじゃないですか。これはお守りなんですよ」
高僧は全く理解できない、という風にしかめ面をした。
別に理解されなくてもいいと思ったが、少年は言葉を続けた。
「手紙っていうのは、出す人と受け取る人がいるものですよね」
「それはその通りだが」
「そうでしょう。ではもしも、天の強い加護を受けた完全なる手紙がこの世にあるとしたら、どうなると思いますか?」
「ん、んん?」
高僧が首を傾げた。
話の流れが読めなくなっているらしい。
「簡単です。完全なる手紙は、その使命を全うするため必ず相手に届くようになる。なぜなら手紙は、受け取られてはじめて完結するものですから」
「どういうことか、さっぱり分からないのだが」
「この手紙が、そうだと言っているんですよ。師匠が書いたこの手紙は、必ず相手に届く。予めこの世の因果がそうなるように出来ているんです」
理解を越えたように、高僧が小さく唸った。
仏教に身をおいた彼においてさえも、少年の言い分はあまりに奇異に過ぎた。
「この手紙が必ず相手に届く運命にある以上、その運び手である俺自身も必ず目的地に辿り着くことができるんです。だからこの船がどんな嵐に襲われても、他の皆が鮫に喰われても、俺だけは必ず日本に渡り着けるんですよ」
言いたいことを言って少年はすっきりした。
その説明内容は、手紙を持たされた際に師匠から聞いたものだった。
この手紙を持って旅をすれば、必ず無事に茅原郷へ辿り着ける、と。
そういう加護を手紙に込めたのだと、師匠は言っていた。
それが真実であると、少年は今も全く疑っていない。
事実、自分はあの嵐の船上を生き延びたのだ。
「ううむ、手紙を縁起物として捉えた民間呪術、のようなものだろうか」
高僧はとりあえず自分なりの解釈で少年の話を飲み込んだ。
信じたわけではない。
しかしその話が真ならば、少年が乗り合わせたことでこの船は日本に必ず辿り着く運命を約束されたということになる。
突飛な話ではあるが、同時にそれは希望でもあった。
「私に対する海の怒りと、君の持つ手紙の加護。どちらが勝つのだろうね」
「当然、師匠の手紙が勝つに決まってますよ」
胸を張って少年が言う。
それが強がりでないことを高僧は感じ取り、小さく笑った。
「では他にすがるものもない海の上だ。君のお師匠を信じてみようか」
それから数日間。
船は暴風雨と鮫の群れに襲われ続けた。
◆◇◆
後年の歴史家たちによると。
あの後、高僧は無事に唐の海を越えて日本の屋久島へたどり着いた。
途中で大宰府に立ち寄りつつ、平城京にて時の上皇と謁見。
その後は各地へ赴いて、授戒儀式の普及のために貢献したと伝えられている。
一方。
船の中で高僧が出会った少年については、その足取りは定かではない。
ただ、平城京で高僧と別れた後に一人で茅原郷へ向かったものと推測される。
茅原郷。
すなわち、現在の奈良県御所市茅原である。
その周辺地域では、かつて少年がこの地を訪れて手紙を奉納したという伝説が今も口伝で残っているという。
一説にはその後、少年は修験道にその身を置いたとされている。
少年の目指した地や、それらの記録。
そして唐の海の怒りに打ち勝つほどの加護の呪術の使い手。
それらを総合すると。
少年の師匠とは飛鳥時代に生まれた役行者、役小角ではないかとする説がまことしやかに囁かれている。
無論、それは突拍子もない異説ではある。
だがもしも件の手紙が発掘されたなら、その内容からなにかが分かるかもしれない。
それゆえ今日にいたるまで一部の歴史家たちは、歴史に埋もれた手紙の在り処を求めて古の文献を漁る日々を送っている。