③落ち武者の遺書 後編
「長老! 紙と筆をくれ!」
突然ずかずかと家に上がりこんできた百姓の、唐突な言葉。
褥に横たわっていた老人は、怪訝そうな顔で身を起こした。
「なんじゃ急に。お主、字など書けぬじゃろうに」
そう応じた老人は、顔馴染みの横に見知らぬ男がいることに気付く。
不完全な武装に身を包み、全身血に濡れて今にも倒れそうな男に。
「この恰好、さてはこやつ落ち武者じゃな。なぜ生かして連れてきた? 村の中で暴れ出したらどうするつもりじゃ?」
「そんな力はこいつには残っちゃいねぇよ。それより紙と筆はどこだい?」
我が物顔で家の中の棚を物色する百姓。
老人は呆れ顔で手元にあった半紙入れの木箱を掴む。
「家のものに勝手に触るでない。こちらで用意してやるでな」
「おう、ありがてぇ。さすが長老は話が早え」
「後でしかと理由を聞かせてもらうからの」
やがてほどなくして物書き台の上に乾いた半紙と古びた筆、そして所々欠けた硯石が並んだ。
武士は朦朧としながらも台の前に腰を降ろす。
そうしてからふと気付く。
文を綴るためには足りないものが一つある。
「墨は切らしておったわい」
「おう、おいらが隣家から借りてきてやらあ」
そういうが早いが、百姓は家を飛び出していく。
墨汁がないのであれば文は書けず、とはいえ他にやることもない。
ここまでずっと歩き続きだった武士はようやく一息をつくことができた。
一方、老人は部屋の隅に移動しつつ、武士の様子をじっと観察していた。
満身創痍に見えても、相手は現役の武兵。
この場で急に襲われれば太刀打ちできるはずもない。
二人きりの今の状況は非常に危険ではないか。
そのように老人が懸念するのも無理からぬことであろう。
静まり返る家の中。
しばらくの沈黙を経て、先に口を開いたのは武士だった。
「水をくれ」
出陣から先、武士は一切の水分を摂っていなかった。
老人は少し躊躇ったが、水瓶から柄杓を掬ってゆっくりと寄こす。
武士はそれをさっと受け取り、貪るように喉を潤した。
「お主、その紙に何を綴るつもりじゃ?」
老人はずっと気になっていたことを問う。
「知れたこと。家族に便りを遺すのだ。貴様らに討たれる前にな」
「遺言というわけかの? そのためにあやつはお主をここに連れてきたのか」
なるほど、と老人は小さく頷く。
なぜ武士がその場で殺されず、あまつさえ文を綴る時間をわざわざ許されたのかについては釈然としない。
だがあやつはあれでいて情のある男じゃからな、と老人は勝手に納得した。
「ただいま戻った! 墨をもらってきたぜ」
半ば干からびたような固形墨を持って、百姓が戻ってきた。
老人はそれを受け取ると、まず硯石に水を少し注いだ。
この水を固形墨で丹念に磨ることで、やがて墨汁へと変化する。
普段は筆を使う機会のない百姓は、老人が墨を磨るのを物珍しげに眺めていた。
「ほれ。ちと黒味が薄いが墨汁として不足ないじゃろ」
「苦しゅうない。手間をとらせた」
「お前ぇ、この期に及んでほんとに偉そうだな」
墨汁が仕上がり、これでようやく書に必要な道具が揃ったことになる。
武士は物書き台に改めて座を正し、ゆっくりと半紙に筆を走らせはじめた。
百姓は手持ち無沙汰になったのか、外に出て夜風に当たっている。
老人は台上を照らす足しになればと思い、囲炉裏にいくつか木の枝を投げ入れて火箸でかき混ぜてやった。
武士は黙々と筆を進める。
しんしんと時間は経ち、辺りは急激に肌寒さを増していた。
百姓がいったん自分のねぐらに戻ろうかと考え始めたちょうどそのとき。
武士の筆が止まった。
「これで十分だ。待たせたな」
達成感を湛えた表情で、武士はそう言った。
「すまぬが中身を改めさせてもらっても?」
「面映ゆいが、まあ構わぬ。どうせわしの死後には読まれるのだろうしな」
老人は断りを入れつつ、武士の綴った文に目を通し始めた。
遺言の類とは聞いているが、もしも「わしを殺めたこの村を復讐のために焼き討ちせよ」などと書かれてあっては目も当てられない。
百姓は自分も読みたいと思って半紙を覗いたが、すぐに自分が文字を読めないことを思い出してふいと顔を背けた。
「ふむ、問題ないのう。簡潔ではあるが実に立派な末期の言葉じゃ」
「左様か」
老人の言葉に満足したのか、武士はかすかに笑みを浮かべた。
そうして今度は百姓の方を向き直り、居住まいを正す。
「よくぞここまでわしを殺めず待ってくれた。ありがたく思う」
「ははっ。いいってことよ。お前ぇこそ、逃げる素振りもみせねえとは、あっぱれなことじゃねえか」
まさか礼を言われるとも思っていなかった百姓は、可笑しそうに笑った。
「では約束じゃ。そちの思うままにわしを殺めるがよい」
「最期まで潔いこって。それじゃ、遠慮なく」
そういうと百姓は、老人の家に無造作に立てかけられていた刀に手を伸ばす。
それは過去の落ち武者狩りで村が得た戦利品の一つであった。
武士は刀を一瞥し、それならばひと思いに死ねるだろうと安心する。
そして胡坐の態勢から、首を前に差し出すように身を乗り出した。
「一太刀にて頼む」
「請負はしねえが、やってみるよ」
百姓が刀を上段に構える。
自分の家の中で刃傷沙汰はやめろ、と老人が慌てて口を開きかけて。
それよりも先に百姓が刀を一際上に振りかぶらんとして。
武士が、心から穏やかな口調で、末期の言葉を口にした。
「頼むぞ。その便りを、必ずや故郷に届けてくれ」
その言葉に。
百姓の刀がぴたと止まる。
そして、やがて、刀はそのままゆっくりと降ろされた。
誰にも斬りかかることなく。
「あ、あっ。そっかあ」
百姓は間抜けな声を漏らした。
何かに気付いた、といった様子だった。
老人はなにが起こったのか解せぬと言った顔でそれをただ眺めている。
斬られるはずだった当の武士も、ことの成り行きが分からず困惑していた。
なぜ自分は生きているのか。
「よもや貴様、この後に及んで情にでも中てられたか!」
それは侮辱だ、と言わんばかりに武士は怒鳴った。
死の覚悟を決め、末期の便りを遺した以上、今さら命が惜しいとは思わない。
百姓の行動は、武士の散りざまを汚すものであるように思われた。
「どうしたんじゃ、お主。本当に情が移ったか?」
「違う、違ぇんだ。おいらぁ、気付いちまったんだよ」
「気付いたとな? 何のことじゃ?」
そう問いただされて、百姓はおずおずとその答えを老人に耳打ちした。
それを聞いた老人は得心がいったとも呆れたともつかぬ顔をする。
そう。
武士は故郷に向けて、最期の言葉を便りに託した。
では武士が死んだあと、その便りははたしてどうなるか。
その便りは、どうされねばならないのか。
決まっている。
誰かに向けて綴られた便りは。
その誰かに向けて、届けられねばならない。
そうでなければ、便りとは呼べぬ。
それは、あまりにも自明であった。
「まるで分からぬ。わしに説明せい」
百姓の言いたいことに理解が及ばず、武士が苛立たしげに二人を睨む。
「……お前ぇの故郷はどこだよ?」
返ってきたのは質問であった。
問われてみればなるほどうっかりしていた、と武士は思う。
故郷の場所を知らなければ、こやつらには便りを届けることも出来まい。
だがそれも実に些細なことだ。
故郷の場所を教えてやれば、それで足りること。
少なくともこの時点では、武士はそのようにたかをくくっていた。
だが実のところ、問題点は全く別のところにあったのである。
「お前ぇ、西の方に逃げてたよな? あの山を越えていこうとしてたろ」
「それが何だというのだ」
「あの山の向こうには港町があらぁ。そこがお前ぇの故郷か?」
「いや違う。そこから船でさらに西へ往く」
「……まあ、そうだろうなあ。遠いよなあ」
やりとりを交わすうちに、武士は相手の心のうちが徐々に読めてきた。
百姓の表情や態度から、それがありありと伝わってくるのだ。
「さては貴様、便りを届けるのが煩わしいと思うておるな?」
図星を突かれ、百姓は面目なさそうに小さく頷いた。
気が向かない。
面倒くさい。
それが、百姓の態度が一変した理由であろう。
武士の家族のことを哀れに思って、末期の便りを遺すことを認めたはいい。
しかしその便りを誰かが故郷に届けねば意味がないことに、百姓は考えが及んでいなかったのであった。
「それはあまりに、あんまりではないか」
「だって仕方ねえじゃねえか。こっちにも畑仕事があらぁな。お前ぇの便りを故郷に届けるのに、どんだけ日がかかると思ってやがんだ」
百姓の言い分はもっともである。
馬を用いたとしても、山を越え里から里へ渡るのに半日以上はかかるのだ。
ましてや海の向こうのさらにその先となれば、この村に戻ってこれるのはいつになるやら。
「しからば、飛脚なり旅人を使うなり、誰かに便りを託せばよかろうに」
「こんなくたびれた村に飛脚や旅人が寄るわけねえだろうがよ」
「しからば、最寄りの町に趣き、そこで誰ぞに託せばよかろう」
せっかく形にした便りをふいにされてはかなわぬ、と武士は引き下がった。
しかし状況は覆しがたいことに薄々気付いてもいる。
「かような便りを請け負うてくれる者など誰もおりゃせんよ」
諭すように老人が口を挟んだ。
「ここからお主の故郷までの間には、おそらくいくつか大名さまの領地を通ることになろう。そしてそこには当然、関所があるはずじゃ」
老人の言わんとすることが、武士には理解できた。
隣り合う大名同士の領地の境は、極めて政治的に敏感な場所である。
互いの仲が良ければまだしも、反目しあっていればなおのこと。
そのような場所において人の行き来を管理し、敵兵や間者の侵入を阻む。
そのための施設が関所である。
そこでは関銭が設定されており、通るだけで銭を徴収されてしまう。
要するに、便りを届けるだけのために多額の銭がかかるのである。
しかも旅人や商人などの通行の際には、役人にて持ち物を検められるのだ。
危険なものを持ち込まれないように。
もしも落ち武者の手紙を運んでいるなどと関所の役人に知れたならば。
間者の類と勘繰られて、その場で斬り殺されることも十分に考えられた。
「たしかに、引き受けてくれる者が現れる道理はない、か」
それ以上の引き下がりは無駄と悟り、武士はがっくりとうな垂れる。
せっかく用意した便りのことを思えば、腹立たしさより悔しさが勝った。
とはいえ本来は、百姓に山中で殺されていても文句は言えぬ立場である。
便りを綴る中で、故郷への思いを整理する時間を与えられたことをこそ感謝すべきではなかろうか。
そのような感傷で無理やり己を納得させることしか武士には出来なかった。
「なんだかすまねえなあ。期待を持たせるようなことしちまってよお」
自分が与えた猶予の刻が相手をいっそう苦しめる結果になり、百姓は申し訳なさそうに掌をこすり合わせた。
「もう良い。早うその刀でわしを討て。もうこれ以上心を乱したくない」
「いや待ってくれよぉ。ここでお前ぇを斬ったらよお。これまでの時間はなんだったんだって話になりやしねえか?」
「わしはその時間で己に向き合い、十分に満足した。さっさと斬れ」
「それじゃあお前ぇも、その便りも浮かばれねえだろがよぉ。斬れねえよ」
斬れ。斬れねえ。斬れ。斬れねえ。
そんな問答が繰り返し繰り返し続いた。
端で見ていた老人が呆れたようにして成り行きを見守っていると。
なにかを閃いたのか、百姓がすっと目を細めた。
「そうだ。じゃあこうしねえか?」
「如何にする?」
武士がずいと身を乗り出す。
百姓は自信たっぷりにこう答えた。
「簡単なことだぜ。お前ぇがその便りを故郷に届ければいいんだ」
かくして。
自分の遺言を自分で故郷に届けるという、奇妙な顛末のできあがり。
おあとがよろしいようで。