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③落ち武者の遺書 前編

 それはもう気持ちの良いほどに見事な負け戦であった。


 前線はいとも容易く突破され、自軍の最奥へと敵勢の侵入を許し、開戦からわずか半刻も経たぬうちに趨勢は決した。

 敵を迎え撃つ家臣たちは次々に討たれ、足軽たちは武器を放り投げて我先にと逃走する。


 ほどなくして大将級の首が落ち、戦はあっけなく終わりを迎えた。

 これほどあっけなく終わった戦は、この乱世においても比類なきものであったに違いない。


 ◇◇◇


 かの戦場からそう遠くない山の奥にて。


 一人の男が薄暗い林道を進んでいた。


 見るからに満身創痍で、髪は乱れ、足元がおぼつかぬといった様子。

 よく見ると所々から尋常ならぬ出血をしているのが分かる。


 男は先の戦を落ち延びた武士であり、すでに討ち死にした大将に仕えていた下級の家臣でもあった。


 何度も後ろを振り向いては、追っ手が未だ来ないことを確認。

 そして少しだけ歩みを進めては、また後ろを振り返る。

 先ほどからその繰り返しであった。


 兜や大袖や草摺などは逃走の邪魔になると考えてとうに脱ぎ捨てていた。

 籠手と臑当て、そして喉輪だけがかろうじて男の外見を武士のそれに取り繕っていた。


 命の次に大事な刀は、戦場に落としてきてしまっている。

 防具とは違ってそれはわざとではなく、不覚によるものであった。


 せめて馬が手元に残っていれば、この敗走ももう少し楽であっただろう。

 もしも追っ手がやってきたら、自分は抵抗も防御もできずに容易く殺されてしまうのだろうな。

 そんな思いが去来し、武士はぶるりと身震いをする。


 しかし大将がすでに討たれている以上、敵も敗残兵にそこまで深追いはすまい。

 そうであってもらわねば困る。


 そのような楽観で己の恐怖心を慰めながら、武士は蝸牛の歩みで先を進んだ。


 このまま西方へ逃れ、大将の領地に辿り着ければ。

 残った家臣たちや周囲の大名と団結し、勢力の建て直しが図れるやもしれぬ。

 そのような思いが、精魂尽き果てかけている武士の背中を押す。


 だが。

 運命とは時に残酷である。


 「そこのお前ぇ! 止まりやがれ!」


 後ろから大声がして、武士は反射的にその方角に目を向けた。

 不揃いに並ぶ木々を避けながら、男が一人で足早に近づいてきていた。


 鎧具の類を身に着けず、質素な小袖のみの外見。

 背丈はやや低いが、がちりとした立派な体躯。

 その手には鍬を抱え、腰には小さな鎌を携えている。


 その姿はどう見ても敵軍の追っ手ではなかった。

 だがその表情からは、明らかにこちらへの敵意が見てとれる。

 おそらくは戦場近辺に住む百姓であろうと武士は見当をつけた。


 「――落ち武者狩り、か」


 嘆きともつかない呟きが思わず口から漏れる。


 落ち武者狩り。

 それは、乱世においては法の下の公認となっていた慣行。


 戦場の近隣に暮らす百姓たちが、逃走した敗残兵を捜索し、捕獲する。

 売り払えば金になりそうな武具を全て剥いで、兵はその場で殺害される。


 それは当時の百姓たちにとっては、自衛と実益を兼ねた当然の権利であった。

 なおかつ落ち武者とは法の保護の外の存在であり、彼らの略奪は倫理的にもなんら問題のない行為であったのである。

 むしろ幕府や戦国大名が村々に落ち武者狩りを依頼することすらあった。


 厄介なことになった、と武士は思う。

 同時に、刀さえあれば、と口惜しさを感じた。


 こちらの手元には武器の類はなく、刃を携えた相手と争う術はない。

 どうにかこの場から逃げおおせようにも、体力は底を尽きている。

 今目の前にいる敵は一人だが、他の仲間がいつ駆けつけないとも限らない。


 百姓が目の前まで至るまでのわずかな間に、武士は諸々と考えを巡らせる。

 そして速やかに、覚悟を固めた。


 「お前ぇ、もう逃げらんねえぞ」

 「逃げる気などない。わしはどこへも行きはせぬ」


 鍬を向けて牽制してくる百姓を一瞥し、武士はその場に腰をゆっくりと降ろす。

 ここにきて、逃れえぬ命の終わりを悟ったのである。


 相手が同じ武士であれば、情けも期待できたやもしれぬ。

 しかし百姓相手にそれは期待できぬことであろう。


 落ち武者狩りはただの略奪ではなく、生きるための術なのだ。

 今はそういう時代である。


 「よく見りゃあ貧相な装備じゃねえか、おい。お前ぇ足軽か?」


 武士の姿をまじまじと眺めていた百姓が、そのようなことを言う。

 仮にも一将の臣であった己を侮辱されたように感じて少し腹が煮えたが、武士はそれをすぐに飲み込んだ。


 今は鎧の大部分を戦場に捨ててきているのだ。

 知見のない者が見れば、たしかに頼りない装備に見えても無理はないだろう。


 「これじゃあ身ぐるみ剥いでも大した金にゃなりそうも……」

 「殺せ」


 百姓の言葉を遮って、武士は毅然と言い放った。

 どうせ死ぬのなら、潔く堂々とありたい。

 それは武門の徒としての意地であった。


 「ずいぶんと諦めのよろしいこって。抵抗しねぇのかい」

 「抗いなどせぬ。だがせめて痛みのないように、ひと思いに首を断ってくれると嬉しいのだが」


 せめて苦しまずに死にたい。

 そんな気持ちで出た言葉であった。


 だが武士は、自分の口にしたそれがあまりに難題であることに気付く。


 百姓の装備は鍬と鎌。

 それらは土を耕したり、稲や雑草などの植物を刈るための道具にすぎない。

 刃物には違いないが、人を斬るように作られてはいなかった。


 ましてや首を断つなど、剣術に明るい者であっても決して容易いことではない。


 「あるいは、その鎌を貸してくれれば、手前にて腹を斬るが?」

 「馬鹿かお前ぇ。刃物を渡しちまったら、それで反撃するつもりだろうがよぉ」


 武士の提案を百姓は一蹴した。

 謀るつもりではないのだが、と武士は思う。

 しかし確かに百姓の側からすれば、この状況で相手に武器を渡せるはずもない。


 「俺はあんまり器用じゃねえし、そんな頼みは聞けねえな。今からこの鍬でお前ぇの頭や腹を何度もかち割るからよ。悪く思うなよ」


 むべなるかな。

 結局、武士のささやかな頼みは却下となった。


 これから己を襲うであろう地獄の苦しみ、そしてその果ての死。

 それは武家の誉れとはほど遠い、あまりに惨めな最期であるように思われた。


 「分かった。苦しゅうない。早く殺めい」


 半ば投げやり気味に、武士は天を仰いだ。

 やはり自分は逃亡などせずに戦場で散るべきだったのだと、今さらながら後悔が襲う。


 潔さと自暴自棄がない交ぜとなったかのような武士のありさま。

 その様相を前にして、百姓の心にもなにか思うところがあったのであろうか。


 「なにかお前ぇよう。言い遺すこととか、ねえのかい?」


 かすかに憐みを帯びた言葉が、武士にかけられた。


 「言い遺すこと、か」


 武士は瞑目する。

 遺言、辞世、末期の言葉。


 このような人気のない山中で百姓相手に言葉を遺したところで、特段それが後世に残るとも武士には思えなかった。

 語り継がれるとも思えぬし、明日には忘れられていることだろう。


 だから別に言い遺すことなどない、と言いかけて武士はやめた。


 もしもそれが叶うのなら。

 それはこの末期における、最後のささやかな慰めになるかもしれない。


 「……便りを遺したい」

 「ああ、なんだって?」


 聞き返す百姓に、武士は顔を上げて答えた。


 「わしには故郷に置いてきた家族がある。思えば屋敷勤めでもう幾年も会えておらぬし、ここで死ねば二度と会うことも叶わぬ。だからせめて、家族に向けてわしの思いの丈を文で伝えたいのだ」


 故郷に宛てて、最期の便りを書き遺したい。

 それが今この場で武士が思いつく、最後の願いであった。


 「家族、かぁ。お前ぇ、子供とかいるのかい?」

 「二人だ。上は地元の大名に仕えて功も成しておる。下も今頃は元服の時期よ」


 遠い目で息子たちの顔を思い出す武士。

 それを見て、百姓も幾分か声を和らげる。


 「いるのかあ、子供。そうかあ。そいつらに文を遺したいたぁ、殊勝だなあ」


 この時代、法の保護の外にいる落ち武者にかけるべき情けなどない。

 だがこれから親を討たれる子供たちの存在が、わずかなりとも同情を引き出したのだろうか。


 百姓は神妙な面付で少し考え込み、やがて顔をあげた。


 「ようし、分かった。便りを遺させてやらあ。だが途中で逃げようとしたらそのときは容赦なくその場でお前ぇの頭を鍬で砕くからなあ」

 「逃げなど考えぬ。わしは武士ぞ」

 「結構なこった。それじゃあこれからお前ぇを村に連れていくからな。多分長老の家に行けば紙と筆くらいあったはずだ」


 百姓は鍬の柄で武士の背中をつつき、立ち上げるように促した。

 ゆっくりと身を起こした武士は、背後に回った百姓に見張られながら、ふらふらと歩きはじめる。


 百姓の話では彼の暮らす村は、この度の戦場とほんの少しばかり離れた場所にあるらしい。

 戦場とはすなわち、武士がつい数刻前までいた場所である。


 こうして今にも力尽きようとしていた武士は、長い時間をかけて来た道を再び戻る羽目になったのであった。

 必死に逃げた甲斐がなかった、と武士は溜息を吐いた。


 百姓の目は常に武士の動きを矢のように鋭く見張っている。

 逃亡や抵抗を警戒しているのだろう。


 しかし武士はそのいずれをもすでに諦めている。

 そのような力はもはや露ほども残っていないのだから。


 心中ではただひたすらに、故郷の家族に向けてどのような言葉を遺すべきかに思いを馳せている。


 主君に仕えていた頃、戦陣に寝起きしていた頃、戦場で刀を交えていた時。

 そして敗走していた先刻ですらも思いの及ばなかった家族の存在。

 それに今、ようやくこうして向き合う時間が与えられた。


 それはこの末期にあってわずかなりとも幸いなことである、と武士は思う。


 己の伝えたいこと。

 伝えるべき相手のこと。

 それらがひたすら頭の中をぐるぐると巡る。


 そうこうしているうちに。

 どれほど歩いたか定かではないが、気付けばいつの間にか。


 武士と百姓はようやく目的の村に辿り着いた。

 すでに陽は暮れていた。


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