②おらしょ
ある秋の日の夕暮れ。
肥前国のとある山奥の集落に、一人の旅人が迷い込んだ。
彼は集落の住民に対して、一夜でいいから宿を借りたいと願い出た。
旅人は自己紹介も兼ねて、旅の道中の体験談を住民たちに披露しはじめる。
集落に籠りきりの住民たちは、旅人の語る外世界の話をとても面白がった。
彼らは今の徳川家将軍が何代目で、誰なのかすら把握していない。
世俗離れした集落にあって、外界から来た旅人の話はとても刺激的に聞こえた。
住民たちは旅人をたいそう気に入った。
集落を去ろうとする旅人を引き止めて、連日連夜に渡ってもてなした。
それでも最後には、旅人は集落を離れなければならなかった。
肥前の遥か東、堺の町を目指す大切な用事があったからだ。
旅人がいよいよ集落を去ると知った住人たちは、ひどく残念がった。
出立の日、皆に見送られながら集落を出ようとした旅人。
そのさなか、年長格の老婆からあるものを渡される。
それはぼろぼろに古びた矢筒であった。
中には小さく設えた縄で封された布の巻物が収まっている。
おそらく布は水濡れを防ぐためのもので、その中には数枚の紙が丸められているのが手触りで分かる。
これは手紙だ、と老婆は言った。
堺の町の近くに、この集落と同じように山奥に籠った村が存在する。
その村は、この集落と古来より親交がある。
堺の町に向かうついでに、この手紙をその村に届けてはくれまいか。
ただし、絶対に手紙の内容を読んではいけない。
そのようなことを、老婆は旅人に頼んだ。
旅人は宿泊の恩もあって、お安い御用と引き受ける。
このようにして、旅人は集落を後にした。
託された手紙を携えて。
それから、数日の時が経った。
◇◇◆
ある日の朝。
野宿していた旅人は、陽光に瞼を刺されながら目を覚ました。
酷く寝汗を掻いている。
心なしか、頭痛がする。
それというのもここ最近、毎晩のように妙な夢を見るのだ。
夢の内容は次のようなものであった。
洞窟の中。
暗くて狭い空間に、蝋燭の火が何本も灯っている。
その灯りのなかに、何人もの見知らぬ人々の顔がうっすらと浮かぶ。
彼らはみな一様に、なにかの歌を唄っている。
歌というよりかは、お経を唱えているかのようでもある。
あれるいあ。
ぐるりよざ。
あま。
ぜそ。
しんじたてまつる。
厳かに、ゆったりと、かつ淡々と。
意味の不明瞭な言葉が、抑揚の少ない旋律で。
狭い空間の中に、不思議な節回しが反響する。
非日常の浮遊感と荘厳さが体を包み込み、妙な心地よさが広がる。
そのまましばらくすると。
不意に。
蝋燭の火が消える。
暗闇のなか、何も見えなくなり、人々の気配も瞬時に消え失せる。
先ほどまで響いていた歌もばったりと止む。
代わりに、今度は別の歌が地の底から聞こえてくる。
先ほどまでの歌とはうってかわって、海の底に沈められたかのような息苦しさと圧迫感が旅人にもたらされる。
この世のものとは思えない旋律に、正気を失いそうになる。
次第に旅人の体からは感覚が失われ、思考が奪われていく。
やがて意識は深い闇の中へと飲み込まれていき。
毎回そこで、夢から醒めるのだった。
◆◇◆
旅人は今日も堺の町を目指して、東へと歩き続ける。
まだまだ先は長い。
道中で考えるのは、毎日自分を悩ませるあの夢のこと。
荘厳な歌と、その後に続く禍々しい歌。
後者については、これまでの人生で全く聴いたことのないものだった。
この世のものとは思えぬ、地の底に引き込まれるような、名状しがたい歌。
だが、前者については。
夢で聴いたものとは異なるが、似たような歌をかつて聴いたことがある。
あれはたしか数年前、肥前国のとある村で宿を借りた際のことだった。
決して外部に他言しないようにと村人たちに固く口止めされたうえで、特別に通された集会場で旅人はそれを聴いた。
おらしょ。
村人たちはその歌を、そう呼んでいた。
かつて幕府が厳しい弾圧を行った切支丹の教え。
だがそれでも、その信仰を捨てなかった者たちがいる。
隠れ切支丹と呼ばれた異国の教えの信奉者たち。
彼らが幕府の監視の目から逃れるために生み出した祈祷の歌。
もし幕府の手先に聴かれたとしても、切支丹の歌だと判断できないように。
讃美歌の旋律や歌詞を、日本土着の節回しと発音にて再構成したもの。
それが、おらしょ。
そしてそれを披露する村人たちは、隠れ切支丹であった。
はじめてその歌を聴いた時、旅人は強い恐れと畏怖を感じた。
それと同時に、奇妙な感動が沸き起こったのを覚えていた。
旅人自身は特段の信仰をもたない。
神も仏も信じてはいない。
しかしこの世には、命を賭けて信仰を貫こうとする人々がいるということを、そのとき初めて知った。
翌日、その村を発つ際に、村人たちは旅人のために祈った。
あなたに主の加護と導きがありますように、と。
その日のことを、旅人は思い出した。
そして悪夢について、ふと考える。
もしかすると夢の前半に出てくる歌は、おらしょの一種なのだろうか、と。
なぜ夢におらしょが出てくるのかは分からない。
なにかの前兆、虫の知らせのようなものなのだろうかとも思う。
だが今のところは確かなことはなにも分からない。
それでは、と旅人は別のことに思いを巡らせることにした。
夢を見るようになったのは、はたしていつからだったか。
それについて旅人ははっきりと覚えている。
最初に夢を見はじめたのは、あの集落を発った日の夜だった。
ではあの集落は、件の悪夢となにか関係があるのだろうか。
集落の人々はみな親切だった。
悪夢の内容とは共通点が見つからないように思えた。
全く関係ないはずだと旅人は思いたかった。
ただし。
そこで旅人は、自分が大事に抱えている荷物の一つに視線を向ける。
視線の先には、集落から託されたあの矢筒。
そこには手紙が入っている。
これを渡してきた老婆はそう言った。
決して内容を読むな、とも言ったはずだ。
その言いつけを破るつもりは旅人にはない。
ないのだが。
旅の道中、どうにも手紙の内容が唐突に気になることが多々あった。
読んではならないことは無論分かっている。
しかし時折、手紙が自分を誘っているような気分に駆られるのだ。
読め、と囁かれているような声すら感じることがある。
心の中で、頭の中で、あるいは耳元ではっきりと。
そしてその頻度は、日を追うごとに少しずつ増えているような気がする。
旅人は考える。
この手紙には、自分を引き寄せる特別ななにかがある。
そしてそれはもしかすると、あの悪夢とも無関係ではないのかもしれない。
旅人は考える。
手紙が意志をもって、あの悪夢を見せているのか。
もしかすると、手紙を読まないとあの悪夢から解放されないのかもしれない。
旅人は考える。
手紙を読めば、あの悪夢から解き放たれるのか?
そこに論理の整合性があるかなど、そのときの旅人には判断できなかった。
手紙を読んでみたい。
読めば何かが変わるかもしれない。
そんな衝動を正当化するために、辻褄を短絡的に合わせたにすぎないのかもしれなかった。
ともかく、旅人は意を決した。
託してくれた者たちには悪いと感じながらも。
封縄を解き、布を丁寧に外して。
その手紙を。
読んだ。
そこで、旅人の意識は途切れた。
◆■◆
「――目が覚めましたか?」
気付けば旅人は、知らない部屋にいた。
見たことのない形の家具らしきものに囲まれた、真っ白な部屋。
部屋の中心には、二人の男が立っていた。
そのうちの一人は髪や目の色をみるに、明らかに異国の人間だった。
もう一人はおそらく日本人だが、見たことのない黒い着物を着ている。
まるでこの部屋は異国のそれのようだ、と旅人は思った。
たしか周防か安芸のあたりで野営していたはずだが。
「ここは、どこなんだ? あんたらは、誰だ?」
言葉が通じそうな黒服の日本人に向かって、旅人はおそるおそる尋ねた。
「やはりなにも覚えていない、というわけですね」
黒服の男はそう呟き、隣では異国の男が小さく頷いた。
「あなたは、あれを読んだのでしょう?」
「あれ?」
そう言われて、旅人は思い返す。
たしかに意識が途絶える前、旅人は読んだ。
集落から託された、あの手紙を。
そのことが、今の状況にどう関係しているのだろうか。
「覚えていないでしょうが、あなたは江戸の町の空き家で発見されました」
「江戸だって?」
驚愕する旅人。
意識のない間に、自分はいつのまにか江戸まで移動していたと言うのか。
目的地は堺の町だったはずなのに、そこを遥かに通り越している。
「お、おれは江戸でなにをしていたんだ?」
「写本を作っていたんですよ。あなたが読んだ、あれの」
「写本だって? なぜそんなものを?」
「江戸中にばら撒くつもりだったのでしょうね。そうなる前に、我々が取り押さえて今に至るわけですが」
身に覚えのない話だった。
自分がなぜそんなことをしなければならないのか。
「まあ、間に合ってよかったです。もう少しでこの国が破滅するところだった」
「破滅ってなんだ。なにがどうなってるんだ。そもそもあんたらは何者だ?」
なにもかも訳が分からず、苛立ちまじりに旅人はそう詰問した。
黒服は一瞬答えるか迷ったようだ。
だが隣の異国人が返答を許可するように頷いたのを見て、旅人に向き直る。
そして、ぽつぽつと語り始めた。
◇■◇
黒服の話によると。
その書物は、遠い異国から日本に渡ってきた。
かつて江戸幕府が肥前国に設置した出島を通して、それは国内に侵入した。
書物はやがてばらばらに散逸し、断片となって日本全土に散らばっていった。
旅人があの集落から預かったのは、手紙などではない。
それは、散らばった書物の断片であった。
その書物には、人を狂わせる力がある。
精神を破壊し、狂気に堕とし、やがては死に至らしめる。
異国においても、その書物を巡って町や国が滅んだ例がいくつもあるという。
旅人はその魔性に導かれて、それを読んでしまったのだ。
そして意識を奪われ、操られるように書物をひたすら書き写した。
その狂気のごとき力を、この国に広めるために。
「あなたは読むべきでないものを読んでしまった。本当なら命を落としていてもおかしくはありませんでしたよ。生きているのが不思議です」
「ただの手紙だと思っていたんだ。あれは一体なんなんだ?」
「この国ではあまり馴染みがないでしょうが、あれは魔導書です」
そういうと黒服は、その書物の名を口にした。
それは聞き慣れない発音だったが、旅人にはかろうじてこう聞こえた。
ねくろのみこん。
◇◇◇
目覚めてから次第に体調を取り戻した旅人は、ほどなくして江戸からやや離れた浦賀の港で解放された。
黒服たちと出会ったあの部屋は、大きな黒船の中の一室だったようだ。
聞けばあの異国人は、遠い大陸の合衆国から四隻の艦船を率いてこの国にやってきたという。
そしてあの黒服は、江戸幕府が遣わした異国人の世話役兼監視役であった。
旅人は四月から十月の間、およそ半年も意識を失っていた。
その間に起こった黒船来航は国全体を騒がせる大事件として各地へ伝わった。
どうやら表向きでは、あの黒船は江戸幕府に開国を迫るためにはるばるやってきたことになっているらしかった。
しかし実際は、この国から魔導書の全ての断片を回収することが真の目的だという。
嘘か真かは分からないが、あの黒服はそう言っていた。
旅人が肥前で立ち寄ったあの集落は、出島とそう離れていなかった。
おそらくはかつて国外から侵入した魔導書が、集落に流れ着いたのだろう。
そうして集落全体が、その邪悪なる力に取り込まれてしまったのだ。
では旅人が手紙と称した断片を託された意図はなんだったのだろうか。
もしかすると途中で中身を読まれることを織り込み済みで、魔導書の勢力を全国に広めるつもりだったのかもしれない。
その推測が当たっているかは不明だが、そのようになりかけたのは確かだ。
それにしても、と旅人は考える。
黒服の話では人間の精神を容易く滅ぼすという、魔導書の断片を読んだのに。
なぜ自分は今こうして無事でいられるのだろう。
それを考えているうちに、旅人はふと思い出す。
毎晩見ていたあの悪夢に出てきた、あのおらしょの旋律。
そして、自分のために神の加護を祈ってくれたあの隠れ切支丹の村人たち。
もしかすると。
彼らが歌ってくれたおらしょが、自分を守ってくれていたのかもしれない。
確証はない。
考えすぎかもしれない。
だけれど旅人は、そう思うことにした。
無事生きていることを、誰かに感謝したい気分だったから。
心機一転。
太陽が真上に輝く頃合いになって、旅人は中断されていた旅を再びはじめることにした。
奇妙な体験に区切りをつけ、自分の日常に戻るために。
目的地は、堺の町。
そうして旅人は出発し、しばらく東に向かって歩いていた。
しかし、自分が今いる場所が浦賀であったことを思い出し、慌てて西に進路を変えたのだった。