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①代筆の螺旋 前編


 江戸下町に住むりく爺といえば、辺りで知らぬ者はない。


 りく爺はかつて江戸城に参勤し、将軍の御旗の下で三十年ばかり働いた。

 下級の武家の出でありながらその働きぶりが認められて、果てには奥祐筆の地位にまで取り立てられた男だ。


 奥祐筆とは天下の将軍の名のもとに公文書を作成したり、江戸城内の様々な機密書類を作成し管理する役職である。

 また、全国から将軍宛に送られてくる書状の中身を事前に確認して、将軍に御目通しすべきかどうかを判断する立場にあった。


 読み書きの達者なことに加え、書状の内容をいつまでも覚えておくことに秀でていたりく爺は、若年寄に祐筆の素質を見出されて推薦された。


 決して高い地位ではなかったが非常に重要な職で、たいそう名誉なことだ。

 りく爺はその任をありがたく賜り、他の奥祐筆に埋もれることなく働いた。


 だが、彼が五十歳になろうかという頃。

 そろそろ奥祐筆筆頭の座に収まる頃合いかと城内で噂されていた折、彼は奇しくも季節の流行り病に倒れた。


 そろそろ潮時か、とこの時のりく爺は考えた。

 今の仕事も不満はないが、自分は十分に徳川に仕えたといって良いだろう。


 決心したりく爺は、病を口実に城勤めの暇をいただくことにした。

 奥祐筆の座を狙う者は城内に数多とおり、彼の年齢もあって反対する者はいなかった。


 元より独身で気楽な身。

 ほどなくして彼は一人、下町の素朴な長屋に移り住んだ。


 そうして数ヵ月ほど立って。

 今や彼は悠々と気長に隠居生活を謳歌している。


 武家の生まれではあるが生来より人当たりが良く、下町にもよく馴染んだ。

 町民たちとも偉ぶらずに接したため、人格者ともっぱらの評判であった。


 さて。

 りく爺は、人から頼まれごとをされたら断れぬ性分だ。

 とくに町人相手に対しては、武士のはしくれとして良き助けにならねばと常日ごろから考えている。


 そのためか、彼のもとへは毎日ひっきりなしに誰かがやってくる。

 そして、やっかいな頼み事をもちかけてくるのだ。


 今回は、その一端の成り行きをご紹介したい。


 それは、ある秋の日の昼下がりのこと。


◇◇◇


 「やいやい、りく爺はいるかいっ?」

 「おやおや、与太郎じゃあないか。久しいことだねえ」


 朝早くからりく爺のもとを尋ねてきたのは隣町の無職、与太郎であった。


 「今日は頼みがあってきたんでい。どうか一つ、頼まれてくれよ」

 「まずは聞いてみないことには、頼まれてやれるかは分からないねぇ」

 「そうかい、それじゃあまずはひとつ、俺の話を聞いてくれい」


 威勢よく舌を回して与太郎がまくしたてたのは、次のような話だった。


 「なるほど、手紙を代筆してほしい、と」

 「そうそう。りく爺は昔、江戸城でお習字室やってたんだろう?」

 「奥祐筆ね。響きが似ているが、お習字室じゃあない」

 「そう、それそれ」


 手紙の代筆。

 またか。りく爺は内心そう思った。


 江戸の世においては寺小屋の普及もあって、以前の時代よりは読み書きが一般的に普及していた。

 だがそれでも、字を読めず書けないといった者はまだまだ多い。


 一方で元奥祐筆のりく爺は、言ってみれば読み書きの達士である。

 そもそもの話、将軍の手紙を代筆する職業こそが奥祐筆。

 つまりりく爺は、代筆を生業にしてきた人間といって差支えない。


 だからこその因果だろうか。

 りく爺に代筆を頼みに来る町人は日増しに増えているのだった。


 「で、どういった内容の手紙を代筆したらいいのかね」

 「えへへ、聞いて驚け。実は、恋文ってやつでさぁ」


 まあそんなところだろうと、りく爺は特段驚きもしなかった。

 江戸の町民が書く手紙など、遠い親戚への挨拶か恋文くらいのものだろう。


 「読んだら思わずその場で茹で上がっちまうような、扇情的で情熱的な名文ってやつをさ、一筆、どぉんと頼むぜ」

 「そう簡単に名文なんてぇものは捻りだせないもんだよ。それが出来るなら今頃は浄瑠璃作家にも転身してるさ」

 「あんたになら出来るって。なにせ天下の江戸城の六波羅蜜!」

 「奥祐筆ね」


 などと受け答えしつつ、りく爺は頭の中で考えをまとめはじめている。


 「それで与太郎や。恋の相手はどんな娘さんなんだい? 名前は? どこに住んでいるのかね?」


 恋文にもいくつかの雛型があり、相手の性格などに応じて書き方がおおよそ決まってくるのが相場というものだ。

 快活な相手には情熱的に、奥手な相手には誠実かつ実直に、といった具合に。

 となると、まずは恋文を送る相手のことを知るべきであろう。


 しかし、与太郎の返事は予想外のものであった。


 「し、知らねえ」


 驚きでりく爺の目が丸くなる。

 好いてる相手のことをよく知らないなんて話があるだろうか。


 「ってことはあれか。道端で出会った娘に一目惚れでもしたってわけかい?」

 「そ、それも、知らねえ」

 「あんたがそれを知らないってこたぁないでしょうよ。どういうきっかけで、どういうところが気に入ったのかね?」

 「し、知らねえものは、知らねえんだい」


 なんだか妙なことになってきた。

 心なしか与太郎の態度もどこか空々しい。


 「なあ、りく爺。別に相手のことなんか知らなくっても、恋文くらい書けるだろうがよ。適当にそれっぽい浮ついたことを書いてくれりゃあいいんだ」

 「まるで他人事みたいな口ぶりだねえ」

 「だって他人事だもんよお……あっ!」


 しまった、というような顔で与太郎がしかめ面になる。

 その様子とその口ぶりから、りく爺はなんとなく事態が飲み込めてきた。


 恋文を出す相手のことをよく知らない。

 他人事。


 「さてはあんた。代筆を頼まれたね? それを丸投げしようって腹づもりだ」

 「……さすが、りく爺に隠し事はできねえや」


 指摘を受けるやいなや、与太郎はあっさりと事情を説明しはじめた。


 要約すると。

 昨日の昼、与太郎は隣家に住む傘職人から恋文の代筆を頼まれたのだという。

 何を書いたらいいか分からないから、上手い口説き文句を設えてくれと。


 最初は断ったのだが、相手はすぐさまこう挑発してきた。


 「さてはお前、字が書けねえんだろ?」


 これを聞いた与太郎はつい、かあぁっとなった。

 字が書けないのは事実であるし、それは江戸では特段珍しいことでもない。

 しかしいかにも馬鹿にされたようでなんだか面白くない。


 結局、見栄を張って恋文代筆を安請け合いしてしまったという次第。


 「断ればよかったのに、馬鹿だねえ」

 「そんなわけにいかねえ。こちとら筋金入りの無職よ。おまけに学もないと世間様にばれたら恥ずかしくって江戸の町を歩けねえってもんだ」


 ならば働けばよいのに、とりく爺は思ったが口には出さなかった。


 「さてさて、代筆の代筆ってわけかい。気が進まないことだね」

 「こちとら見栄がかかってんだ。適当で良いから一つ頼むぜ」

 「そうは言っても相手のことが分からなければなあ。あんた、本当に何も聞いちゃあいないのかい?」

 「必要ねえと思ったから、聞かなかっただけでぇ」


 そんなことをいうが、どうせ実際のところは聞き忘れただけだろう。

 粗忽なことである。


 「だったら無理にこれ以上関わることはないだろう。断って御終いになさい」

 「んなこと出来るわけねえだろがい。一度引き受けたものを突っ返すなんざ、江戸っ子の恥ってもんよ」

 「そうやってまた見栄を張るってわけだ。あんたも大概だね」


 呆れつつも、りく爺は次の手を考える。

 これ以上与太郎と話していても、恋文は出来上がりそうもない。


 かといって、与太郎からの頼みを無碍にする気もりく爺にはなかった。

 一度親身になった相手を突き返したのでは寝覚めが悪い。

 見栄とは少し違えど彼もまた、与太郎と同様に体面を気にする質であった。


 となると。

 ここはひとつ、相手の娘さんの情報が欲しいところだった。

 名前、住処、性格、普段の生活あたりが知れれば人となりは十分把握できる。


 しばらく間をおいて、りく爺の考えがまとまった。


 「よし。それじゃあその傘職人に会いに行こうかね」

 「えっ? なんでまた?」

 「恋のお相手がどんな娘か、さりげなく尋ねに行くのさ。大丈夫、あんたの代筆を請け負っているなどとは決して漏らしゃあしないから安心なさい」


 傘職人から恋慕相手のことを上手く聞き出す。

 そうしたら一旦家に戻って、上手いこと恋文を取り繕う。

 あとはそれを与太郎が傘職人に渡せば、全てが丸く収まる。


 というようなことをりく爺は説明する。

 なるほど、と与太郎は手で相槌を打った。


 「こいつは上手くいきそうだ。さっそく行こうじゃねえか」


 こうして、二人は傘職人の元へ向かうことになった。

 おそらくこれで何かしらの進展が得られるはずだ、とりく爺は確信していた。


 だが、事態はそう単純ではなかったようである。


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