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ゼグと婚約破棄してから、シキアの家族は村から疎外された。ゼグとシキアが別れたという情報は広がり、様々な憶測が生まれたのだ。
そして、シキアのせいでこうなったということになっている。シキアも弁解したが、誰も信じてはくれない。ゼグはあの日までは好青年だったこともあり、彼がシキアを裏切ることはないと思われていたのだ。
しかし、シキアも品行方正な娘として知れ渡っていた。二人でどうしてここまで差が出てしまったのか。
それは男爵令嬢ヨミリーの存在である。婚約破棄を彼女が仲裁したことによって、ゼグが正しいというのが村民の認識だ。上の人間が間違っているとは誰も言えない。段々と村から厄介者扱いされるようになり、シキアの家の田畑に嫌がらせをするようにもなった。
このままでは税を払えずに死ぬこともあるとシキアの両親は頭を下げてお願いをしたが、村民はこう返答する。
『だったら、娘に金をもらえよ。まあ、ダメか。色狂いで金も強請らず体を男に差し出しているんだから。そんな娘を誰が助けようと思う。あの毒婦もそれを育てたお前らも自業自得だ』
何時しか、シキアは淫乱な女であるというのが周知の事実になっていた。
あまりにも歪められた自分の印象にシキアは絶望してしまった。そして、両親もシキア以上に深刻に思い、
「そ、そんな」
今日、首を吊って自殺した。近くの机には何かが書かれた紙とそれなりの金が入った袋が置かれている。紙にはこう書いてあった。
『この村から出て、幸せになりなさい。一人分だけならどうにかしたから」
金は村から出ていくための資金らしい。これでどうにか仕事が見つかるまで生活しろというものだ。
「無理だよ、父さん、母さん」
しかし、シキアは両親の望む通りには動けない。そもそも、シキアは村以外で生活したことはなかった。外へ出ろと言われても、どこでなら生活できるかというものを知らない。それに武器も扱えない人間が金を持って旅をしては、盗賊の格好の餌食だ。
シキアができることは両親が残した金を使って村で短い余生を過ごすこと。飢え死にするか、苦しい前に自殺するか。
それならいっそのこと、
「もう、ここで死のうかな」
大粒の涙が出て、床にひれ伏した。
何で自分は死ななければいけないのだろう。そもそも、どうして村民はシキアたちを悪者に仕立て上げたのか。
弁解する時に味方になってくれる人は誰もいなかった。ゼグの両親もあれだけ息子を非難していたのに、住民に聞かれれば『わからない』と知らないふりをした。結局、彼らは息子と同じようにシキアたちを見捨てたのである。
こんなことになることをゼグは知っていたのだろうか。そこまで自分が憎かったのかとシキアは考えるが、彼がここまで自分を貶める理由に見当がつかない。
別の理由を考え、これまでの行動をもとにある結論へとたどり着く。
「ああ、ゼグは私のこと何とも思ってなかったんだ」
ようやくシキアはゼグにとって自分は他人以下の人間にしか見られていなかったことに気づいた。
だから、あんな風に傷つけても平気でいられたし、婚約破棄が成立すれば笑顔で出ていけるのだ。興味がないのでシキアのその後のことなんて知ることもしない。
ゼグが憎くて殺したいと思った。けれど、そんなことはシキアにはできない。
――死んで、呪ってやる
ただ、自殺した後に期待して、自分も首を吊ろうと準備をしようとした。ゆっくりと立ち上がり、不確かな足取りで使うロープを探す。
なかったら、包丁で死のうとも考えた。
そんな時だった。
ドンっと音を鳴らして扉が勢いよく開く。
久しく家には訪ねてくる客いないので、シキアは来訪者が見てしまう可能性を失念していた。両親の死体を見れば、シキアが殺したと思うだろう。そうしたら、シキアが犯人として捕まってしまう。
――まあ、それでもいいか
しかし、生きる気力のないシキアには好都合だった。二人も殺したとすれば死刑は免れない。自殺する手間が省けるというものだ。
焦点が合わず、近づいてくる来訪者の全体像がわからない。シキアは立ち止まっていたので距離はすぐに縮まり、来訪者は目の前まで来た。
「何があったの?」
「……父さんと母さんが自殺した」
女性らしき声が聞こえ、シキアは正直に答えた。
その後に何で自分は正直に話してしまったのだろうとシキアは思う。死ぬことが望みなら殺したと嘘をつくべきだ。そうすれば、来訪者は逃げて助けを呼ぶだろう。
「村の皆が嫌がらせをして、耐えられなくて。私は何もしてないのに、ただ婚約破棄をしろって求められたからしただけなのに……」
開いた口は止まらずに話し続ける。シキアの意志ではどうにもできなくなっていた。
「わかりました。話を聞きますから落ち着いてください」
しかし、来訪者の言葉を聞くと静止する。同時に来訪者の姿も明確に見えるようになった。
質素な服装で顔を頭巾で隠しているが、それでもわかるぐらい絶世の美女だった。人が死んでいる場所にも関わらず暖かな瞳で自分を見つめている。
あまりにも綺麗な瞳なので自分の姿が鏡のように映った。
その姿は哀れという他ない。来訪者である美女よりは劣るにせよ、村でも有数の美人で通っていた顔は痩せこけ、涙で濡らして無様なものだった。
「ありがとうございます、ありがとうございます」
それでも、シキアにとってはどうでも良かった。やっと、自分に耳を傾けてくれる存在が来てくれたのだから。それも、死のうと思っていたどん底で。
シキアは改めて美女に事の全てを話した。簡潔に話すことは難しく、所々うまく説明できないところもある。それ以外にもこれまでの自分の嫌な経験が思い起こされ、説明を止めてしまうことさえあった。
それでも、美女は真剣な表情で話を聞き、シキアが過去に押しつぶされそうになった時は優しく微笑み慰めてくれる。
シキアは美女の対応に久しぶりの安心感を覚える。婚約破棄されてから、村の住人をもちろんのこと、両親にもシキアは恐れを抱いていた。
村民に襲われるかもしれないと怖くて仕方がなかったし、娘のせいでこんな目にあって両親も自分を見捨てないかと気が気でなかったのだ。しかし、シキアには努力する気力はなく俯いて日常を送るしかなかった。
ところが美女はそんな恐れを全く感じさせない。まるで聖女のような慈しみがその体を纏っていたのである。
最後まで話し、シキアは再び号泣する。それは悲しみからではなく、自分の醜さからだった。自分の話を聞いてくれたことで、心が平生を取り戻した。そして、目に映ったのは両親の姿だ。
どうして話し終わるまで両親の遺体をそのままにしていたのだろう。話を聞くと美女は言ってくれたのだから、最初にするべきは両親の供養だったはずだ。それなのに、自分本位だけで考えて、話し終わるまで首を吊ったままにしていた。
容姿も酷い変わりようだったが、心は人でなしにまで落ちてしまっていた。
「……話を聞いてくれたありがとうございます。こんな、親よりも自分に同情して欲しいことを優先する女の話を聞いてくれて」
こんな自己中心的な性格の素養があるのだから、ゼグは自分を捨てたのだとシキアは思ってしまう。追い詰められたら相手のことなんか構わない人間と一緒にいたくはない。
「そんなことないわ。貴方は何も悪くありません!!」
しかし、美女は強く抱きしめシキアの言葉を否定し、その存在を肯定した。
「こんなことになったのは男のせいです。そんな身勝手に、ぞんざいに扱われればこうもなります。そもそも、婚約破棄なんて言葉を使う男の愚かさに呆れますわ。貴族でも婚約破棄という制度はありますけど、実際にあることなんて稀です。口に出すなんて憚れるものですよ。しかも、貴方のような場合は婚約破棄とは言いません。男がやったことは貴方への辱しめに他ならない」
シキアは自分の存在を肯定され、天にも昇る気分になる。こんな自分は世界にいてもよい存在であると断言されることで自信が持てた。反して、かつて愛したゼグへの非難へ嫌悪感を持たなかった。
未来を夢想した男のことを、婚約破棄した日からシキアは考えたことがなかった。正確には考えないようにしていた。
少しでも彼の顔を想起すると不安定になる。村の外へと出て、ゼグの胸を刃で抉りたくて堪らなくなる。それはいけないことだと、犯罪だと思考に鍵をかけた。
村民や両親もゼグのことを口に出さないので、考えないことは簡単だった。
しかし、彼を愚か者だと言ってくれた美女のおかげで自分に正直になれる。
「ゼグに復讐したい。報いを、自分の手で下したい」
これまでシキアが生きてきた中でしたことがないような歪んだ笑みをする。自分のような目にあってどん底に落ちる彼の姿が見たい。
「わかりました、手伝いましょう。私も彼のような存在は貴族として看過できません。それに一線を越えようとしている貴方にも。相手が卑しいからって一緒に堕ちる必要はありません。貴方に正しき裁きができる場所を与えます。その代わり――」
美女は立ち上がり、そっとシキアに手を伸ばした。
「このヴェロニカ・サラマスの右腕として、貴方の命を使いなさい。常人ではなせぬ努力によって自分を高めなさい。そして、私が導く場所に相応しい人間となりなさい」
シキアはヴェロニカの手を掴まない選択肢をとれない。彼女に付いて行く他に、シキアが善く生きる道はなく、ゼグに報いを与えることはできないのだから。
しかし、状況に流されたからではないと、自分の確固たる意志を持って手を力強く掴む。
「私は貴方に仕えます」
「よろしい」
二人の女は契約し、シキアは両親を弔って旅立った。
先に村から離れ、自分を捨てたゼグに拮抗する力を得るために。
新しい一歩にこれまで想像していた不安はない。あるのは自分の思いを成就するという大きな覚悟だけであった。