第五話──春休みの残り四日
二○九六年三月三一日。
時刻はすでに真夜中近く、間もなく日付が変わろうとしている。
明かりの消えたビルの窓ガラスは、街灯の光を反射して、様々な街並みを照らしている。駅前の繁華街は、きらびやかなネオンの景色。深夜営業のファミレス。カラオケ。コンビニエンスストア。路上には飲酒をする若者たちがあふれている。
無邪気に笑騒ぎ、笑いながら、彼らは時折、他愛ない噂話に盛り上がる。
そんな日が沈んだ東京の一角を浅倉春人は、住宅街へと続く歩道を黙々と歩いていた。
彼は灰色のパーカーを着て、コンビニ袋をぶら下げて歩いている。
年齢は三月の下旬に誕生日を迎え十六歳となり、高校生へとなっていた。
特徴と言えば、青みがかった黒髪だが、奇抜な髪型や服装をした者が大勢いるこの神奈川県横浜市では、簡単に埋没してしまい別段目立った印象はない。どこにでもいるような、ごく普通の少年だ。
疲れているわけではないのだろうが、彼の足取りは気怠けだった。コンビニ袋に入っているのは、六個詰めの唐揚げの箱が二個とミネラルウォーター。夜中に唐揚げが食べたいと言い出した隣人に言われて近所のコンビニまで買い物に出かけた男子高校生、といった雰囲気だ。
少年が帰宅へと向かってる歩道は、意外にも通行人が多い。
気をつけなければ少し歩くだけで誰かと肩がぶつかるような、そんな道だった。
あまりにも人混みなので、春人は街灯が弱い道へと足を向ける。
だが、それがいけなかった。
しばらく歩いて人の声が少なくなり、穏やかな道の先にいるのは、黒いフードを深くかぶった、挙動不審の男だった。
男は終始落ち着きがなく、常に右腕をパーカーの内側に忍ばせている。
変なことに巻き込まれたくない、そういう思いで頭を落とし男とすれ違う寸前、春人は相手の様子を伺うため視線をチラリとやった。無精ひげを生やし、双眸が真っ赤に充血した男と、目が合ってしまう。
「…………っ! うわああああああああ!」
男が叫んだ。そして次の瞬間、男は懐から怪しく光るナイフを取り出し、春人に突き刺しにかかる。
が、その相手が悪かった。たいして怯える様子もなくあっさりナイフを春人は素手で掴んだのだ。そのせいでわずかとはいえ鮮血が散り、道路や駐停車していた白いワゴン車や静かに歩いていた人らに血が飛び散る。
そのまま春人は右足で男の股間を蹴り上げ、その衝撃で男の体が一瞬浮き、ナイフを反射的に手が離れ、股間を押さえながら崩れ落ちる。
余計な言葉が出るよりも速く春人は追撃として男の喉に貫手を打ち込む。「ぐえっ」と呻き声を洩らし、男は白目を剥きかけ倒れた。
そのあまりにも異常な光景に偶然見ていた女性が叫び声をあげ、春人を襲った男は気づき逃げようとしたが、騒ぎを聞きつけた男らによって瞬く間に取り押さえられる。
混乱は波紋する。誰かが呼んだのだろうか、しばらくするとけたたましいサイレンが聞こえてきた。警察のパトカーが現場に駆けつけた時には、春人の姿はなかった。
混乱に乗じてあの場から逃げ去った彼は、近くのマンション入り口で軽く息を吐いた。掴んでいたナイフを持ち変えて、それを近くの側溝に捨てて傷口を見つめ言う。
「あ~あ、咄嗟とはいえ掴んだのダメだな。手刀か何かして叩き落とすべきだった」
春人は治癒符と呼ばれる物を取り出し、傷口へとあてると、見る見るうちに傷が塞がり治っていく。赤く染まる掌にはナイフによる傷一つない素肌へと戻った。
ミネラルウォーターで血を洗い落とし、足早に春人はその場を去る。こんな無駄な時間を浪費しては隣人が変に不審がる、と気に病みながら、
「……勘弁してくれ」
春人は白い月を見上げて、誰にでも言うでもなくそう呟いた。
◆
茜色に染まりかけた西の空から、強烈な陽射しが空から注いでいる。
「こんか不平等の極みなる社会なんて、嫌いだ……」
午後のファミレス。窓際のテーブル席にぐったりと突っ伏して、六日後、礼導館東学園高校へと進学する春人が弱々しく呻く。
制服姿の中学生である。羽織っている灰色のパーカーを除けば、特徴的な部分はあまりない。どこにでもいる男子生徒だ。それなりに造りのいい顔には気怠けな表情が浮かび、眠たげに細められた目のせいで、ふて腐れたような雰囲気になっている。
四月最初の火曜日だった。天気は快晴。チラリと目をやると外には多くの学生らしき姿が見える。春休み期間という奴だ。
大層幸せそうな面々に軽く睨みつけながら、テーブルに広げられた書籍やらプリントの束やらを気怠く見据える。
「なあ。今、何時だ」
なのに春人の口から洩れたのは、独り言のような呟きだった。正面に座っていた友人の一人が、笑いを含んだ口調で返事をする。
「もうすぐ三時。あと五分二十四秒」
「もうそんな時間かよ。なあ、明日の補習は朝九時からだっけか」
「今夜一睡もしなけりゃ、まだあと十八時間と五分ある。これなら間に合うよな?」
同じテーブルに座っていたもう一人が、他人事のような気楽な声で訊いてきた。春人は沈黙。積み上げられた教科書の端を無表情で触る。
「なあ……ずっと思ってたから訊くけどさ」
「ん?」
「なんで俺はこんな大量に補習を受けなきゃならないんだろうな」
自問するような春人の呟きを訊いて、友人二人が顔を上げた。
春人が補習を命じられたのは、英語と数学二科目ずつを含む合計合計九科目。プラス、「生存環境に適応した生物の主な要因について」という大学並の論文。春休み残りわずか四日で、こんな目に遭う人間はまずいない。
「……ってか、この補習の出題範囲って広すぎだろ。そもそも、こんなの中学の時に習ってないぞ。おまけに進学校の中でも、偏差値トップクラスじゃないとわからない課題が紛れ込んでるのは嫌がらせだろ!? 宗介はなんか恨みでもあるのかよ!?」
春人の悲痛な叫びを訊いて、友人たちは互いの顔を見合わせる。同じ学校の制服を着た男子と、それとは違う市立の共学校に通う女子が各一名。彼らの表情には、なにを今さら、と呆れたような感想が浮かんでいる。
「いや……そりゃ、あるだろ。恨みは」
シャーペンをクルクル回しながら答えたのは、短い茶髪に春人より五センチほど高い背丈をし、ヘッドフォンを首にかけ、左頬にやや目立つ傷痕があって魅力的に見える男子生徒だった。それが第三中学校首席である波月流星という男だ。
「流星から訊いてる限りだけど、大事な中学最後の授業をサボって反省してなかったらねェ。舐められてるって思うんじゃない、普通は。……おまけに他校の不良何十人だかと盛大な喧嘩沙汰起こしたって訊いたしィ?」
優雅に爪の手入れなどをしながら、例の肝試し以来記憶消去措置を受けても、定期的に冬音と一緒に会っていた加井奈緒が笑顔で言ってくる。
いつもの華やかな髪型をポニーテールにして纏め、校則ギリギリまで飾り立てたワンピース状の制服。センスがいいのか、目立つ容姿をした女子だが、センスがいいのか不思議とけばけばしい印象など一切なく、初対面の頃と変わらない。
黙っていれば文句なく美人なのだが、常に浮かべてるニヤニヤ笑いのせいか、色気はあまりなかった。男友達と一緒にいるかのような気安さを感じてしまうのもそのせいだ。
「だからサボりのほうは仕方なかったんだって。色々と人には言えない個人的な事情があったんだよ。不良のほうは売られた喧嘩を、こっちも買ったから俺も悪いけどさ。だいたい今は夜中に出向くことが多いのに、あの宗介は……」
苛ついた口調で春人は言い訳をする。その目がかすかに血走ってるのは、怒りのせいではなく、単に寝不足なのである。
「夜中に出向くってなによ? 未成年の夜間バイトは禁止じゃないの?」
奈緒が不思議そうに訊いてくる。春人は、自分の失言に気づいて唇を歪め、
「ああ、いや。つまり夜型っていうか、朝起きるのが苦手っつうか」
「なにそれ、吸血鬼っぽいんだけど。でも陽呉中の時は無遅刻無欠席の変な不良だったはずよね。だったら吸血鬼ハンターとかしてるとか? もしそうだとしたら、それウケるって!」
「なわけあるかよ……はは」
引き攣った笑顔で奈緒の雑談を濁す春人。吸血鬼に吸血鬼ハンター。怨霊を討滅している陰陽師。当たらずとも遠からずな発想をしてきて、実に春人としては困る。奈緒と家が隣同士で幼馴染の流星は全く気にしないのが、余計に困る話だ。
それに春人は密かに、無断──駐在任務中の正規陰陽師に隠れて──で怨霊を討滅するため夜中を出歩いてるのだから。
「あたし個人的には、今年度あんたと流星が通う中高一貫校で教頭をしているって言う宗介さんは、いい人だと思うけど? あんたが相当馬鹿なことしてんのに、補習で全部チャラにしてくれてんでしょ」
ズズ、と音を立ててジュースをすすりながら奈緒は言った。「まぁ、そうだな」、と曖昧に春人も同意する。
──でも一般校に進学申請出したら、すぐに気づいて滅茶苦茶に叩き潰され、貯めてた全財産没収されたけどな。
内心で、春人は宗介のえげつない出来事を振り返る。
「奈緒はこうやって勉強しなくても、困らないからいいよな」
ぶっきらぼうに春人は吐き捨てる。その言葉にかすかに棘が含まれているのは、苛立っているわけではなく、羨望と嫉妬によるところが大きい。
春人は適当なページを開き、そのページが奈緒に見えないように机に立てかけた。そして、
「四十六ページの最初の問題、出だしは?」
「パスカルの三角形を使って、次の式の展開式を求めよ」
「もう意味わかんねよ。どんな記憶力してるんだよ」
彼女は見た物を細部まで精密に記憶できる完全記憶能力を持つ。自らの目で見た光景を全て記憶することのできる能力を意味し、「超記憶症候群」というものに罹患した人物がこの能力を持つといわれる。奈緒はそれに自由に記憶したものを、自由に引き出せる記憶整理が備わっているのだ。
「いつも思うけど、何が羨ましいの?」
「いや、試験勉強とか必要ないだろ。そういうの見ると本気で羨ましい」
「仮にあんたが完全記憶能力も引き出す能力両方手に入れても、絶対宝の持ち腐れにするから。肝心の授業を訊かずにテストで赤点取るタイプよ」
「……ぐっ、うっせ!」
こちらの性格をよく知った上で確信を持って奈緒が話すため、上手く言い返せない春人であった。
「まあまあ、そんなあんたを憐れに思ったから、こうしてあたしが勉強を教えてあげてんだし」
「他人の金でそんだけ好き勝手に飲み食いしてて、そんな善意だけで動いてますみたいな態度を取るな」
奈緒の前に積み上げられた料理の皿を、驚愕の目つきで春人は眺める。栄養が集まっている胸部へと視線を動かそうとして、止めた。奈緒は非常識なほどの痩せの大食いなのだ。勉強を教えてあげるから軽食おごれ、と彼女に言われたときに、そのことを思い出さなかったことが悔やまれる。
「言っとくが加井の食事代となったのはオレの貸した金だからな。ちゃんと全額キチンと返せよな、春人」
と、流星が冷静な声で指摘する。陰陽師の仕事で相当稼いでいるのに、こういうところで妙に細かい。
「わかってるよ、流星。……にしても二人ともそれでも俺の友達なのかよ」
「いやいや、借りた金を踏み倒そうとするのは人として当然だろ? 親しい仲にも礼儀ありって諺もあるぐらいなんだから犯罪はするな」
至極全うな正論だった。反論の余地なしの正論だった。
すると、
「あー……もうこんな時間? んじゃ、あたし、そろそろ行くわバイトだし」
携帯電話を眺めていた奈緒が、残っていたジュースを豪快に飲みほして、じゃ、と手を振り上げる。
そんな彼女を春人は見上げ、
「バイトってあれか。デジタルプログラマーの……」
「そっ、それ。政府が開発したアプリの保守管理っやつ。いい値段なのよ」
奈緒は、楽しげに空中でキーボードを叩くような仕草をしてみせ、足早に店を出て行った。まるでコンビニ店のバイトに行くような気軽さだが、日本政府の内閣官房情報セキュリティセンターの関連施設は一介の女子高生がまず入れる場所ではない。
「あの見た目と性格で、学年トップ。俗世に理解があって実家は金持ち。神仏の方々はあいつに何物与えたら気が済むんだろうな?」
窓の外の奈緒の後ろ姿を見送りながら、流星が春人に問いかけるように言う。
「俺はこの地獄の補習イジメをくぐり抜けれればいい……」
春人は顔を上げもせずに言う。流星はそんな春人を観察しながら、何気ない口調を装って、
「そういや、加井が他人に勉強を教えるなんて相当意外だったな。あいつ、そういう頭の悪い馬鹿って嫌いだからさ」
「なんで嫌いなんだ? 奈緒はいい奴だから頼まれたら教えそうだけど」
「あいつ、ああ見えて、頭が良い人扱いされるの嫌がるんだよ。良家のお嬢様がゆえの悩みってやつ? 媚びたり、下心あるのが集まりやすいからな。だから他人に勉強を教えるのは嫌いなんだよ、あいつは」
「へぇ……それは知らなかったな」
春人が何気なくそう呟くと、流星は露骨に目の色を変えた。
「不思議だとは思わないか? どうしてお前には教えてくれるんだろうって、実に気になるよなあ?」
大袈裟なジェスチャーをしつつ、流星は首を傾げながらわざとらしく言う。
友人の不審な挙動に、春人は、いや全然、と首を振り、
「つるむ相手が留年するほど馬鹿だと、外聞が悪いからだろ。それにあいつ、きっちり見返り要求してんじゃん。互いにメリットデメリットがあるウィンウィンな関係だろ?」
「ん~……そういう内容の話じゃねぇんだけどな」
流星がとても呆れたように肩を落として、ダメだこいつら、と目元を覆う。友人のそんな不可解な反応に眉根を揉んだ春人は顔を上げ、
「どうかしたのか?」
「いや、なんでもねぇよ。東大でも出題されない難問が解けなくて悩んでるだけだ。じゃあ、加井も帰ったしそろそろオレも帰るわ」
「は?」
「いやいや、加井の教え方上手いからいくつかメモさせてもらったし、あいつがいなきゃ、こんなとこで勉強しても意味ねぇだろ。さっき悩んでいた難問の解き方を模索しなきゃいけないしな。まあ、お前はせいぜい補習を頑張れよ」
じゃあな、と荷物をまとめて立ち上がる友人を、春人は唖然とした顔で見つめる。
どうやら流星は、どさくさに紛れて、奈緒の解説をメモし終えたらしい。
一方、春人の補習勉強のぶんは、ほとんど丸々手つかずのままだ。中学生レベルの問題が少ないのだから、当然と言えば当然だが、見せつけられた処世術の格差は、すでに崖っぷちにいた春人の心をへし折るのに十分だった。
「嘘だろ……冗談にしても悪すぎるぜ」
ファミレスにポツンと一人取り残され、春人は再びテーブルに突っ伏した。
涼風にもよろしくな、との流星の声なんてどうでもよくなるレベルの落ち込みようだった。
そういえば腹も減っていた。しかし今の春人は半ば強制的に春人の財布には、料理を追加注文するほどの余裕はない。ドリンクバーの炭酸水で無理繰り空腹をごまかすのもそろそろ限界である。
どれほど陰陽師として優れていようと、並以上の身体能力を備えていても、たとえ神を我が身に降ろせようとも、そんなのは現代社会では役に立たない。
補習範囲の薄っぺらい問題集一冊も、満足に終わらせることができないのだから。
「はぁ、俺も帰るか……。晩飯の支度をしなくちゃいないし」
春人はそう呟くと、テーブルに広げられた教科書や問題集を急いでカバンに放り込み、伝票を掴んで立ち上がった。
レジで精算を済ませると、二万は入っていた財布の中身が、一千円とわずかな小銭しか残らなかった。このままでは明日からの昼食代にも心許ない状態である。
隣人の雪原冬音に金を貸してもらうには、どういう言い訳をするべきか──そんなことを真剣に考えながら、春人は店の出口に向かった。そしてふと足を止めた。夕暮れの街並みを眺める。
そんなファミレスの正面。交差点の向かい側。
逆光の中に一人の少女の姿があった。
春休みや流星と同じ高校に通うことになる女子生徒だ。
彼女は太陽を背にして無言で立っていた。
まるで春人を待ち構えたかのように、身じろぎもせずそこに立ち続けている。