第41話「理想の女」
僕は今までずっと馬鹿にされてきた。これからもずっとそうだろう。僕はこの世のありとあらゆる嘲笑を甘受するが、それでも飯を食いたい時に『満腹です』などと言う訳にいかない。
僕はいま真面目に考察をしている。世間の人たちが、「お前のいうことなど、耳を傾ける価値がない」という態度をとるのなら、僕だってわざわざ釈明などはしないつもりだ。
目の前にいる黒衣の少女が、僕にこう尋ねた。
「念のために聞くけど、本当に、まっとうに戻る気はないの?」
「ないよ。頭の方はまだマトモな積りでいるけどね」
彼女が何者なのか、何故ここに居るのかは、僕にとっては大した問題じゃなかった。天使だろうが悪魔だろうが、幻覚だろうが、幽霊や物の怪の類の類だろうが、とにかく人間でない事だけは確かだからだ。敵か味方か、それだけが分かればいい。
「君はさっき、ヒトと言う種を引き戻すために来たと言ったが、いま僕の目の前にいる理由は何だい?」
そう僕は尋ねた。彼女は僕に、轡をはめに来たのかもしれないと思ったからだ。引きこもりは、自分の部屋に引きこもってるだけで、世間に害をおよぼしてはいないけれど、僕は違う。僕のような人間を野放しにしておけば、頭のよくない人間には、確実に悪影響を与えるはずだ。
「私はただ、言葉を伝えに来ただけ。良い話と悪い話を一つずつ持ってきてるけど、どっちから、先に聞く?」
「じゃあ、悪い話から」
「悪い方からね……」と黒衣の少女はいい、こう続けた。
「この『手記』は誰からも読まれてない」
「えっ?」
「誰からも読まれてない。貴方が必死に、分かりやすく、面白く書いたとしても、誰の心にも届いてない。それは最初から、読まれてないのと同じじゃないかしら?」
「そうだね」
「もともと貴方は、大して期待はしていなかった。一人でも二人でも、その価値に気づいてくれる人がいれば、それでいいと思ってた」
「その通りだ」
「その一人すらいないという話をしているの。だったら、なんにもしない方がまだマシじゃないかしら?」
「瞑想的惰性ってことかい?」
「そう。貴方の産み出した、あの引きこもりのように」
この手記を楽しんでいるのは僕だけだ、という自覚はあった。確かに僕は引きこもりとは違う、片隅に生きる人間だ。彼と同じく、時々癇癪を起すほど堅気の人間を羨んではいるが、だからと言って、「マトモになるくらいなら、狂った方がマシだ」とまでは思っていない。
「引きこもりの方が、まだ幸せな人間じゃないかしら? 少なくとも彼は、他人から理解されない苦しみを快楽に変えてるわ」
「それは僕も同じさ」
「同じじゃないわ。貴方はまだ、理解されることを諦めていない。だからこの『手記』を、将棋指しの話で終わらせなかった。そして、再び私を呼んだの」
「僕が君を呼んだ?」
「そう。このまま自分の色を付けずに、この『手記』を終わらせたくなかったから」
「……」
確かに僕は嘘をついている。何故なら僕は、ひきこもりの事を心から愛していながらも、彼の生き方が良いとは、まったく思っていないからだ。僕の渇望しているのは何かしら別なもの、まるっきり別なものだということを、二x二が四というほど、はっきり知っているからだ。
ただそれが何なのか、どうしても発見できないのである。
「貴方は本当に、自分の書いたことを信じていて?」
「信じているさ。僕はどこまで行っても、引きこもりの味方だ」
「彼を外に引きずりだそうとしていたくせに?」
「それは、物語を面白くするためだ。引きこもりが憎くてすることじゃない」
僕がこれまで書いたことの中で、何か一つでも自分で信じることができたなら、どんなに素晴らしい事だろう?
「僕は彼にちゃんと救いを用意していた。僕自身がそれを望むように」
僕は今まで自分の書き散らしたことを、ひと言も、それこそ只のひと言も信じちゃいなかった。いや、信じたいと思ってはいるのだが、どういう訳か、自分ではずうずうしい法螺を吹いているような、そんな気がしてならないのだ。
「では、なんのためにこんな手記を書いたの?」と、黒衣の少女は僕の心を見透かすかのように、そう尋ねた。
「あんな優秀な人間を、周囲の人間はキチガイと見なし、四十年も仕事もさせないで閉じこめた。その期限が切れた時、世間の人たちが彼をどういう風に扱うのか、それを描いてみたいと思ったんだ」
「貴方はもう、その答えを知っているんじゃないの?」
「かもしれない」
「だがいったい、本当に才能のある人間を、四十年も仕事もさせずに放って置いてよいものだろうか? 世間の人たちが、どんなに生理的に彼の事を嫌おうと、彼の頭の良さだけは、認めざるを得ないはずだ」
「だから、それが伝わってないと言ってるの。この手記を読んでる人は、まるで珍獣を眺めるような気持で、貴方と私を遠巻きで眺めてるだけだわ」
「それは知っているさ」
「開き直りね。その態度は卑怯じゃないかしら?」
「卑怯?」
「貴方は今、自分で相場が張れないものだから、人生の諸問題を、混乱した論理で解決しようとしているだけよ」
それは、確かにそうかもしれない。
「貴方の突拍子もない言い草は、小うるさくって生意気だわ。貴方は馬鹿なことばかりいって、真面目に創作に挑んでる人たちを振り回して、それで満足しているのよ」
流石に少しイラっと来た。僕は屈辱を快楽に変える奴とは、断じて違う。無理解に対する怒りを、いつだって力に変えてきた人間だ。
「君だって、思わせぶりな事ばかり口にしながら、そのくせ何も身になる事を言ってないじゃないか? よくもまあ、そんな口を叩けるもんだよ」
「だって私は、貴方の理想の女だもの」
「理想の女?」
「美人で、意地悪で、性的でなくて、それでいて《《いつも自分だけを見てくれるメンヘラな女》》。貴方の描く女性は、いつも全部同じだわ」
「……」
「思わせぶりが嫌だというなら、はっきりと言ってさしあげましょうか?」
「貴方は何も怖くないと大見えを切っていながら、それと同時に、大衆の歓心を買おうとしている。貴方はボンクラとは関わりたくないと主張しながら、彼らを笑わすために、くだらぬ洒落ばかりを振りまわしている。貴方は自分の洒落が、洒落になってないのをちゃんと自覚しながら、この手記の本質ではない創作論が受けるのを見て、おおいに大満悦だったはずよ」
一本取られたと思った。だが僕は、自分の小説が世間に理解されないなら猶の事、この作品を無意味なものにしたくなくて、せめてエンタメに仕立て上げようとしたのだ。
でもそれを抗弁してみたところで、所詮は僕の負け惜しみに過ぎないと思った。
(続く)




