第39話「普通の人間の自覚」
「自分自身の勝手な気まぐれこそ、貴方たち人間にとっては、この地上に存するいかなるものにもまして、尊いものよ。何故ならそれは、貴方たちにとって最も重要で貴重なもの、すなわち【人格と個性】を保証してくれるから……」
「個人の尊厳」という、十代の頃に倣った青臭い言葉を、僕は思い出していた。まさか今の自分が、そんな博愛主義者が唱えるような言葉を、大切に思っているとは思わなかった。
「なるほど。確かにそれは、人間にとって何より尊いものだ。だが熱狂というものは、その気にさえなれば、理性とも合致することができるんじゃないかい?」
「貴方、どうかしちゃったんじゃないの? この熱狂というやつは、殆どの場合、理性とは相反するものなんでしょ? 自分でそう言ってたじゃない?」
「そうだった……。多分、僕は動揺してるんだ。個人の尊厳。確かに僕は、かつてその概念を、とても大切にしてたから……」
「私は別に、それを否定している訳じゃないわ。熱狂を理性に合致させる必要なんて、どこにもないってことを言っているの」
「どうして?」
「熱狂と理性との矛盾もまた、単に有益であるのみならず、時として、大いに賞讃に値するものだからよ」
彼女の言葉は意味と知れは理解できるが、実感として全く腑に落ちなかった。
「私の言葉が信じられないなら、こんな生活を想像してみるといいわ。貴方のような人間に、十二分の経済的満足を与えて、ぐうぐう寝たり、美食を貪ったり、自分の好きなアニメや漫画を消費すること以外に、やることのない境遇に置いて見るのよ」
「うん」
「最初の数か月は、そんな生活もありかもしれない。でも、そのような理想的な状況に置かれてすら、ヒトと言う生き物は、ただ恩知らずな天邪鬼な気質のために、その生活を破壊しようとするでしょう。そうじゃない?」
何一つ不満のない世界に、破滅の分子をまき散らしたいという思いから、ヒトは自分の突拍子もない妄想や、馬鹿げた欲望を失うまいと心から望む。美食の幸福や、経済的自由を棒にふる覚悟で、わざわざ身の破滅を呼び込むような、思い切り不合理な、馬鹿げたナンセンスを欲求する。
人間はどこまでいっても人間であって、ピアノの鍵盤ではないということを、自分自身に確認させるために生きているのだと、彼女は言った。
「勿論、普段の貴方たちは、自然の法則に従って生活をしている。けれども、あまりにそれに頼って生活をしていると、もうこの表を無視しては何一つ行動できなくなる。だからそうならないように、自分自身に警告を発しているのよ」
「もし、そのための適当な手段がない場合には?」
「その時は、人間はわざと気違いになり、自らの理性を崩壊させてでも、自分の主張を貫徹するでしょう」
「まるで、引きこもりと同じようなことを言うんだな」
「引きこもりは私じゃなくて、貴方よ。かつて私たちは、隠されていた自然の法則をヒトに与えるために、貴方たちの前に現れたの」
もうとっくに気づいてはいたが、これで彼女がヒトでないことは確定だ。神か悪魔か、あるいは執筆に疲れた僕の頭が見せている妄想か。いずれにしたって、僕はもうマトモな状態ではない。
「なんだって、そんな事をしてたんだい?」
「神の軛から、ヒトを開放するため。だけど多分、知り過ぎたのね。ヒトは迷信から解放された代わりに、本来持っていた能力を失ってしまった。いや、失っただけではなく、否定まで始めてしまったの」
「だから私はそれを引き戻さなくちゃいけない」と、彼女は力を込めてそういった。
「人間は絶えず自分が人間であって、単なる釘でないことを証明したがる生き物なの。人間の営みとは、結局のところ、その証明に尽きているのよ。勿論、殆どの人間は愚かな行為におぼれ、何事も成すことなく死んでいく。だけど、種としてはそれでいいのよ」
「種として?」
「そう。何の得もないとわかっているのに、ただ同じことをしたくないという理由で別の道を行く人間がいるから、新たな可能性が生まれる。我々では成しえない、途轍もないことも成し遂げられる。それはヒトという種が、不合理で、恩知らずな生き物だからこそ、出来ることなの」
「じゃあ、僕は普通の……。普通という言葉に語弊があれば、本来の《《人間らしい人間》》だという事か」
「その通り。個人の人生を豊かにするためならともかく、分別なんてものは、一つの種としてはまったく必要ではないのよ」
《続く》




