第20話「僕のやりたい事」
「面白い話ですね」と、ずっと黙って僕の話を聞いていたユキさんが口を挟んだ。僕は二十二年前のあの日から、急に現実に引き戻される。
「CCCキャピタルの階段を降りると、土佐波さんが車で迎えに来てくれてた。僕が自分の儲けだけでなく、金利まで取り返したことを聞くと、彼はふてえ奴だって笑ってたよ」
「それはそうでしょうね」と言って、ユキさんも少し笑った。
多分僕は、あの時既に、剣乃さんに認められたくて仕方なかったのだ。そして今、ユキさんに対しても同じような気持ちを感じている。僕はもう、これが試験であることを忘れ、ただひたすらに師匠の魅力を語ることに専念してる自分に気づいた。
「僕は剣乃さんに、回収してきたお金をすべて渡して、その場で弟子入りを志願した。これから先の人生で、師匠以上の大物に出会うことはないと確信していたからね」
「そこから、師弟関係が始まったんですね」
「その通り。どうせ剣乃さんが居なければ戻ってこなかったお金だから、惜しくはなかった。そしてその判断は、結局正しかったんだ」
「というと?」
「次の日から早速、剣乃さんの管理してる借名口座のいくつかが、僕の受け持ちになった。つまり、土佐波さんがやっていたようなことを、僕もやるようになった訳だ」
「なるほど」
「剣乃さんは、いくらまで攫えと命じるだけで、売買の意図を明かすことはなかった。だけど、注文を代行するだけでも、僕には非常に勉強になったよ。本物の相場師の売買タイミングを直に知れるんだ。万巻の書を読むよりも、相場の腕は上がるに決まってる」
実際には、剣乃さんは僕の百五十万を受け取る事は無かった。いや、正確には一度受け取ったのだが、貸してやるといって全部突っ返してきたのだ。「自分の力で更に増やせ」という意味にとった僕はその金を収めた。
そして僕は、一年もたたないうちに、その金を一千万以上に増やしたのだ。
この時つっ返された百五十万は、三年後、ちょっとした笑い話のネタになるのだけれど、それはまた別の話だ。今はただ、法外な授業料を払う羽目になったとだけ言っておこう。
「当時、兜町には、K氏と呼ばれる大物仕手筋が二人居た。一人が加藤 暠。そして、もう一人が剣乃さんだ。個人の力を結集して相場を作った加藤さんとは違い、プロの金しか使わなかった剣乃さんは、世間的には殆ど無名だった。だけど僕は、加藤さんに勝るとも劣らない相場師だったと思ってる」
「最後のフィクサーとまで呼ばれた人間ですしね」
「うん。弟子入りから半年ほどする頃には、僕名義の証券口座にも、億を超える現金が入ってた。剣乃さんから預かった自己資金の一部だ」
その中には、政治がらみの裏金も沢山あった事だろう。加藤さんは加藤さんで凄い人だが、政界に与えた影響まで考えれば、圧倒的に剣乃さんの方が格上だ。
「あれほど憧れた信用口座も、剣乃さんの名を匂わすだけで簡単に作れるようになった。ニッパチ屋に流す怪文書なんかも、僕がいつも書いてたよ。それから、中野さんとは大の仲良しになったんだ」
「貴方はそこで、煽りの才能を磨いたんですね」
「別にウソは書かなかったさ。会社発表の事実をもとに、自分だったら思わず買ってしまうような思惑を書き連ねただけだ。『お前の煽りを読み上げるだけで、バカが沢山釣れる』って言って、何度もタダ酒をご馳走になったよ」
そう言って僕は笑った。思えば僕も学生の身分にして、どっぷりと悪党の世界に浸かってた訳だ。「でも俺、女・子供は騙してないよ」というのが、中野さんの当時の口癖だった。
「剣乃さんは昔気質の職人だから、細かいことをいちいち説明したりはしない。彼の意図を、世間の人たちにもわかりやすく伝えるのが、弟子としての僕の仕事だったと思う」
「彼はきっと、相場師としてではなく、人間として貴方に自分の意志を継いで欲しかったんじゃないでしょうか? 貴方の話を聞いていると、なんだかそんな気がします」
「師匠は家族を持とうとはしなかったからね。もしかしたら、そんな気持ちもあったかもしれないな。僕は実の父の顔を知らない。僕にとって親と言えば、それは剣乃さんただ一人だ」
弟子入りしてから一年ほど経った後、剣乃さんは少しずつ自分の昔話をしてくれるようになった。角栄との友情はその最たるものだ。多分、僕しか知らない面白い話が沢山ある。
「貴方は、剣乃さんが箱の力で相場師として成功したと思いますか?」
「思わないな。僕は実際に売買を見ているし、相場作りも手伝っているからね。師匠がもし箱の力を使っていたとするなら、それはフィクサーとしてだろう。何しろ、自民党を下野に追い込んだ張本人と言っても過言じゃない人物だからね」
あの日の中野さんの言葉は真実であったことを、僕は随分後になってから知ることになる。その頃の僕は、『剣乃の忠犬』と揶揄されるほどの側近になっていた。
「師匠は相場の世界だけでなく、政界にも多大な影響を及ぼし続けた。でも、その事実は誰も知らない。僕が語らなきゃ、師匠は単なる悪党の一人として、古い相場師の記憶ともに消えるだろう。僕は、それだけは我慢ならないんだ」
「どうやら、結論がみえて来たようですね」
そう言って、ユキさんは少しだけ笑った。
「だからもし、僕が箱の所有者となって、何か力を持つことが出来るのだとしたら、僕は僕の大切な人たちの存在を世に知らしめることに、その力を使いたいと思う。良い部分も悪い部分も含めて、それを出来るのは僕だけだと思うからね」
「わかりました。今のその気持ちを、絶対に忘れないでくださいね」
電話口の向こうで、ユキさんが微かにほほ笑んだように感じた。
おそらくは、審査に合格したのだろう。僕の人生において、重要な転機があったとすれば、その一度目は、剣乃 征大という偉大な相場師に師事したことであり、二度目が、この箱を手に入れたことだと言える。確かにこの箱は、僕の人生を変える箱だった。
「箱は明日にでも届けさせましょう。貴方の人生は、今この瞬間から変わり始めます。箱は必ず、貴方の力になるはずです。貴方と直接話すのは今日が初めてでしたが、とても楽しい時間でした」
「それは、僕も同じです。ありがとう」
そういえば、師匠との馴れ初めを誰かに話したのは、これが初めてだったなと僕は思った。
「ところで私は、貴方の事を昔からよく知っています。貴方が箱の力を正しく使うなら、いつかお目にかかることもあるかもしれませんね」
彼女は確かにそういった。その言葉は、僕を驚愕させるに十分だった。
「他にご質問がなければ、これで……」
「あっ、いや待ってください」
聞きたいことはいくらでもある。
ユキと名乗るこの少女は、何故僕を新たな所有者として選んだのか?
箱の力を正しく使うとは、どういうことか?
だがそんなことを尋ねても、きっと彼女は答えてくれないだろう。彼女が僕の事をよく知っているように、僕も彼女の性格をよく知っている。確信に近い思いが、僕にはあった。まったく合理的ではないが、その時は確かにそう思ったのだ。
「師匠の死後、箱は一度、誰かに受け継がれたんじゃないのかい?」
僕はとりあえずそう尋ねた。今ここで尋ねても不自然でなく、答えをちゃんと貰えそうな問いは、これしか思いつかなかった。
「剣乃さんの次の所有者について知りたい、という事でしょうか?」
「うん。師匠が亡くなったのは、もう二十年近くも前の話だ。その間ずっと、所有者が不在なのは不自然なことだと思うんだけど……」
「ご推察の通り、箱の最後の所有者は、剣乃 征大氏ではありません。箱は一度、剣乃氏の近しい人物に受け継がれました」
「その人物も、今はもういないんだよね?」
「そうです。箱は我々の手に戻ってきていますが、所有者の姓名については、関係者が存命のうちはお話しできないことになっています。もし貴方が剣乃氏の弟子でなければ、征大さんの名前を明かすこともなかったでしょう」
冷静に考えれば当然だ。箱の所有者には必ず悲劇が訪れるとはいえ、その前には輝かしい時代がある。その陰で涙を飲んだ人間だって、きっと大勢いたはずだ。その事実を知れば、凶行に走る人間だっているかもしれない。
「そうか。残念だけど、その理由は理解できるよ」
「ありがとうございます。箱の力で人生を狂わされた人間は、所有者だけとは限りませんので……」
少し間を置いた後、ユキさんはこう付け加えた。
「しかし貴方は、既に善意の第三者ではありません。あの箱の宿命を知る現時点での箱の所有者です。剣乃さんの次に箱を受け継いだのは、貴方も良く知る『ある人物』でした。それだけはお伝えしておきます」
「……」
僕の良く知る人物で、存命でない人物とは一体誰だろう? 心当たりが多すぎて直ぐには絞り込めなかった。この世界は、変死や行方不明者があまりにも多いからだ。
箱を託すなら、最晩年の師匠に付き従い、その死を看取った僕でも、決しておかしくはなかったはずだ。どうして師匠は、そんな大事な品を僕たち以外の人間に託したのだろう?
(続く)




