遭難
少年ディランは小舟に仰向けになり、波に揺られていた。辺りを見渡しても、あるのは水平線だけであった。できる限り背伸びをしてもみたが、見慣れた海岸や港らしき影は何ひとつ見当たらなかったのだった。大嵐で小舟が転覆しなかったのは不幸中の幸いだ。腹が少し空いていたが、怪我もなく、どちらかと言えば、彼はまだ元気であった。
彼は父親から漁師の心得をいくつも教わっていたこともあり、余計な体力を使うことなく過ごすことができていた。小舟のなかには、父親が愛用している大物用の銛、雑嚢、ナイフ、飲みかけの水筒、ちぎれたロープ、双眼鏡、餌用の魚が入った壺があった。ただ、肝心な、帰るために必要なコンパスや地図などはなく、いまのディランにとっては、なんの役にもたたなかった。
運よくどこかの島にたどり着くことができれば、その島で幾日か過ごして助けを待つことができる。ディランは、島を見つけるまではじっとしていることを心に決めた。
――ぐううう。ディランのお腹が鳴った。
餌用の魚はきのう父親が獲った新鮮なものであった。しかし、火を通さず、生でかじるほどの勇気はなかった。それに、こんな状況で虫にでもあたったら最悪だ。彼は我慢しながら体を起こし、近くに島が見えないかどうか確認するのであった。
当たりを見渡してみると遠くに島が見えた。ディランは蜃気楼ではないかと疑ったが、それは紛れもなく、海にポツンと浮かぶ小島であることを確認したのであった。
「助かった……」ディランは思わず声に出し、安堵した。直ぐに足元に置いていた木製のオールを握りしめ、彼は力いっぱい船を漕いだ。
風はほとんどなく、波も穏やかだったため、ディランは直ぐに浅瀬へとたどり着くことができた。彼は足がつくところまで来ると、船を降りて、ロープを使い小舟を海岸まで引っ張った。船底が砂にふれると、彼は船の後ろに回り込み、波に流されないところまで運んだ。
島は思ったよりも大きいらしかった。島には三つの山があり、そのうちのひとつからは黒い煙が空に登っていた。彼はそれを眺めたあと、小舟を島の奥へと押して、木々や草花が生い茂る林のなかへと運んだ。こうすることで、万が一高波が来たとしても船がさらわれる心配がなくなるのだ。この小舟は父が大切にしているものだから、ディランは絶対にこの小舟を持ち帰らなければならなかった。
ディランは一息つくと、砂浜に座り込んだ。自分はなんて馬鹿なことをしたのかと反省し始めたのである。その場の勢いで海に出て行った結果がこれだと、彼は遠くの水平線を眺めて溜息をついた。
《とりあえず、お父さんの水筒の水が残っているみたいだから、今は大丈夫だな。そのあとは魚を乾かして干物にして……》ディランは父から教わったことを思い出して、実践しようと考えた。漁師が嵐に襲われて、遭難するということは割と頻繁に起こっていることであったため、ディランの住む村では、遭難時の知恵が一般教養として定着していたのである。《家は、マストを屋根代わりにすれば、船がそのまま住居になる……問題は火だな……魚を食べるにしても、火を通さないと……》
ディランは周りを見渡した。海岸には波に打ち上げられた枯れ木や竹、割れた壺の破片などが散乱し、沈没船が海岸に打ち上げられていた。その船は帆もなく骨組みだけしか残っていない。彼はとりあえずそういった廃材を集めて、こすり合わせ、火をつけられないか試してみようと考えるのだった。しかし、思った通り、うまくはいかなかった。
「ふわぁ……駄目だ。全然駄目だ……これじゃ……」ディランは枯れ木を放り出して、海岸に倒れ込み、絶望していた。「あー死ぬぅ……」
海岸に寝そべって、彼は山がある方角を眺めた。そして、先程見えた黒い煙を見た。煙は山のふもとから上っているようである。
《あそこに行けば火があるかな……でも……》しばらく、ディランは魚が入った壺を眺める。「よし! 決めた!」ディランは餌用の魚が入った壺を担いだ。「火がないなら、火があるところに行くしかないんだ!」
ディランの考えはあまりにも危険で、無謀なことであった。彼は、山のふもとに、燃え盛る溶岩があると思っていて、その溶岩から火を枝に移して持ち帰るか、その熱で魚を蒸し焼きにして持ち帰ろうと考えたのである。仮に、本当に溶岩があれば、どちらも決して不可能とは言い切れないのだが、なかなか少年らしくもあり、たくましい思考回路である。彼の頭の中では今、『遭難=無人島』という方程式が出来上がっているだけなのである。つまり、彼はまだ、苦難に満ちた冒険を夢見る子供というわけだ。