漁師
熱帯。大海原に小舟が一隻いた。男は船べりに足を乗せ、バランスをとりながら銛を片手に構え、じっと水面を眺めていた。波は穏やかだったため、男は狙いを狂わすことなく水面を眺めることができた。
太陽は真上に来ていた。カモメが餌を狙って、マストを畳んだ柱にとまった。男は、「残念だが、俺の獲る魚はお前じゃ運べんよ」とそいつに言ってやり、褐色の肌にしわをつくりながら笑った。
そうこうしていると船が大きく揺れ、水中に仕掛けた罠の浮きが沈んだ。
「来たな!」男はもう一度意識を集中する。
どうやら船の真下に大きな獲物がいるらしい、男はわずかに見えたそいつの背中に向かって力いっぱい銛を突き刺した。
「よっしゃ! こりゃしっかり刺さったぞ!」
すると、銛につないでいた縄が一気に海へ投げ出され、あっという間に固く張りつめた。そして、小舟はとてつもない力で引っ張られていくのであった。
男はバランスを崩し、船底に尻もちをつくが、急いで張りつめた縄のところへ張ってゆき、掴んだ。
「落ち着け! 落ち着け! ちょっと泳がせて疲れさすんだ!」男は自分自身に言い聞かせた。
獲物は小舟を右左、時には上下に揺らしながら逃れようとする。
「ずいぶんと活きが良いじゃねーか、これならしばらく安泰だ!」
しかし、
――バッシャーン!
滝の下をくぐったような水しぶきが上がると、水面からはとんでもない怪物が姿を現した。
竜だ。
竜の体は海蛇のように細長く、空中をねじりながら登った。
「こ、こりゃまずい……」男の顔は一気に青ざめた。
男は直ぐに腰にあるナイフに手をかけて縄を切ろうとした。このままでは船が転覆してしまう。
「急げ! 急げ!」男は右手を震わせながら、ナイフの柄を握り、鞘から引き抜いた。そして、縄を急いで切断した。
張りつめていた縄が一気に緩み、船が揺れた。竜もそのせいで水面に顔面を激突させる。
「まずいまずいまずい!」男は囁いた後、大急ぎでマストを広げ、船を出した。風を受けたマストが引っ張られ、全速力で逃げた。振り返って竜の様子を眺める。
竜は辺りを何度か見渡した後、男を見つけ、同じように全速力で追いかけてきた。
「畜生……やっぱりそうなるか」男はとにかく早く逃げられる方向に小舟を水面に滑らせた。しかし、それは竜にとっても同じであった。
「あー畜生が! どこまでも追いかけてきやがる!」男はそう言って、銛を構え、小舟を急旋回させた。「掛かってこい! 串刺にしてやるこのニョロニョロ野郎がぁああ!!」
すると、竜はいきなり海水の中へと消えた。
「ま、まさか!」男は急いで進行方向を変えた。
海面が急に膨れ上がったと思うと、
――ザッブーン!
と水しぶきが上がった。
竜は小舟を下から持ち上げて転覆させようとしたのだった。
「残念だったな!」男は小舟の脇スレスレを空中に上っていく竜にもう一度、銛を突き刺した。
――ギギギギギギギギギギ!
鱗が次々と剝がれていく、凄まじい勢いであったが、男は怯むことなく、銛を怪物に押し込むのだった。
竜は海面に胴体や頭を叩きつけ、しばらく暴れまわったあと、息を引き獲るのであった。海面は竜の血液が解け、真っ黒に染まっていく。
「悪かったな、怪物さんよ……」男はそう言って、竜に手を合わせて目を閉じ、祈りをささげた。
男は目を開けると、うなだれて大きな溜息をこぼした。
竜の肉は固すぎて食べられないし、持って帰るにも体が大きすぎる。良質の鋼を打ち込んだ銛も無残に折れ曲がってしまった。まともな銛は一本しか残っていない。男はそれを見てがっかりして、竜の遺体を置いたまま浅瀬へ向かうのであった。
「しかたねぇ、今日は網にするか……」
――数時間後――
男は一日の漁を終え、海岸に船を寄せた。橙色に染まる海岸に、手を振って微笑む少年がいた。
「父ちゃん、お帰り!」少年が男のもとへ走っていき言った。そして、少年は父親の船を引き上げるのを手伝うのであった。
「ありがとよ」男はそう言って、右手に持っていた船を引く縄を少年に預けた。
「父ちゃん、今日はどうだった? 大物は獲れた?」
「あー獲れたっちゃ獲れたが……」
「あれ? でも、なかはちっちゃいのしかいない」少年は船の中を覗き込んで言った。「どうしたの?」
「竜をやっつけたんだが、流石に持って帰るのは無理だったよ」
「竜? 凄いね! 父ちゃん!」少年は目を輝かせた。
「ほんとはお前に見せてやりたかったけどな……」
「やっぱり、大きくなったら、僕も父ちゃんみたいに、男らしくなりたいな! そしたら、一緒に竜やっつけよ!」
「そうだな、いい考えだ……《勘弁してくれ、あんな思い二度とごめんだ……》」男は少年の頭を撫でて言った。「それと、もうひとつ――誠実であることも忘れるな」
「うん! 分かってるよ! 『男らしく、誠実であれ!』だよね!」少年はキラキラとした目で父親を眺め言うのであった。
「そうだ! 『男らしく、誠実であれ!』」
船を海岸に引き上げると、少年は海岸を走って同い年の友達のところへかけて行った。どうやら少年は父親が竜を倒したことを皆に自慢しているようである。子供たちは皆、漁師達の息子や娘だ。男はそれを見て、懐かしい思い出に浸る。手足に砂を付けて、日が沈むのを眺めながら父親の帰りを待ったあの日のことを――男はどうして子供は直ぐに海に出て一人前になりたがるのか、ということについて一瞬考えたが、直ぐにやめ、網に入った魚を担いで、解体場へと運ぶのであった。
解体場に着くと、同僚達が大物を担いで解体台の上に乗せようとしている最中だった。男は直ぐに網に入った魚を運搬用のかごの中に入れ、魚を測っている海女のおばちゃんに声を掛けた。
「おばちゃん、これ、お願い」
「うーん、今日は随分と少ないね、これなら海女の私が海に出たほうがましじゃないか」
「すいません、今日は怪物に出くわしてしまって……」
おばちゃんは男の顔をじっと見たあと、溜息交じりに言った。
「まぁ、いいけどね。男は大物獲ってなんぼってところはあるからね。でも、賭け事ばっかじゃー飲んだくれと変わらんよ。さー行きな。あっちを手伝っておくれ」
「はい、わかりました」
男は大物の解体を手伝うために、同僚の漁師のところへ歩いて行った。男がその大物を見たときには、すでに内臓が取り除かれ、両側のヒレが切り落とされたあとだった。同僚が魚の尾を切り落とそうとしていたので、男は両手で魚をおさえてやり、魚が動かないように支えてやった。しばらくして、魚の尾は切り落とされた。男は溜息をついて額の汗をシャツで拭う。
そのとき、海岸の方から声が聞こえてきた。
「大変! 大変! 誰か! 助けて!」誰かの娘が半泣きで、解体場へかけてきた。
「どうしたんだい、お嬢ちゃん」男は、娘に言った。
「ディラン君が! ディラン君が海に出て行っちゃったの!」
「ディランが海にだって!」男は急いで、解体場を飛び出し、それを聞いた同僚たちも慌てて海岸へ走った。しかし、少年は水平線の彼方へ消えていた。
《離岸流か……》
男は直ぐに砂浜へかけていき、目の前の小舟に乗り込もうとした。しかし、同僚が男の肩を掴み、止めた。同僚は男の力があまりにも強かったせいで、砂浜に足をとられてよろめく。
「畜生、なんだ! 今すぐ行かないとディランが――」男は同僚に構わず、砂を足で蹴りながら小舟へまた歩き出した。
「待て! 待て! 待てと言ってるだろうが!」同僚は必死になって男を羽交い絞めにした。「無鉄砲にもほどがあるぞ! これじゃお前も死んじまう!」
「うるせぇ! 俺は死なないし! ディランも死んじゃいない! あいつは強い子なんだ! だからきっと!」男は正気を失っていた。
「空を見ろ!」同僚の男は真剣に彼の目を見て言うのであった。「おまえは漁師だろ! ちゃんと空を見るんだ! これで戻ってこれると思うのか!」
男は空を見た。すると、海に雷が落ちた。空は雨雲で埋め尽くされ、大嵐がきていた。波も直ぐに高くなった。それを見た彼は海岸に膝をつき、砂を握りしめた後、泣き叫ぶことしかできなかった。
「おい! 嵐が来てるんだ! さっさと引き上げろ!」誰かが言ったが、男の耳には届かなかった。同僚は砂浜に顔をうずめている少年の父親があまりにもつらそうだったので、限界まで待ってやることにした。そして、すこし後ろに下がって背中を見守って、たまに、「おい、そろそろいかないと……」と声をかけた。
後ろでは、子供の誰かが同僚の男に叱られていた。どうやらディランは父が置いてきた竜の死骸を取りに行こうとしたらしい。ディランは父のことを自慢したかったが、友達に嘘つきだといわれ、反駁することができなかった。それで、ディランは海に死骸を取りに行こうと考えたのだそうだ。叱られている少年が大泣きしながらそう説明してくれたのだった。