外の世界
ドリイは泣き止むと、背中をさすってくれたケイティのことを見た。彼女の目も泣きはらしたように真っ赤になっていた。どうやら、彼女もドリイと同じことを考えていたようである。一方、マックスといえば、彼女たちの後ろでぼんやりとしているだけだった。彼は、彼女たちをじっと眺めて、何も言わずに立っていた。
「ありがとう……」ドリイはケイティに言った。「もう大丈夫……」
「うん。そう、良かったわ」
「その……ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
「だって、わたしがあんなことしなかったら、二人はいまも楽園にいられたのに、わたしのせいで……」
「大丈夫、なんとかなるわ」ケイティはドリイに優しく言った。そして、マックスを見た。「ね? マックス!」
マックスはぼんやりと上や下、左右を見回していたが、ケイティの声に気がついて頷いた。
門の外は三人が一度も目にしたことのない世界であった。施設とちがって頭が痛くなるほどたくさんの色と音に包まれた世界。これではゆっくりと寝られそうもない。そして、彼女は下を見た。地面には埃が溶けたのだろうか? ざらざらとした粒がたくさんついていた。よくみると、自分の手にも。そして、地面の細かい塵を見たとき、ドリイはそれらすべてをかたずけなければ、看守に怒られてしまうと思った。彼女は地面に両手をついて、その塵をかき集めはじめた。
《そうだ、そうだよ、良い子にしていればきっと看守さんがやってきて……》
しかし、いくら塵をかき集めても、セメントの床は現れなかった。ケイティもマックスも、そんなドリイの姿をみて、手伝いはじめたが、やはり結果は変わらないのであった。
しばらく三人は続けたが、ついに体力を使い果たし、その場に横になった。眩しい天井をながめたドリイは、ひどい喪失感に襲われた。
《どうしよう……このままじゃ、ごはんももらえない。寝ることもできないよ……》
地面の塵をあつめることを諦めた頃には、どういうわけか、辺りが真っ暗になっていた。そして、何も見えなくなってしまうのだった。明るかったころに見えていた大きなゴミの塊は、ただの黒い影になっていた。くわえて、〈室内温度〉が下がってきているようだった。このままでは凍えてしまうと思ったドリイはケイティとマックスに身を寄せ合うことを提案した。彼女の提案は受け入れられたが、ケイティとマックスはちっとも寒くはないようだった。
「大丈夫? もっとこっちへおいで」ケイティは、下あごをがくがくと震わせるドリイのことを見ると、彼女の手を握って温めようとした。しかし、ドリイは彼女の体温を感じることはできなかった。どうやら、ケイティの体温はドリイよりも低いようだ。風邪をひいてしまったかとドリイは思ったが、彼女は別に寒さは感じておらず、体調は悪くないと言った。時間が経つと、だんだん暖かくなってきて目が虚ろになった。疲労もあったためか、そのあとすぐ眠りにつくことができた。
ドリイは夢をみていた。それは恋の夢であった。ドリイには大好きな男の子がいる。名前はディラン。彼は自分の住んでいる地底とはまったく異なる世界に住んでいて、夢の中でいろんなことを教えてくれるのだ。
「ディラン、この床に落ちている埃はなに?」
「え? それは埃じゃないよ。砂だよ」
「砂?」
「そう、砂」
「ねぇ、ディラン、天井にある眩しい照明はなに?」
「ドリイ、天井なんてないよ。それは空。そして、眩しいのは照明なんかじゃない。太陽だ」
ドリイは、彼と一緒にいるときだけは、素の自分でいることができた。冗談をいってディランを笑わせることなど朝飯前であった。いや、そもそも、素の自分とはなんだろうかとドリイは思った。本当の自分とは、いったい夢と現実、どちらの自分のことなのだろう、ぼんやりとした思考が彼女の頭の中でまわり続けた。そして、彼との会話は永遠のように感じられた。彼女が言葉を渡すと、彼の言葉が帰ってくる。その一つひとつの音の波が、確かな感触をもって、彼女の胸の中を通り過ぎるのだった。ドリイは体が波に揺られたような感覚になったあと、ゆっくりと幸せな気持ちになっていった。しかし、その波を切り裂くような、尖った音が急に押し寄せた。
「起きて! ドリイ!」ケイティが叫ぶと、ドリイは目を覚ました。
「うぅ……ん。どうしたのケイティ……」
「生贄だ」「生贄の子供がきた」「食べよう」「食べちゃおう」「おいしいよ」「きっと」「おいしい子供だ」「生贄だ」「また地底の子供だ」「さっきのはまずかった」「肉じゃなかった」「肉が食べたい」「堅いのはやだ」「お腹すいた」「早く食おうよ」「弱ってからにしよう」「いや、いまにしようか」「どうせ逃げられない」「そう、どうせどこにもいけない」
不穏な空気が流れているのがすぐにわかった。ドリイはすぐに両手で口を覆った。真っ暗闇から大勢の喋り声がしているのだが、どれ一つとして、まともな人格をもっているようには聞こえなかった。彼らは食欲に思考のすべてを支配されているようだった。もう自分が人間であるのかどうかも忘れてしまっているのか、中には唸り声だけで威嚇してくるものまでいた。
「ぎゃああああああ!」ケイティの叫び声がしたと思ったら、彼女は草むらに引きずり込まれていった。
「ケイティ! ケイティ! どうしたのケイティ!」
「逃げて! 逃げて! やだ! やだ! やだああああああ!」
声に驚いたドリイは恐怖に支配されて方向など気にもせずその場から駆け出してゆくのであった。地面にはなにかごつごつとしたものがたくさんあって、足を前にだすたびに、皮がはがれるような痛みがした。目からはなぜか涙がでていたが、どうして涙がでてきているのか、ドリイにはわからなかった。とにかく、いまは頭の中に大きな岩の塊ができているようで、それのせいでなにも考えられなかったのだ。とにかく逃げて、逃げて、逃げるのだ。
しばらく走ると体力に限界がきてしまい、ドリイは立ち止った。息切れが止まらない。追ってが来ていないかどうか、確かめるために、彼女は息を殺してみた。すると、また声が聞こえた。
「逃げても無駄」「すぐに追いつく」「食べよう」「食べちゃおう」「おいしいよ」「きっと」「おいしい子供だ」「さっきのまずかった」「そのあとのもまずかった」「でも、こんどは大丈夫」「お腹すいた」「早く食おうよ」「弱ってからにしよう」「いや、いまにしようか」「どうせ逃げられない」「そう、どうせどこにもいけない」
囲まれたドリイは気を失いそうになったが、こらえた。
そのとき、後ろでなにかに引っかかったような気がした。
それは怪物の歯だった。
《はぁ、どうしてこんなことになっちゃったんだろう?》抵抗も虚しく、ドリイは怪物たちに引きずられていく。痛みを感じる間もなかった。意識が遠のく間、耳鳴りがし、視界の中で火花がパチパチと輝いたかと思うと、ぞわぞわと暗闇が覆いかぶさって、最後には溶けてなくなっていくのだった。その光は、もう二度と輝きを取り戻すことはないのであった。彼女は暗闇の中、ただただ、『オミネス・マム』に許しを請うのであった。