楽園
父親は背嚢に、旅に必要な装備と数日分の食料を用意してくれた。「もし駄目なら戻ってくればいい、なんとかする」と父親は言ったが、ディランはもどってくるつもりはない、と言い切った。それを聞いた父親は、一瞬悲しそうな表情を見せたが、すぐに顔をあげて、息子の肩を叩き、父親らしく息子の成長を喜ぶふりをした。
その日の夜、ディランは長屋ではなく、父親と最後の日を過ごした。とても静かな夜だったが、二人とも寝付けず、不安を紛らわすため、旅の行先について語り合うのであった。
翌日、ディランは村を出ていくことになった。行く当ても目的もない、まさに放浪の旅であった。村を出て行くとき、ペーチャとロベルトだけが見送りに来てくれた。父親はもうすでに、漁に出てしまっていた。
ロベルトはディランに一言、「ごめん」と謝るのだった。するとディランは首を横に振って、彼と握手を交わし、もう済んだことだから気にするな、と言ってやるのだった。ペーチャとも別れの言葉を交わしたが、そっちは、あまり覚えていなかった。しゃべっている途中でペーチャが嗚咽とともに号泣してしまい、それどころではなかったのだ。
彼らも時間になると舟に乗り、海へと出て行くのだった。ペーチャの舟にはもう一人、別の子供が乗っていた。ペーチャは舟の上で、――昔ディランがペーチャにやったように――その子供に漕ぎ方や、網の引き方を教えてやるのだった。舟は遅れてゆっくりと進んでいき、他の舟に合流した。
ディランは海岸に腰掛け、皆が漁へ出て行くのを見守った。彼のことをはやし立てるものは誰ひとりとしていなかったが、大人たちは彼のことを見たとたん、目を背けてしまうのだった。しかし彼は一人になっても、それほど孤独感に支配されなくなっていた。無人島にいるときのほうが、よっぽどつらかった、というのもあるが、それよりも、孤独になったことで得られたものがある、と彼は考えたのだった。それは村と自己という関係において自由になることができた、というものだった。ディランは漁師として生き、死ぬ運命だったが、それは村との関係においてのみ、変えられないものであった。つまり、それは今のディランにとって、貝殻ひとつ分の値打ちにも満たない代物であった。
背嚢を背負った彼は、村から三里ほど離れた街へと向かった。陽光が白いレンガに反射して、目が眩む。彼はどこかで一息つきたいと思い、簾の掛かった店の前に置かれたベンチに座り込んだ。そこは、ちょうど日よけの下にあって、店の裏にある河から、風が吹いていて、気持ちが良かった。この店が何かはよくわからなかったが、おそらく夜中に客を入れる店であることは確かだった。
そんなことはどうでもいい、それよりも、これから自分は、どう生きていけばいいのか、という問題について、もっと頭を悩ませるべきだ、とディランは思った。別の村へ行って、もう一度、漁師を目指すのも悪くはない、キャラバン隊に入って旅をつづけるのも悪くはない、どこかの屋敷や店で雇ってもらえれば、それも悪くはない。慣れてしまえばなんてことはないのだ。
《なんか違う……》とディランは一人で囁いた。
彼は地底のことを思い出していた。自分の思いつく生き方のすべてが、地底の彼らのように生きていくことと、なんら変わりのないような気がしたのであった。彼らの生き方は、決して良いものではない。だからといって、村の生活が良いとも思えなかった。
降り注ぐ太陽の光に手をかざした。すぐに熱が伝わって、光がじりじり肌を焼きはじめた。熱を感じていると、脈打っているのも徐々にわかった。生きている、そう自分は今生きているのだ、と彼は思った。
道行く人の流れは、絶え間なく、河のようにずっと続いていくように思えた。水筒の水をすこし飲んで、喉の渇きを癒した彼は、ベンチで父から譲り受けた地図を開いた。彼は、もう目的地を決めていた。そこは地図の外にあった。ピスカトレ村の住人はもちろん、誰として行ったことのない場所であった。ディランにとってそれは希望だった。この世の果てがあるということは、この世はあの地底と同じであるという証拠であった。彼が目指すのはただ一つ。楽園への入口であった。
おしまい