祈禱
解体場には法衣を身にまとった僧侶がいた。ディランは椅子に縛り付けられ、身動きが取れなかった。ディランは周りの大人たちが怖くて仕方がなかった。第一に、意味もなく自分のことを縛り付けたことが怖かった。自分はどこへ逃げるつもりもない、と主張しているにもかかわらず、大人たちは自分の主張をまったく信じようとしなかった。第二に、大人たちが恐怖に支配されていて、その鬱憤を自分に向けることが善であると信じ切っていることが怖かった。大人たちは、ペーチャやロベルトが反対しているのを、彼らに必要な食事や過去の恩情で諫め、反論を許さなかった。第三に、呼ばれてきた祈禱師の目が怖かった。祈禱師は解体場を訪れたときに、大人たちの味方を演じようと、目を部屋の隅々にまで走らせて、場の空気を悟ろうと努めていた。それが終わると祈禱師は自分のことを死んだ魚のような目で見つめ、ニヤニヤと笑っているような表情をつくるのであった。
祈禱師は口元に蓄えた胡散臭い白いひげを撫でながら、解体場の真ん中で椅子に縛り付けられているディランに近づいた。かがんで目線を合わせ、意味もなく、じっと目を見つめてきた。次に、目尻を下げて、口を両手で覆うと、立ち上がって、大人たちの方へ振り返り言った。
「それ見たことか! これは神を忘れたお前たちへの罰である!」祈禱師は声を張り上げた。「あぁ、可哀想に! なんということだ! これは祟りだ! この子には悪魔が住み着いている! すぐに手を打たなければ手遅れになってしまうやもしれませぬぞ!」
祈禱師がまくし立てると、大人たちは恐れおののいて、何人かの海女たちはその場に倒れ込んだ。このときディランは、なぜこの祈禱師はドリイが悪魔だと分かるのか。また、どうしてすぐに手を打てば間に合うのかが理解できずにいた。冷静に考える隙も与えずに祈禱師の説教は続き、誰一人として反論は許されない状況を作り出した。
「見てください!」祈禱師は威勢のいい声で続けた。「あの怪物を! あれは海坊主などではありません! あれはこの子を救うために地上へと舞い下りた神様である! 信仰を忘れたお前たちには黒い影に見えるらしいが、わたしには神々しく輝く御姿しか見えぬぞ!」
祈禱師は嘘をついている、とディランは思った。同時に、ディランの中にいるドリイも同じように考えるのであった。二人はこの状況をどう切り抜けるべきか、いっしょに話し合うのであった。
「このまま黙っていたほうがいいのかしら?」ドリイはディランに聞いた。「このままじゃあの胡散臭いおじさんの思うままよ」
「でも、暴れたら皆に迷惑かけちゃうし……」
「有り金むしり取られるだけって、あなた、ちゃんとわかってるじゃない」
「ちょっと、勝手に心を読まないでよ!」
「いいわ、わたし、あなたに嫌われたくないから――考えがあるの」
「考えって……それ逆効果なんじゃ」
「でも、一番皆が納得しそう。何より、あなたを救えるわ」
ディランはドリイへと姿を変えた。祈禱師が説法をしている最中であったため、周りの人々は驚きを隠せなかった。ただ、誰よりも驚いていたのは、説法をしていた祈禱師本人であることに、二人は気がつき、祈禱師が本物かどうかも疑わしいと感じるのであった。
「嗚呼……嗚呼! なんということじゃ! このような幼気な姿に化けるとは卑怯な!」
「あなたが出て来いって言ったから出てきたのよ」ドリイは瞬きもせず、まるで祈禱師に呪いでもかけているかのように上目遣いで睨みつけた。「誰が何と言おうと、この体はもらっていくわ」
《ドリイ! いったい君は何をしようとしてるんだ!》ディランはドリイに問いかけた。
《大丈夫よディラン。これでいいの》
ディランには、ドリイの言っている意味がどうしてもわからなかった。このままだと、彼女は悪魔扱いされて、二度と人前に姿を現すことができなくなる。そうなったら死んだも同然ではないか、と彼には思えた。
「ついに本性を現したか悪魔め! 消え失せろ!」
「えぇ、その通り。わたしはお前たちを喰いにきた悪魔。この子を餌にしてもっとたくさんの魂を喰らおうと思ったんだけど……祈禱師が来てしまったなら仕方がない。だが、覚えておけ……」
「消え失せろ! 消え失せろ!」祈禱師が言うと、周りの群衆も続いて言った。
《悪魔ね……》ドリイが囁くと、彼女の足元がひび割れはじめた。割れ目からは黒い蟲がうごめいて暴れだした。彼女の体は一瞬にしてそれらに包まれたかと思うと、それらは瞬く前に海へと身を投げて行くのだった。海面へ落ちた蟲を魚たちがむさぼり喰いはじめると、水しぶきがあがり、キーキーとかんぎり声が上がった。恐怖に支配された何人かは、いっせいに解体場を飛び出していった。祈禱師も驚いて腰を抜かし、我先にと逃げていき、その直後に大雨のような足音が解体場の壁と天井に響きわたった。
嵐の後、解体場には椅子に縛り付けられたディランだけが残された。彼は何度も声に出してドリイのことを呼んだが、彼女から返事が帰ってくることはなかった。しばらくすると、扉の蔭に隠れていた祈禱師がひょっこりと顔を出し、危機は去ったと両手を広げ、満面の笑みを浮かべた。なるほど確かに、先ほどまでいた海坊主の影も消え、波も穏やかになっていた。祈禱師は仕上げと言わんばかりに、腰にぶら下げた灰をディランの肩や頭に乗せ、それらを息で吹き飛ばすのだった。灰が飛んだ瞬間、今度は解体場に歓声が包まれるのだった。