実験台
Z班になったドリイ達は、仕事をしなくてもよくなった。さらに、施設内のさまざまな行事にも参加しなくても良い権利が与えられた。代わりに、毎日のようになにもない白い部屋に案内され、退屈な時間を過ごすのであった。はじめ、部屋には三人いたが、マックスが数日前に呼ばれてから、ドリイも、ケイティも、彼を目にすることはなくなっていた。
それからまた数日がたって、ケイティも看守に呼ばれて部屋を出て行った。二人は最後にすこしだけ言葉を交わす。ケイティが「いってくるね」と言って、ドリイは「いってらっしゃい」と。
ケイティがいなくなったあと、一人きりになってしまったドリイは、さらに退屈な時間を過ごすのであった。朝起きても、ケイティはいなかった。一人で点呼をとって、列に並んで、ご飯を食べて、毎日白い部屋に向かった。
《あの夢は何だったのかしら……》部屋にひとりっきりのドリイはささやいた。部屋の隅で真っ白な毛布にくるまって、反対側の壁にある通気口をじっと眺めていた。《どうしてみんないなくなっちゃったのかな……ケイティまで……わたしももうすぐ……》
しかし、その日は一週間たっても、一か月たってもやってこなかった。ドリイは、一日、また一日と、数えることもやめ、時の感覚をなくしていった。いつのまにか施設の皆と食事をとらなくてよくなり、好きなものを頼めばそれが食べられるようになった。しかし、施設の食べ物はどれも四角くて見た目にそそられるものはなく、唯一、スープが味が感じられるものだったが、それもたくさんの種類があるわけではなかったので、しだいに彼女は興味をなくしていった。それから、彼女は自分の部屋に戻る必要を感じなくなって、服を着替えることも面倒になっていった。それは彼女の記憶にまで及び、はじめにわすれたのは家族のことだった。その次に、マックス、そして、ケイティ……。記憶がすこしずつ消えていき、いつのまにかこの部屋にいることが苦痛でなくなっていった。自分の感覚が麻痺していく。考えることをやめ、空っぽになって天井をまたながめる。眠くなったらまぶたをとじるが、夢は見なかった。最終的には、自我を失っていったのである。考えられるのは……『オミネス・マム』のことだけ。看守がやってくると、彼女は笑みを浮かべてスクリーンを眺めるようになった。『オミネス・マム』の愛情を一身に受けるために満面の笑みをスクリーンに向けるのだ。
そして、彼女は呼ばれたのであった。
看守がやってくると、笑いながら天井をながめているドリイを車椅子に乗せて運んだ。その間もドリイは嬉しそうに笑っていたが、彼女の瞳からは涙が零れていた。彼女は、わかっていたのである。自分はもう、駄目になってしまったのだと。だから、この看守は自分を廃棄しようとしているのだと……。
長くて広い廊下を、彼女は運ばれていく。
手足を動かそうとしても動かせなかった。
無理に動かそうとすれば動いただろうが、動かす気力がなかったのである。
首も動かせなかったので、縛られているのかどうかもわからない。
彼女は絶望していた。
すべてをあきらめたのだ。
看守はドリイを別の部屋に案内した。その部屋は強い光に包まれており、なにも見ることができなかった。《いったいこの部屋はなんだろう?》とドリイは思ったが、すぐにそんなことはどうでもよくなった。
看守がドリイを車椅子から担架に移し変えると、彼女は麻酔を掛けられているらしいことに気がついた。体には管が取り付けられ、心臓の音が大きくなってくる。そして、どこからともなく、いままで麻痺していた恐怖がいっきにわきあがってきた。叫び声を上げようとした瞬間、目の前を稲妻のような閃光が走り、彼女は意識を失った。
次に彼女が目を覚ましたときには、体の管は取り除かれていた。頭が重い。大きな雨雲が頭の中に漂っているようだった。見慣れた灰色の天井が見える。意識がはっきりしてくると、周りの状況が見えてくる。どうやらここは救護棟のなかであるようだった。救護棟はドリイもなんどか来たことがあった。ここは風邪をひいたりしたときに、しばらくおいてもらうことができる。看守の数は少なくて、代わりに看護師がいた。看護師も、もちろんロボットであった。看護師は看守と違って、戦車のようなキャタピラで動いていた。非常に力持ちで動作が安定しているが、代わりに動きは遅いという欠点があった。同じ部屋には、自分以外の子供たちがいるようだった。子供たちは眠っているようだった。つまり、いまは寝る時間ということである。
ドリイはふと、自分の腕を見た。自分の腕に締め付けるような感覚がしたためである。そこには、ケイティからもらった髪留めがあった。
《どこ行っちゃったの……ケイティ……マックス……》彼女は二人のことを思い出した。しかし、お父さんとお母さんの顔はどうしても思い出せなかった。代わりに浮かんだのは『オミネス・マム』だった。なんど思い出そうとしても、頭にあの女王の目玉が映し出される。何度も……何度も……何度も……彼女は両親の顔を思い出そうとしたが、思い出せなかった。顔が砂嵐のようになって、『オミネス・マム』が上書きされるのだ。
「ああああああああ!! こんなの夢よ!! こんなの夢よ!!」
ドリイが叫ぶと、看護師がやってきて、彼女に電気ショックを与えた。彼女は水揚げされた魚のようになってベッドの上を何度か飛び跳ねると、静かになった。
「目を覚ましたようですね」看護師がとても人間らしい声で言った。「実験は成功しました。おめでとうございます。『オミネス・マム』に感謝しなくてはいけませんね――あなたは『未来の子供たち計画』の成功者!」
「看護師さん……その……」大きな声を出したためか、ドリイの声はかすれた。
「おっと、これはこれは失礼いたしました。あなたはこの計画を知らないのでしたね。細かい説明は抜きにして申し上げますと、罪人認定された子供たちを冷凍保存して未来に送ろうという計画がございまして、あなた様はみごと、五体満足で生還されたというわけですよ! いやー、体はあっても魂が抜けちゃってたり、あとは魂があるのに体の細胞が壊れてとけちゃったり。まぁ、魂がもったいないんで他の体に移し変えるなんてこともはじめたりして、まぁ、そりゃーもー大変で。でも、こうやって成功した訳ですから、この私はやはりスーパーな天才ドクターというわけですな! あっ、そういえば、私は看護師じゃありませんよ。博士です。まぁ、似ていますから、あなたには見分けがつかないのでしょうね! あはははははは!」
《よく喋るロボットだ。情報量が多すぎてなにも頭に入ってこない……》とドリイは思った後、尋ねた。「それでは、今は未来なのですか?」
「えぇ! そうですよ。あなたが思っているよりずーっと、ずーっと、未来です。私の喋り方を聞いてください。ムカシハ コンナ カンジニ シャベッテ マシタ ケド イマハ 普通に喋れちゃうんですよ! ねー凄いでしょ!」
「ケイティは……? それと、マックスは……?」ドリイは博士に尋ねた。
「ケイティとマックスかい? あぁ、ちゃんと生きているとも。二人とも、もうすっかり良くなっているから安心しなさい」
「そうですか……」ドリイは、一瞬、その言葉に安心した。「すぐに会えますか? 失敗……とかしてませんよね!」
「失敗だって? 何言ってるんだ? 今こうして成功しているじゃないか! いいかい? 研究というものに、失敗などというものは決してないのだよ! ひとつひとつの積み重ねがいずれ大きな成果につながることもあれば、そうじゃないときもあってだな、まぁ、つまりだ――」
話は十分以上続いたが、結局、ケイティとマックスのことは教えて貰うことができなかった。ドリイは二人のことが心配で仕方なかった。
「あの! とにかく、二人に合わせてはもらえないでしょうか?」
「構わんよ、それじゃ、ついてきなさい」
ドリイはベッドをおり、スリッパを履くと、博士について行った。キャタピラを転がしながら廊下を進み、床に落ちていたお菓子の缶をぺしゃんこにしていくのであった。
病棟にはドリイ以外にも、たくさんの子供たちがいるようだったが、皆、一言もしゃべらず眠っているようだった。《そういえば……いまって朝? それとも夜?》
「博士さん? いまは朝なのでしょうか?」ドリイは博士に質問した。
「君、朝とはいったいなんだね? そんな言葉はもうこの地底に存在しない。いまあるのは、『起きる』と『寝る』だけだ」博士はドリイにレンズを向けて言った。「そうか、君は過去から来たから知らないんだったね。よし、それじゃあ、ここはあえて古い言葉を使ってわたしがしっかりおしえてやろう」
「お、おねがいします」
「それでは問題。朝はどうして朝なのだ? はたまた、夜はなぜ夜なのだ?」
「わ、わかりません」
「君は、地底の秩序は『オミネス・マム』によって保たれていると習ったことがあるね?」
「はい……」
「つまり! 今が朝であろうと夜であろうと関係ない! 『オミネス・マム』が『起きろ!』と言ったら朝で、『寝ろ!』と言ったら夜なんだ。わかるかい?」
「ほんとうだ。まったく同じ意味ですね」
「だろ? だからわたし達はすべてを効率よくするために『朝』と『夜』をなくしたのだよ。だって、存在しないものに名前をつけても意味がないだろ?」
ドリイは、博士のいう事が変だとは思ったが、なぜ変であるかを説明することができなかった。たしかに、その通りだったからである。この地底に朝も夜も存在しない。見上げてもあるのはセメントの天井だけだった。
長い廊下を進むと、サイレンが鳴り、『オミネス・マム』の「起きろ」という声が聞こえた。どうやら起床の時間になったようだ。すると、博士がドリイにまたレンズを向けた。
「あぁ、君は私についてくればいいからね」
「指示に従わなくていいの?」
「そうだよ。私には特権があるからね」
「特権?」
「重要な研究をしているのに、途中でやめたら失敗するかもしれないだろ?」
「なるほど」
博士は、大きな扉の前で立ち止まった。細長い一本のアンテナのようなものが頭から出て、すこし待つと扉が開いた。なかは薄暗く、なにもない天井が遠くまで続いていた。奥の方は真っ暗でなにも見えなかった。
「さて、もうすぐ会えるよ」博士は言うと、ドリイを真っ暗な檻の前に案内した。檻は、子供ひとりにしては広すぎるほどだった。思っていた以上に奥行きもあるようだった。「あー、あー、こちら、博士00009。看守05261、看守05261、いますぐ特殊病棟の実験室に来なさい」
番号の桁数が四桁から五桁になっていることに、ドリイは驚いた。いったい今は何人の子供がこの施設に収容されているのだろうか。それと、なぜいま看守を呼ぶ必要があるのだろうかと彼女は思った。しかし、よく考えてみれば、自分とケイティ、マックスを新しい労働に連れていくためであろうと彼女は納得するのであった。
しばらくすると、出口の扉が開いた。ひとりの少年がゆっくりと部屋にはいって来て、ドリイの目の前で止まった。
「ほら、感動の再会だ」博士がロボットアームを広げて言った。
「マックス!」ドリイは嬉しさのあまり、彼に抱きつきたかったが、そこまではしなかった。
「ドリイ……久しぶり……」マックスも微笑んでから言った。
「さぁ、彼女もこっちにきたぞ?」博士が言うと、大きな檻の奥からはだしのケイティが歩いてきた。「ドリイ……ドリイなの……?」
「ケイティ! ケイティ!」ドリイは格子を両手でつかみ、顔をケイティに近づけた。