誰
ペーチャはディランを岸に上げようと思って、肩をかしてやったとき、動揺した。いつも一緒にいる親友の体重が想像以上に軽かったのである。
ディランはなにも答えず、ただペーチャの肩にぶら下がっていた。
「うぅん……さっきは悪かったよ、だから早く起きて」ペーチャは立ち上がろうとした。
「きゃァァァァ!」急にディランから少女のような声が聞こえた。彼は砂浜にうずくまった。
「……ディ……ディラン?」ペーチャは声に驚いて言った。「あれ、あれ?」
「馬鹿! なんで服着てないのよ!」
「ふ、服? あぁ、ぼ、ぼくのが」ペーチャは慌てて、シャツを脱ごうとした。
「ちょっと! あっち向きなさいよ!」
「うわぁ! あ、ごめん!」ペーチャは背中を向けて麻のシャツを差し出した。
「はやくよこしなさいよ!」
ペーチャの頭の中では、いったい親友はどうなってしまったのか、という心配と、ディランの代わりに連れて来たこの少女はいったい誰なのだろうか、という疑問が、交互に頭の中で浮かんでは消えていた。
「もういいわよ」
「う、うん……」ペーチャは彼女の目を見て言った。「ところで君は誰? それとディランは?……いや、君が知っているとは限らないのか――その、ぼくと同い年の男の子なんだけど、肌は僕よりだいぶ焼けていてね、それで」
「わたしはドリイ。それと、ディランなら大丈夫、わたしがすこし体を借りただけだから」
「体を……借りた?」
「うん。びっくりさせちゃってごめんね。すぐにディランに戻るから――あっち向いててくれる?」
「あ、うん……」ペーチャは言われた通り、また彼女に背中を向けた。三秒ほど数えたあと、ペーチャは言った。「もういい?」
返事はなかった。ペーチャは振り返って彼女がどうしたか確認しようとした。すると、親友のディランが、麻のシャツを着て砂浜に横たわっているのであった。
「ディラン……大丈夫?」ペーチャは駆け寄って、ディランの肩を叩き、声をかけた。すると、ディランが目を開けた。
「うーん、あれ、ここは? ペーチャ……」
どうやら彼は何があったのか覚えていないようだった。ペーチャは、いまあったことをそのまま彼に伝えるべきかどうか迷っていた。
「あれ! ロベルトは!」ディランは飛び起きてペーチャに聞いた。
「大丈夫だよ、ロベルトなら岸に上がって休んでるよ」
「よかったぁ……」
「うん、そうだね……」
「ん? どうしたペーチャ?」
「いいや、なんでもない」
「そう?」ディランは自分がペーチャの服を着ていることに気がつき、はっと息をのみ込んだ。彼は自分が海に落ちて意識を失っていたのではないか、と思ったらしく、ペーチャの手を握って深く礼を言うのだった。「ペーチャ、ありがとうな、きみは命の恩人だよ」
「えっ……何が?」ペーチャは首を傾げた。
「え?」
黄昏どき、一日の漁を終えた舟が港や岸に戻ってきた後、子供たちは食事をとって自分たちの寝床へ戻った。子供たちはヤシの葉でできた大きな家で皆と一緒に寝ていた。ディランもペーチャも、ものごころついて間もない時期には、そこで眠るようになっていたので、それほど嫌ではなかった。
ペーチャは一人、海岸にある乾いた流木の上で座り込み、星空を眺めるのが好きだった。とくに橙色が藍色へと変わるわずかな瞬間を、じっと眺めているのが好きで、徐々に星々がきらめきだす時間を楽しんでいるのである。波は静かで、風もほとんどなかった。湿気もそれほどなく、暑くも寒くもない、丁度よい気温であった。
ペーチャは、今日親友に起きた不思議な出来事を思い返していた。自分が海から引っ張ってきたのは、たしかにディランであった。それなのに、いつの間にか彼がドリイという少女に入れ替わっていて、気がつくとまたディランに戻っていたのである。ディランがいたずらしたのだろうか、とペーチャは考えてみた。しかし、あの状況で彼がふざけるとはどうしても思えなかった。
「あら、ペーチャ、また星みてるの?」背後から少女の声がきこえた。その声は幼馴染のナタリイの声だった。彼女は、召使のような恰好をしていた。
「あぁ、うん、そうだよ」ペーチャはナタリイに言った。「ナタリイも、お仕事終わったの?」
「いいえ、まだよ。街にお使いして戻ってきたところ」
「こんなところでさぼってると、また兄ちゃんに叱られるよ」
「いいのよ、ちょっとだけだし――」ナタリイはペーチャの横に座った。
「ぼくはきみがどうなろうと別に構わないけど……」ペーチャはナタリイに目も合わせず、遠くを見つめながら言った。
「まぁ、いじわるね」
「そんなことないよ」
「ふーん……」ナタリイはペーチャを横からじっと眺めてから言った。「ねぇ、なにかあったの? なんだかペーチャ、疲れてるみたいね?」
「気のせいだよ」
「いいえ、疲れてるわ。なにかあったの?」半笑いでナタリイは言った。「好きな人でもできた?」
「はぁあ?……」
「あら、正解?」
「ちがうよ……」
「あら、ちがうのね……じゃあなに?」
「うぅ……」
「はっきりしなさいよぉ」
「言っても信じてもらえないよ」
「えぇ、なになに?」ナタリイはペーチャに詰め寄り、耳を近づけた。
ペーチャはナタリイに、漁のあとディランの様子がおかしくなったことを打ち明けた。するとナタリイは、お腹を抱えゲラゲラと笑うのだった。
「ちょっと! こっちは真面目に言ったんだよ!」
「あぁ、ごめんね」ナタリイは目尻から出た涙をハンカチで拭きながら答えた。「それは大変だったわね。ディランが――ぐふふふふっ……」
「もー、あっちいけよ」
「はーい、じゃあもう行くわね」
「誰にも言うんじゃないぞ」
「大丈夫よ、わたしの口は岩みたいに堅いんだから」
「ほんとかよ……」
「ほんとうよ」
嵐のように、ナタリイは去っていった。ペーチャは、なぜよりにもよってナタリイに話してしまったのか、と後悔していた。しかし、彼の胸の中にあった曇はいくらか晴れていたのだった。




