悪夢
次の日、ドリイが目を覚ますと、ケイティは居なかった。いつもなら彼女が自分のことを起こしてくれるのだが、あの優しい声はもう聞こえない。彼女にとって、親友が消えてしまったことはとても悲しかったが、こういったことが起きるのは珍しいことではなかった。もし、この施設でこのような消されかたをした場合、その子供は蒸発したということである。蒸発した子供は、施設内のすべての人やロボットから忘れられてしまう。また、そのように振舞うよう求められる。もちろん、ドリイも例外ではなく、逆らった場合は自分にも蒸発する運命が訪れるのである。
ドリイは自分でベッドから起き上がり、身支度を整えた。そして、昨日までケイティと一緒にやっていた点呼をとりはじめるのであった。
「ベッドよーし、布団よーし、パジャマよーし、トイレよーし、蛇口よーし、引き出しよーし」向き合おうとしたが、向き合う相手がいなかった。鏡もなかったので、仕方なく服装は自分で確認した。「服装よーし」最後にドリイは口角を上げた。しかし、自分が今どんな表情をしているかは確認することができなかった。ドリイは、今日のところは笑顔を確認したということにするのであった。いや、今日のところではなく、今日からずっと……死ぬまで……。「笑顔よーし」
ドリイは口をつぐみ、部屋の扉とは反対側を向き、並んだ。
しばらくすると、牢のそとに子供たちが並びはじめ、いつも通りの時間に看守がやってきた。
「ヘヤバンゴウ 1564 テネブラエ バンゴウ!」
「テネブラエ 5266!」
「ヘヤバンゴウ 1564 テネブラエ オハヨウ!」
「おはようございます!」
「テネブラエ 5266 シュツボウ!」
「はい!」ドリイは牢屋を出て、扉の脇に並んだ。
すると、看守は部屋に入って言った。
「ベッドヨーシ、フトンヨーシ、パジャマヨーシ、トイレヨーシ、ジャグチヨーシ、ヒキダシヨーシ」看守は部屋を出て、ドリイを見た。「フクソウヨーシ、エガオ……」
看守はドリイの表情に違和感があることを検知した。
「5266 ナニカカクシテル ショウジキニイッテミヨ」
「はい! なんでもありません!」ドリイは精一杯笑った。
しかし……
「5266 ナニカカクシテル ショウジキニイッテミヨ」看守は同じ質問を繰り返したのである。
「はい! なんでもありません!」ドリイはもう一度、精一杯笑おうとした。
「ドリイ…… モウイチドキク」
看守が自分のことを名前で呼んだことに、彼女は驚いたが、すぐにその驚きは消えた。
「ハイ! ナンデモ アリマセン」ドリイは自分の声に違和感があることに気がついた。《声がおかしい……》
「ドリイ、鏡を見てごらん」
そして、看守の声が急に人間らしい声へと変わってゆくのであった。
鏡を見ると、ドリイは自分の姿に驚愕した。
自分が『看守』になっていたのである。
「ああああああっ!」
ドリイは恐怖のあまり、ベッドから飛び上がった。
どうやら、悪い夢を見ていたようである。
「どうしたの? ドリイ?」ケイティの声が聞こえた。「急に大声出したら看守さんがびっくりしちゃうよ」
「はぁ、ケイティ、どこも悪くない? それと、わたしロボットになってない?」
「なにいってるの?」ケイティは微笑んだ。「きっと、悪い夢を見たのね?」
「ふう、ん、ん、夢?」
「そうよ、夢よ。深呼吸して――」
ドリイはおおきく息をすって吐き出した。
「大丈夫? 落ち着いた?」ケイティは優しい声で言った。
「うん。もう大丈夫……」ドリイは、ケイティが倒れてからの記憶がなかった。あれからいったいなにがあったのだろうと思い出そうとしてみるが、なにひとつ思い出すことはできなかったのである。《ぜんぶ夢……だったのかな? でも、どこからが夢だったんだろう?》
「そう、なら、わたし寝るわね」ケイティは眠たそうに言った。
「あぁ、ごめんね。起こしちゃって」
「いいのよ」
ドリイはこのとき、ケイティの声がいつもと違って聞こえるような気がした。すこし考えてみると、その違和感の正体がわかった。ケイティの喘息が治っているのである。いつもなら大きく息を吸うとせき込んだりするのに、いまは大丈夫だったのである。たまたま症状が和らいでいるだけかもしれないが、ドリイは気になったので、ケイティに声をかけた。
「ねぇ……」
「ん? なーに?」ケイティが答えた。
「喘息……治ったの?」
「喘息……? いったいなんのことかしら?」
「えぇ……」
「嘘よ」ケイティはクスクスと笑った。
「なんだ……脅かさないでよ」
「覚えてる? あのあと、ドリイ気絶しちゃったから、わたしと一緒に病棟へ運ばれてお薬をもらったんだよ?」
「そうだったの……ケイティは喘息のお薬もらえたの?」
「うーん。よくわかんない。でも、たぶんそう。だって、こんなに良くなったんだもん」
「そうだね」
次の日の朝、ドリイたちはZ班に変わっていた。そして、もともとZ班だった子供たちはどこにもいなくなっていた。食堂で子供たちは羨ましそうに話しかけてくるのであった。しかし、ドリイはまったくうれしさを感じなかった。どちらかといえば、恐怖や不安といった感情が彼女の胸の奥底で渦巻いているのだった。
ケイティの喘息が治ったこと以外に、もうひとつおかしな出来事があった。それは、マックスが真面目に仕事をしていたことである。いっけん、なにもおかしなところはないと、ドリイは自分の思考を疑ったが、やはり、おかしかったのである。マックスは、自分から進んで仕事に取り掛かるような子ではなかったのに、今日は一言もしゃべらず働いていた。仕事をはじめる前には必ずといっていいほど愚痴をこぼして、ケイティに叱られるといったことを何百回も繰り返しているのに、今日はそれすらなかったのだった。