二人
海岸に打ち上げられた木造の沈没船からマストをはがすため、ドリイは地面に落ちた壺の破片や、釘のついた木材に注意しながら、地面についた船べりと帆柱のあたりへ近づいた。船は彼女が思っていたよりも数十倍大きかった。全長が五十メートル程度、収容人数は五百人といったところだ。帆柱も通常は、大きくても三つのところ、五つもついていて、帆船にしては規格外だった。
《……沈没した理由が僕でもわかる》ドリイは囁くと、ぶら下がっていたマストを取り外しにかかった。
海岸に倒れ込んだ帆柱からロープの結び目を探してほどこうとしたが、かなり固く結ばれており、指に力が入らなかった。壺の破片をつかって切断しようと試みたが、破片はすぐに砕けてしまった。代わりの破片を探しては、またこすりつけ、砕ける、というのを数時間繰り返してやっと一つを切断した。一枚を剥がし終わる頃には太陽が山の奥に隠れてしまい、辺りは薄暗くなっていった。
ドリイは船を風除けに使って、春巻きのように帆を体に巻き付けると、今日の散策を諦め眠りにつくのであった。筒状になっていたため、すこしだけ外の様子が見れた。海岸へ打ち上げられる波が行ったり来たりしていて、ざーざーとした一定のリズムで波音がした。
徐々に空から橙色がなくなり藍色だけになった。それから幾分もたたぬうちに海岸は漆黒に包まれ、ドリイはこれ以上ないほどの孤独感に襲われた。
幸いにも、腹は空いていないし、気温もそれほど下がらなかった。帆を取り外しているとき、食料のことが一度も頭をよぎらなかったのだ。動かなければ一週間くらいは何も食べず、水だけで生きられることを知っていたドリイは、明日こそはなにかを探そうと心に決めるのであった。
《あれ?……水! そういえば今日は一滴も飲んでない! これじゃ三日ぐらいしか持たないじゃないか! 朝起きたらすぐに水を探そう。……あぁ、でも焦ることはないか……きっとこの島なら地面を掘れば出てくる……良さそうな場所をさがして……壊れてない壺があればいいな……大丈夫…………》
――バチン。照明がついた。
「起きろ」太い女の声が聞こえた。しかし顔は見えなかった。
「うぅ……なに?……」ドリイは目を覚ました。
「質問に答えろ。貴様の名前はなんだ?」
「僕……僕は……ドリイ?……」
「ドリイ? はて、貴様は自分の性別も分からないのか? それとも何か? 頭は女で体は男とでも言うつもりか?」女は嘲笑混じりに言った。
ドリイはこのとき、女の声が妙に人間らしいことに違和感を覚えた。たしかこの前は、同じような言葉を繰り返していただけだったはずなのに……女と会話が成り立っている。この女の声を吹き込んだロボットでもいるのだろうか、とドリイは考えた。
「あれ……じゃあ、ディラン……」
「じゃあ、とはなんだ。貴様……自分の名前もまともに言えないのか?」
「僕はディラン……」ディランは凄まじい眠気を我慢しながら言った。
「そうかディラン……なぜさっきはドリイと言った?」
「それはわたしがドリイだから……」今度はドリイが言った。
「意味がわからない。貴様はドリイなのか、それともディランなのか、どっちだ?」
「どっち……どっちだろう……」
「そうか、わかった。それではまずドリイに聞く――貴様はどこで生まれた?」
「施設……」
「そうだろうな。地底の子供はみな生命の木から生まれたあと施設に送られる。そして教育を受けた。そうだな?」
「はい……その通りです」
「次に、ディランに聞く――貴様はどこで生まれた」
「ピスカトレ村にある小さな病院。生まれたときは難産で大変だったってお母さんが言ってた……」ディランは眠気を我慢していた。
「その村はどこにある?」
「わからない」
「なぜだ?」
「遭難してこの島に流されてきたから」
「島? 島とはなんだ?」
「この島だよ」
「いいや、ちがう。ここは島ではなく地底だ」
「だから、外に――」
「外などは存在しない。そんなことも貴様は知らないのか?」
「あるよ……僕は外から来た」ディランは目をなんとか開けながら言った。
「なぜそんなことがわかる。根拠はあるのか?」
「根拠……それじゃあさ、なんで天井があるの?」
「ここが地底だからだ」
「だよね、だから地上もあるんだよ」
「貴様は何を言っている。地底があるからと言って、なぜ地上が存在するということになるのだ。論理が飛躍し過ぎだ」
「飛躍なんてしてないよ。地底の反対は地上でしょ?」
「いいや、ちがう。地底の反対は『オミネス・マム』だよ」
「どういうこと。『オミネス・マム』って……?」
「わたしたちの住んでいる世界は地底であり、その対義語は『オミネス・マム』なんだよ。『オミネス・マム』は我々の中にあって、我々の自由は『オミネス・マム』の中にあるとも言える。すべての善と悪は『オミネス・マム』の中にあり、我々の地底には存在しない」
「言っている意味がわからない……」
「こちらは貴様の言っている意味がわからない」女の太い声は嘲笑まじりだった。「よし、わかった。それでは仮に地上があったとして、貴様はどうやってそれを証明する?」
「そんなの簡単だ。外に出ればいいんだよ」
「どうやって?」
「僕をここから出してくれれば連れて行ってあげる」
「それは無理だ。なぜなら地上の存在を証明する行動は犯罪者がやることだからだ。ここで説明しなさい」
「そんな……」
「できないのか? では貴様は間違いを認めるということでいいな?」
「できるよ。地上があることを証明していけばいいんでしょ?」
「ほう、やる気になったらしい。いいだろう。先手は貴様だ」
「簡単だよ。みんな空気を吸ってるでしょ? これはどこから来てるのか考えてみてよ」
「いいや、我々は空気などは吸ってはいない」
「じゃあ、手を振ると風が起きるよね。この風はどこから来たの?」
「手からだ」
「そうじゃない。漂っている空気を手で押したから風は起きたんだ」
「残念ながらわたしにはわからない。貴様の言う『風が起きる』という現象がね」
「それじゃあ、水は? 水はどこから来たの?」
「地底の貯水槽だよ」
「じゃあ、その貯水槽の前は?」
「我々の体の中だ」
「じゃあ……その前は」
「貯水槽だよ。悪いが時間の無駄だ」
「ちがうよ……水は雨となって空から降って来るんだ」
「何を言っているかわからない。雨とはなんだ、空とはなんだ」
「それは……天の恵みだよ……」子供のディランに、これ以上の説明は不可能だった。
「ほう、『天の恵み』ね。それでは私の番だ。貴様の言うその『天』とやらは、いったいなんだ?」
「それは……えっと……僕がそんなこと知るわけないじゃないか」
「貴様は自分の知らないことをわたしに証明しようとしたわけだ。つまり、貴様の言うそれはすべて、妄想というわけだ」
「ちがう……そんなのおかしいよ……ちがう……」
「おやすみ……ディラン」
部屋の照明は消え、辺りが真っ暗になり始めた。しばらくすると、一人しかいないはずの部屋に、ドリイとディランの話し声が聞こえはじめるのだった。
「ドリイ? 君きみもここにいるのかい?」ディランが問いかけると、ドリイは答えた。
「えぇ、そう、わたしもここにいるの……」




