違和感
ディランは海面を滑っていた。周りを見ても水平線と快晴だけ。どういうわけか、いつもより体が軽く、このままどこまでも行けるような気がした。
《なんて清々しいのだろう》
この様子なら泳いで故郷に帰れるのではないだろうか、と思った彼は、高鳴る鼓動を抑えることができなかった。海中へと潜り、思いっきり足の甲で海水を叩くと、水しぶきと一緒に海面へ飛びあがることができた。
口の中に海水が入っても、たいして気にならなかった。先ほど見かけた鰯の群れを見つけると、大きく口をあけ、群れを丸ごと飲み込み、骨ごとかみ砕いた。
《あれ、鰯かと思ったけど、マグロの味がする……》
このとき、彼はやっと自分の体に異変が起きていることに気がつくのであった。海中で円を描きながら泳ぐと、自分の足にびらびらとした鰭がついているのだった。体は蛇のように長かった。
――グサッ。背中に何かが刺さった。
ディランは驚いて水中をのたうち回った。そして全力で逃げるのだった。しかし背中に何かが刺さったまま抜けない。釣り針のように返しがついており、紐で繋がれているようだった。激痛に耐えながら彼は水中へ潜ったり、飛び跳ねたりしながら外そうと試みたが、上手くいかない。肉をえぐられる感覚が暴れるたびに強まるだけだった。
《もう限界だ》と思った瞬間、一気に体が軽くなった。どうやら針に繋がれていた糸が切れたらしかった。
激昂した彼は水中から顔をだした。すると遠くへ逃げる一隻の舟が見えた。よくもひどい目に合わせてくれたものだ、と思った彼は、猛スピードで舟を追いかけた。
舟に追いつくと、彼は怒りに任せて海中に体を沈め、浮上するために思いっきり海水を蹴った。しかし浮上しようとしたとき、舟は右に逸れてしまった。勢いを止めることができなかった。彼は、太陽めがけて上昇した。
――ギギギギギギギギギギ! 体から何かが剥がれていく。
音の正体がなんだったのか、彼にはよくわからなかった。気がつくと海面には真っ黒な炭が漂っていた。誰かがお祈りをしている。意識が遠のく。
――バチン。照明がついた。
ご機嫌そうな男の鼻歌が聞こえた。もとの曲がどんなものかがわからないぐらい単調な音で、正直、長く聞いていられるような代物ではなかった。しかしなんとなく聞き覚えのある曲だった。《そうだ、ここへ連れてこられたときに聞こえたやつだ!》
「おかえり。石ころ君」低い男の声が聞こえた。表情は見えなかったが、男はニヤニヤと笑っているようだった。
なにが『おかえり』なのか、ディランにはさっぱりわからなかった。それよりも、ひどい夢だった、と彼は思っていた。
「はい……ただいまもどりました」
「すばらしい。ちゃんと挨拶ができるようになったんですね」
おかしい、と彼は思った。なぜならディランは返事などしていなかったからだ。しかし声そのものは自分の声に近いような気がした。
「誰か来たの?」ディランは言った。
「黙れ石ころ!」男はディランに向かって怒鳴った。「おっと、おどろかせてごめんよ。でも君がいけないんだ、急に声を出すから――」
「うぅー、うぅー、あぁー」また誰かの声がした。
「あぁ、すまんすまん、おまえもびっくりしただろう? そうだ、おまえにお友達を紹介してやろう、嬉しいか?」
「あぁー、あぁー」
「うん、そうかそうか、よしよし」男は犬でも撫でまわすかのように言って、続けた。「ほら、石ころ君のところへ歩いて行ってやりなさい」暗がりから誰かが歩いてきた。「紹介するよ。石ころ君、新しいお友達のディラン君だ」
このとき、ディランは混乱した。闇の中から姿を現したのは、屍のような目をした自分自身だった。洋服は白いワンピースではなくて、島に流れ着いたときに着ていたシャツと短パンだった。目の前に立っているのがディランなら、いったい自分は何者なのだろうか。自分がディランでないのなら、自分は…………わからない。わからない。彼は自身の体がどうなっているのかを、無性に確かめたくなった。しかし体は動かなかった。目を動かすこともできない。自分の姿を、彼はじっと見つめるしかなかった。
「どういうこと……僕が……僕がいるよ!」
「いいや、ちがう。君は石ころだ。そして、いま君の目の前にたっているのがディラン君だ」
「なんで僕の名前を知ってるんだよ!」
「そんなの簡単だよ。ディラン君に教えてもらったのさ――」
「ちがうよ! そいつは偽物だ!」
「なんてひどいことを言うんだ。ディラン君が可哀そうじゃないか……それに、彼がディラン君じゃないとしたら、本物のディラン君はどこにいるんだい?」
「ここにいるじゃないか!」ディランは激怒し、震えていた。
「そうだ、ここにいる」男は偽物の頭を撫でながら言った。
「ちがう! そうじゃない! 僕だよ! 僕がディランだ!」
「いいや、ちがう。君はただの石ころだ。それにディラン君は男の子だろ? 君は女の子じゃないか」
「なに言ってるの……」
「おや? どうやら君は……自分の姿を鏡で見たことがないらしい。よし、わかった。ちょっと待ってくれ――ディラン君、もう自分の部屋に戻っていいぞ。ありがとうね」
「あー、あー」彼は暗闇の中へ去った。
――パン! パン! 誰かが手を叩いたような音が聞こえた。
すると、今度は暗闇の中から自分の体よりも大きい鏡が正面から、一直線にやってきた。かなり勢いがあり、ディランは激突するのではないかと思って、目を閉じた。鏡がぴたりと目の前で止まると、彼は恐る恐る目をあけた。
「嘘だ……これは僕じゃない」
鏡の中に映っていたのはディランではなく、ドリイだった。
「いいや、ちがう。これが君の本当の姿だ」
「ちがう……ちがうよ……」
「休憩時間だ。ごゆっくり」男の声が部屋に響くと、嘲笑とともに、また照明が消えた。「しっかりと自分の姿と向き合うように」