変身
食事の後、ドリイは着替えをもって風呂場へと向かった。生ぬるいシャワーの水をかぶりながら、彼はいったいどうしたのだろうと考えていた。彼女は、あんな豊かな表情をする人間を見たことがなかった。なぜ彼があれほどに顔を歪めたのか、いまいち、ぴんとこなかった。
風呂場から出て、体を拭き、ドライヤーで髪の毛を乾かすと、リビングに戻った。彼はソファーで眠っていた。リビングに入り、テーブルの脇を通りすぎると、顔が見えた。さきほどとはちがい、彼は穏やかな表情をしていた。
ドリイはこのとき、どういうわけか彼の頬に触れてみたくなった。右手をそっと伸ばし、彼に触れた。肌は思っていた以上に柔らかいようだった。しかしドリイはなにも感じなかった。彼はまだ眠っていた。今度は左手を伸ばしてみる。また彼の頬に触れた。彼の頬はやっぱり柔らかかった。そして温かかった。
思わず彼女は自分の両手を見た。彼女にとっては機械になって便利になった右腕も、生身の左手も、たいして変わらないものだった。しかしこの右手は、彼の熱を感じることができない。こんなにちがうものなのか、と彼女は気がつくのであった。
《改良が必要ね……》
次の日から、ドリイの体は一つずつ金属やエナメルに置き換わっていった。右手からはじまって、左足、右手、左目、胴体……日に日に人間離れした見た目へと変わっていくのであった。ディランはそんな彼女を見るたびに心が締め付けられるような気がした。もうやめてほしい、と彼は言うが、決まって彼女は「あなたのためなのよ……」と言うだけであった。
「もうやめておくれよ……ドリイ……お願いだから……ぼくはもう耐えられないよ……きみがきみじゃなくなっていくじゃないか……ねぇ、ドリイ、聞いてるかい?」
しかしドリイは、彼の言葉も聞かずに仕事へ出かけてしまう。そしてまた、帰ってくると彼女の体が機械に入れ替わっていた。今度は顔だった。彼女はもうマネキンにしか見えなかった。マネキンには一様、目と鼻と口があったが、表情を変えることはなかった。さらに声も変わっていた。言葉の一語一語を別々の人が喋っているようだった。女性のときもあれば男性の高い声のときもある。イントネーションもかなり違って、かなり耳障りな音だった。
「おかえり、ドリイ……」
「タ タダ タダマイ…… タダマイ……」
どうやら、『ただいま』とちゃんと言えないらしい。まだ新しい顔に慣れていないのだろうか、とディランは考え、優しい声でもう一度、言った。
「おかえり」
「キョウ ワ カンガ ンガンガ……」
「だいじょうぶだよ。なにもかんがえないようにしてたよ。やくそくしたもんね」
「ヨクデキ タ ネ」
「うん……さぁ、ご飯を食べよう……」
席に着くと、二人は夕食をとりはじめた。彼女のご飯は金属トレーに乗った食べ物ではなく、液体燃料に変わっていた。シルバーの二リットル缶にストローが飛び出していて、吸い込むと気味の悪い機械音が鳴るのだった。
――ウイーン、ウインッ、ウイーン、ズズズズズ……
機械音を聞くたび、ディランは神経が磨り減っていくような気がした。彼女は人間ではない。ディランはそう思うようにしていた。そう思わないと耐えられないのだった。彼女の温かい手も、優しい心も、すべてなかったことにした。目の前にいるのはただの機械……機械……体温も、心もないただの機械。そうだ、ただの機械。会話などしても意味がない。彼女はどこかへ行ってしまったのだ。代わりにこの機会が自分の世話をしている。ただそれだけだ。
夕食のあとはいつも通り、ソファーに横になった。もう一週間もこうしていた。このままでは自分も機械になってしまうのではないか、と彼は思った。そうなったらもうすべておしまいだった。あんなふうに体を失ってしまったら、お父さんやお母さんと暮らせなくなる。もう二度と暮らせなくなってしまう。
《外へ逃げよう……外へ出て、あの怪物に見つからない様に、ありったけの食料を集めて舟を出そう。他の島へいこう。ここ以外、どこでもいい》
真夜中、彼は目を開けてソファーから体を起こした。音を立てないように足を床に下ろして、紐なしの靴を履くと、ベッドに横になっている彼女の様子を確認した。顔がないので目を瞑っているのかどうかもわからなかったが、おそらく眠っていた。
扉の前に近づくとドアノブに手を伸ばした。ゆっくりと、音を立てないように、慎重に鍵を開けた。音はならなかった。ひと安心した彼は振り返って彼女の様子を確認した。窓の隙間から青白い光が差し、彼女が呼吸をするたび体が動くのが見えた。
ドアノブを回した彼は、外へ出た。扉を閉じる時も細心の注意を払った。扉が締まると、出てすぐの階段を下りて建物から出た。通りには誰もいなかった。彼は、はじめてここへきた時のことを思い出しながら、走って、止まって、耳をすまし、また走るのを繰り返した。十字路に差し掛かると、またあの丸いロボットがきやしないかと、左右を確認した。
《大丈夫だ!》
ディランは勇気を振り絞って、反対側へと急いだ。通り抜け、建物の陰に隠れると、寒いわけでもないのに、腕と脚が震えていた。顎も恐怖で震えて、涙が止まらなかった。《怖い……怖い……》ただそれだけが、彼の感情を支配していた。一刻も早く逃げたかったが、焦りは禁物だった。呼吸を止めて、音を確認する。
――コツン……コツン……。
何かが近づいてくる。いったいなんの音だろうかとディランは建物の陰から覗き込む。
「ドコヘ イッタノ ワタシノ カゾク タイセツナ カゾク」
ドリイだった。ドリイが追ってきていた。ディランは恐怖におののき、急いで洞窟の出口へと急いだ。狭い路地を抜け、街の外へと出た。洞窟はもうすぐだ。
そして彼は、ようやく洞窟の出口がある場所へとたどり着いたのであった。今までの恐怖が取り払われるような気がした。体も温かくなってきて、冷静に考えられるようになってくると、深呼吸をして崖を見上げた。しかし、出口はなかった。
《きっと外は夜なんだ。だっていまは夜中なんだし!》ディランは崖を登りはじめた。《おかしいよ。だって、出口はここにあるんだから……おかしいよ……》目に見えているものが、彼には信じられなかった。《どうしよう……外に出られないよ……》
「ドウシタノ コンナ トコロデ」
ディランは振り返った。彼女がこっちを見ている。
「アブナイ オリテ キナサイ」
「いやだ!」ディランは大声で叫んだ。
「シズカニ ソレト アブナイ オリテ キナサイ」
「いやだ! いやだ! もう帰りたいよ!」
「ソウ ダカラ オウチニ カエリマショウ」
「ちがうよ! あれはお家なんかじゃない!」
「オウチジャ ナイ」
「そうだよ! あんなのはお家じゃない!」
「ソウ ワカッタ デモ ココニ イルト」ドリイが言いかけると、彼女の背後から声がした。
「オイ キサマ ナニシテル ココハ キンシ クイキ ダ」
やってきたのは看守だった。看守がスクリーンに目玉を投影すると、ドリイは気が抜けたように倒れ込んだ。倒れ込んだ彼女に看守は近づくと、彼女の部品を外しはじめるのだった。
「ウラギリモノ ウラギリモノ ウラギリモノ」
彼女はディランに言った。
「ニゲテ……」