家
ディランは、ドリイの家に入った。部屋は洗面所やトイレ、風呂場以外には一部屋だけしかなく、リビングにキッチンとベッドがあるような部屋だった。部屋の真ん中にはダイニングテーブルがあって、椅子が二つ用意されていた。天井からは昼間の太陽と同じくらい明るく傘のない電球がぶら下がっている。部屋の奥には窓がひとつだけあるようだったが、ディランが家に入った時に、彼女がカーテンを閉めた。部屋にいろどりはなく、すべてが白、黒、灰色で構成されていた。
「ドアはちゃんと閉めて――」カーテンから手を離したドリイは、振り向きざまに言った。
「うん。わかった」返事を返した彼はドアがしっかりとしまったことを確認するために、ドアノブを何度か動かしたりして、確認した。
「鍵があるでしょ?」
「鍵? どうすればいいの?」
「今動かしているドアノブの上を回してくれる?」
「あぁ、これ、はい」
――ガチャン。ディランはドアに鍵をかけた。
「ありがとう。さぁ、椅子にかけてくつろいで――」
椅子に座ったディランは、彼女と向かい合わせになった。そして、彼女はじっと彼のことを見つめているのであった。
「………………あの、ちょっといいですか?」
「なに?」椅子に掛けたまま首を傾げた彼女は、なぜか楽しそうに微笑した。
「僕の顔になにかついてるんですか?」
「いいえ、なにもついてないわよ」
「そうですか……じゃあなんでそんなに僕のことを見るんですか?」
「うーん。あなた以外に見たいものがないからかしら?」
「そうですか……《とりあえずいまは好意として受け取っておこう……》」
「うふふふ……」ドリイは微笑した。
「そんなに僕の顔、おもしろい?《ちょっと気持ち悪い子だ……》」
「ええ、とっても――」
「そうなんだ……」ディランはうなだれて自分の手についた汚れを見た。「あの……」
「なに?」
「お風呂借りてもいい? それと、着替えがあればうれしいんだけど……」
「わたしと同じ服になるけどいい?」
「そうだよね……」
結局、ディランは彼女の服を借りることにした。風呂場はドリイの真後ろの部屋にあった。その部屋にはいると、まず正面にトイレ用の個室に突き当たって、右を向くと、ちょうど台所の裏側にあたるところに風呂場はあった。風呂場といっても湯船はなく、シャワーだけであった。
風呂場は人ひとりが入れる個室で、金属でできた向日葵のような傘が下を向いていた。彼は風呂場の前で、ポカンとそれを見上げると、首を傾げた。
《なんだろうこれ……》
ディランが住むピスカトレ村では、ここまで近代的な水道設備はなく、子供は川や海で水浴びをするのが一般的であった。もしくは、使わなくなった小舟に、沸かした川の水をためるか、大衆浴場があるので、そこで済ませるのが常識であった。
「これ、どうやって使うの?」彼はリビングの椅子で、向かいの壁を眺めて座っているドリイに声をかけた。彼女は彼の声に驚いたように体をビクッとさせると、椅子から立ち上がり、音も立てずにやってきた。
「あまり大きな音を立てないでくれる?……その、ここは壁が薄いからこんな声でも隣の部屋に聞こえちゃうのよ。いい?」彼女は、何かに怯えているように目を泳がせ言った。
「ごめんなさい……」
「……いいわ。今度から気をつけて」彼女はディランから視線を外すと、シャワーヘッドのあるところへ歩いていき、指さした。「ほら、ここに回すのがあるでしょ――」
「これをどうするの?」
「ひねるのよ、こうやって――」ドリイは蛇口をひねってしまった。
――ザアアアアアアアア…………。
「あああ…………」ディランは思わずこう言った。
水浸しになった彼女は声も上げずに黙っていた。冷たい水が頭のてっぺんからつま先までかかったので、さすがに悲鳴のひとつでも上げるだろうと思ったディランだったが、彼女は何事もなかったかのように水を止めて彼の脇を通り抜けると、リビングに入ってすぐのところにあるタンスから洋服を取り出した。洋服は白く飾り気のないワンピースのような服で、彼女が今着ている洋服とまったく同じものであった。すると、躊躇もなく彼女は着替えはじめるのであった。
「ちょっと待って!」ディランは風呂場の前――ドリイから見ると台所の裏側――に体を隠した。
「あら、どうしたの?」彼女は隠れたディランを覗き込む。「かくれんぼするの?」
「もう……なんでもないよ!」後ろを向いて彼は、彼女のことを見ないようにした。
「そう?……終わったら教えてね。『あがったよー』って」なぜかこの時、ドリイの目には微かな輝きがあった。
「どうして?……部屋狭いからお風呂上がったの、すぐにわかるとおもうけど……」
「家族ってみんなこうするんでしょ?」
「え……どういうこと? 家族?」ディランは首を傾げた。
「……違うの?」彼の言葉を聞いたドリイは悲しそうな表情になった。「おなじ屋根の下に住んだらみんな家族じゃないの?」
「うーん。あっているような……まちがっているような」
「ちがうの……」
「あぁ、はいはい、その通り。だから、そんな顔しないでよ」
彼の言葉を聞いたドリイの表情は心なしかやわらかくなった。このときディランは彼女の言う『家族』という言葉の響きに、なにか特別なものがあることを感じ取った。しかし、その意味までは理解できなかった。そのまま彼は廊下を歩いてシャワー室の前に立つと、汚れた服を脱いでシャワーのハンドルを回した。
シャワーを浴び終わり、風呂場を出ると、汚れたディランの洋服は消え、代わりに洗濯籠の中に一着のワンピースが置かれているのだった。彼は、誰かがきた気配などまったく感じなかったのだが、きっとドリイが置いてくれたのだろうと思った。
《はぁ……まさかこんなことになるなんて……》ディランは一着のワンピースを籠の上に広げてしばらく静止した。
父親から『男らしく、誠実であれ』と毎日のように言い聞かされてきたディランにとって、この経験は、人生のなかで最も屈辱的なものの一つとなろうとしていた。このワンピースを着なければ自分は素っ裸で過ごさなければならなくなるわけだが、この場合どちらが父親の言う『男らしく、誠実』なのであろうか?……
『男らしい』の観点からすれば、ワンピースを着るなとどいうことは、決してあってはならない行為である。
しかし、『誠実』の観点からすれば、彼女がわざわざ清潔な洋服を用意してくれたのに、男らしくないからと言ってワンピースを着ないというのは、間違った行動である。
つまり、ワンピースを着れば男らしさを――素っ裸なら誠実さを失うということになるわけで、どちらにしろ、父親の言葉に反してしまうのだった。
このとき、ディランは父親の言っていた言葉に矛盾があることに気がついたのであった。しかし、今までの信仰を捨てることはたやすいことではなく、頭の中ではグルグルと相反する思想が渦を巻いていた。
《男らしさか……誠実さか……、男らしさか……誠実さか……、ワンピースか……素っ裸か……、ワンピースか……素っ裸か……、ワンピースか……素っ裸か……………………》
そして、彼はワンピースを手に取ることにしたのだった。