静かな森
ディランは、翌日、凍えるような寒さで目を覚ました。胃液が逆流したようで、気分が悪かった。目を瞑ったまま体を起こしてみると、お腹に溜まっていた水が下におちるような気がした。着ていた服も水を含んでいて、絞ってみると水滴が落ちてくる。
昨晩、自分がどこで眠ったのか思い出せなかったディランは、当たりを見渡してみた。すると、そこは、テントの中ではなく、外であった。ちなみに、焚火は消えていた。
ちゃんと眠れなかったようで、視界がぼんやりとして、頭には重たい壺が乗っかっているようだった。彼は、左手をおでこに添えてみる。しかし、熱は出ていないようだった。
森は濃い霧に包まれていた。太陽は見えなかったが、まわりにある木々が見えないほど暗くはなかった。昨日は気がつかなかったが、針金が絡まったように角度をつけ曲がった黒い枝の陰がいくつも見え、音を立てながら揺れると、さらに薄気味悪かった。
次に頭に浮かんだのはドリイのことだった。彼は立ち上がると、足に着いた泥を払ってテントの中を覗いた。しかし、彼女はいなかった。
辺りを見渡し、土や草の様子を観察した。すると、クローバーの葉が何本か不自然に折れ曲がっているのを見つけたので、地面をなめるように四つん這いで、次の手掛かりを探した。呼吸を整え、同じところをじっと眺めていると、彼は、足跡のような水たまりをいくつも見つけるのだった。
足跡はディランが歩いてきた道をなぞるように海岸へと続いていた。そして、海岸へとたどり着いたとき、ディランは驚愕した。
隠してあったはずの小舟が消えていて、代わりにたくさんの虫や小動物の干からびた死骸が海へと続いていたのであった。
恐ろしい光景に、ディランは腰を抜かし、尻もちをついた。
《いったい何が起きたんだ。この足跡はたしかに小舟のあった場所へと続いている。ということは……ドリイは僕の小舟に乗って島を出て行っちゃったのか》
ディランの頭にあったのは、大海原で彼女が迷子になって苦しんでいるのではないかという心配だけだった。
彼はゆっくりと登ってゆく太陽を見ると、両手で目元に影をつくって沖になにか見えないかどうか探した。しかし、あったのは、島にやってきたときに見つけた木造船の廃墟だけであった。
「ドリイ、イ、イ!」
大声を出しても彼女の返事が返ってこないことは、もちろん分かっていたが、彼女を失った孤独感と、絶望的な状況がさらに悪い方へ変わったことで、叫ばずにはいられなかったのだった。なにより、彼は、ドリイのことが心配だった。
叫び疲れると、彼は、糸を切られた人形のように、ぷつんと音を立てて、砂とガラス、貝と珊瑚の死骸に膝を落とした。
目じりからは涙が滴って、自分でもどうしてこんなに悲しいのか分からなくなるほど、胸が熱くなった。悲し過ぎて、頭が痛かったし、彼女の名前を呼ぼうとしても、嗚咽が止まらなくなるだけだった。
彼はあきらめて、テントに戻り、狼のパオを呼んだ。しかし、パオの声はおろか、鳥の鳴き声すら聞こえなくなっていた。風が吹くと霧が流れて、木がしなる。ザーザーと音を立てて葉と葉が鳴り、視界が広くなったり狭くなったりした。
寝床に戻ったディランは、うつ伏せになって、もう一度、眠りに落ちた。もう彼は立ち上がることができなかった。もうすべてがおしまいだった。火打石を叩いてみても、湿りきってしまったかのように、火花は散らず、欠けてゆくだけだった。そういった力が湧いてこないのだ。
《もうこれまで……》彼は囁いた。
「子供だ……」「子供が寝てる」「食べよう」「食べちゃおう」「おいしいよ」「きっと」「おいしい子供だ」「さっきのまずかった」「そのあとのもまずかった」「でも、こんどは大丈夫」「お腹すいた」「早く食おうよ」「弱ってからにしよう」「いや、いまにしようか」「どうせ逃げられない」「そう、どうせどこにもいけない」
風の音に混じって、ざわざわと耳障りで、気味の悪い声が幾重にも重なって聞こえる。ディランは背筋が凍りつくのを感じ、体を持ち上げた。彼は、テントの外がどうなっているか確かめるために、そっと破れた場所を覗いてみた。
人体がいくつも見えた。しかし、体の一つひとつは、独立しておらず、繋がっていたり、挟まっていたり、取り込まれていたりした。顔がいくつもあり、どの顔も頬がこけて、人形のようだった。声の正体はその顔たちで、急に怒ったり、泣いたり、笑ったりするのだ。痛々しく皮膚が垂れ下がり、血が流れていたりしたが、痛みは無いようだ。怪物はテントの周りをなにかの儀式かのようにぐるぐると回り、なにかを拾い集めたかと思うと、なにやら工作をはじめた。どうやら、刃物で槍をつくっているようだ。
《なんだあれ……この島にはこんなのがいるの……》ディランはびっくりして後ろへとびのき、口を両手でふさいだ。恐怖で震えが止まらなくなった。そして、このとき、彼はやっと気がついたのだった。彼女が自分を騙していたことに……《そうだ、あんな子がこんな立派なテントを立てられるはずがない……火をつけたのもあの子じゃない……あの怪物だ……》
頭を抱えて、うずくまると、彼は下唇を震わせることしかできなかった。腕も、肩も、足も、そして、顔も、涙がでて、神に祈ることすら忘れるほど恐怖に支配され、声を抑えようとしても、抑えられないのだった。もう、自分がテントの中にいることは、怪物は知っている。
すると、狼が怪物に飛びついた。パオだった。
ディランの心に希望の光が差し込んだかと思ったが、彼は、パオの目を見て絶望した。パオの目は、まるで、茹であがった魚の目のように、理性の欠片もなかったのだ。
ディランは、怪物同士が争っている間に洞穴へ走った。