遭難者
雨はしばらくすると止んだ。どうやら通り雨だったようである。ほんのりと青い靄が森に掛かり、木々の葉に溜まった水滴が落ちて地面に水たまりを作っていた。水たまりには大きなアメンボがいた。洞窟の中にもその水が流れ込んできており、泥の匂いと湿気が鼻の奥に入る。ディランはその匂いが、どちらかといえば好きだった。
「ときに、少年……。お前のこの銛はどこで手に入れた?」狼は、洞窟から首だけ外に出して、外の様子を伺いながらディランに尋ねた。
「あ! 餓鬼じゃなくなった!」ディランは、自分が『少年』と呼ばれたことを、少し気に入った。また、狼の『少年』という言葉の響きには、わずかであったが、親しみ易さを感じた。
「いいから答えろ! 本当に食うぞ!」
「あ、ごめんなさい! この銛? これは僕の父ちゃんのだよ」
「ほう……。お前の父親はその銛で怪物を殺す仕事をしているのか?」狼は少年の目を見て言った。
「いいや、漁師だよ。それに、怪物をやっつけるのは襲われた時だけだって父ちゃんいってた」
「そうか……」
「どうしたの?」
「いや、気になったから聞いただけだ」
「ふーん」
「それで、お前はこれからどうするつもりなんだ?」
「僕? 僕はね、あそこに行くんだ」ディランは山のふもとから立ち上る煙を指さして言った。
「ほう。あそこにか? それはまたどうして?」
「火が欲しいんだ」
「火? 何のために?」
「この魚を焼くためだよ」
「そのまま食えばよかろう」
「うーん。食べられないってことはないけど。火を通さないとお腹壊しちゃうから」
「そうなのか? 面倒くさいな、人間は……」
「うん……そうなんだ」
すると、狼は少年に言った。
「ついてこい……」
「え、悪いよ! それに、足、折れてるかもしれないんだよ?」
「良いから黙ってついてこい! このまま置いて行ったっていいんだぞ?」狼は、このままではディランが他の生き物の餌になってしまうと考えたのだった。
「優しいんだね! ありがとう!」ディランは狼が自分のことを心配していることに気がついた。
狼は木と木のわずかな隙間を通りながら、ディランを目的地まで案内した。山のふもとに到着すると、ディランは煙が出ていた場所を見た。そこには白い小屋があり、前では焚き木がついていた。
狼は、小屋へゆっくりと歩き出す。
「おい、ドリイ、いるなら出てこい! 客が来たぞ」狼は大声で言った。
「ドリイ?」
《こんなところに住んでいる人がいるのだろうか? それとも、彼と同じ狼だろうか?》とディランは思い、辺りを見渡した。すると小屋の中から一人、少女がでてきた。少女といっても、ディランからみると同い年ぐらいだった。彼女は白い無地の服を着て、汚れたサンダルを履いていた。服は汚れていてしまっていたため、至る所にシミがあり、破けてしまっていた。
ディランは彼女に挨拶しようと彼女のもとへ歩いていった。地面は濡れていたが、水はけがよい場所のようで、あまりぬかるんではいなかった。
「こんにちは……」ディランは言ったが、彼女は警戒しているようであった。彼女はディランが近づくと、脚を震わせて、後ろへ下がった。しかし、次の瞬間、狼の足にまかれた包帯と、ディランの優しそうな表情が見えた。そのおかげか、足の震えは、自然とおさまるのであった。
「あ、急にごめんなさい。その……ここに来たのは、火を借してほしくって」
「火?」ドリイは言った。「火をどうするの?」
「火でね。魚を焼くんだよ」
「魚? もってるの?」
「うん。ほら」ディランは魚が入った壺を傾けて彼女に見せようとしたが、ちゃんと見えなかったようで、彼女は眉間にしわを寄せて考え込むような表情をしていた。
――ぐうぅぅぅぅ。ドリイの腹が鳴った。
「……」ドリイは恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「お腹すいてるの?」
「うん……」
「一緒に食べる?」
「良いの?」
「もちろん。火をかしてくれたら一緒に食べられるよ」
「わかった……魚、見て良い?」
「いいよ」
ドリイは少し警戒しながらだったが、ディランの側へいき、壺の中身を見せてもらった。
「これが魚?」ドリイは首を傾げて言った。
「そうだよ。魚だよ。初めて見たの?」
「ふーん」しかし、彼女はディランの質問には答えなかった。「これ食べる!」そして、ドリイは目を輝かせ、指さして言った。
「うん、わかったよ。それはドリイのだ」少年は微笑んでいうと、ドリイは大人げなかった自分が恥ずかしくなり、顔を赤らめた。
ディランは手ごろな棒をさがしたあと、魚に突き刺して、焚き木の周りに並べた。魚が焼けていく間、ドリイはじっと魚を眺めていた。
「それじゃ、ドリイが焼けちゃうよ……」
「大丈夫」ドリイは一度だけよだれがたれそうになったが、すぐにそれを手で隠した。そして、また恥ずかしそうに膝を抱えたあと、ディランをみた。
《この人このまま一人でいて大丈夫なのかな……なんだか心配だなぁ……》ディランは彼女の様子を向かい側から眺めていたが、彼女がこっちを向いた瞬間に視線をそらすのであった。