狼
ディランは必要なものを雑嚢に詰め、肩にぶら下げ、壺を抱えた。雑嚢からは大きな銛が横に飛び出していたが、これは怪物と出くわしたときの護身用で、直ぐに取り出しができるようにと工夫してのことだった。
小舟を後にしたディランは森の中へと入った。上にはヤシの木、下には細長い形をした葉が扇状に地面から突き出していた。木はヤシ以外にも、赤くて大きな、たわしのような実をつけた木がいくつもあった。この実はディランが住んでいる家の近くにもあったものだったので、迷わず彼はその実をナイフで切り離し、突き出した小さなこぶを引っこ抜いて、しゃぶった。しゃぶると、甘い香りが口いっぱいに広がって、疲れと、喉の乾きを癒した。
無数の虫や、ウサギやネズミなどの小動物が地面を這いまわっていたが、そんなことで取り乱すディランではない。彼はその生き物を見て、どういった罠を仕掛ければ簡単に捕らえることができるのかという問題について考えを巡らせていた。更には、どのように調理すればいいかまで想像を膨らませたが、肝心な調味料がないことに気が付いて、仕方なく、素焼きで我慢することを心に誓った。
それからしばらく森の中を歩いていると、雨が降ってきた。本当に突然だった。彼は急いで近くにあった洞窟の中に逃げ込み、雨宿りをした。彼はその間、山のふもとから出ている煙が消えやしないかと心配になりながら眺めているのであったが、煙は、風向きが変われど、消え去ることはなかった。
しばらく煙を眺めていたディランであったが、じっと煙が揺れるのを眺めているのも、意味がないような気がし、洞窟の中に視線を向けた。洞窟の中は入り口から膨らむように広がっており、なかへ進めば進むほど広くなっているようであった。
ディランは暗くて何も見えない洞窟の奥をじっと眺め、丁度後ろにあった岩に腰を下ろした。すると、思っていたよりも柔らかくて、暖かい、まるで毛皮のような感触がした。
「ガルルルルルルル!」突然背後から獣の唸り声がした。
「うわっ!」ディランは驚いて、岩から飛び上がった。
恐る恐る彼が振り向くと、狼がこちらを睨み付けていた。狼は前足を地面につけて立っていたにもかかわらず、ディランの倍以上の背丈があった。ディランは、大きな銛に手をかけた。『獣と至近距離で出くわしたときは、なるべく背を高くして、隙を与えないように、大声で、いろんなことを喋りまくるのが良い』と父親から教わっていたので、彼はそれを実践しようとしたのである。しかし、いざ、その状況に出くわしてみると、声帯が変に緊張してしまい、迫力のない、かすれたような声しか出すことはできなかった。
《ま、まずい……このままだと……》
「貴様、餓鬼の分際で、この俺を脅すつもりか……?」
太い声がディランの耳に入った。しかし、ディランは腰が抜け、足もガクガクと震えていて、その声の主を探す余裕などなかった。目を離した瞬間、目の前にいる狼に襲われてしまうことがわかっていたからである。
「おい! 聞いているのか! 餓鬼!」
《また誰かの声がするよ、いったい何なんだこんなときに……》ディランはそう思い、銛を高く持ち上げて、声を出した。「う、うわああああああああああああ!!」
「うるせええええええええええええええ!!!!」
誰かが叫んだ拍子に、狼もディランに向かって大きな声で吠えた。ディランは、声に驚いたあと、全身の力が抜けてしまい、地面に尻餅をついた。
「ふわぁあ……」ディランはわずかな望みにかけて、助けを呼ぼうとしたが、恐怖で口もまともに動かすことができなかった。
「おい、餓鬼! ……まったく、最近の餓鬼はまともに挨拶もできんようだな……」
「うぅ……ふぅ……」ディランは相変わらずガクガクと震えていたが、ようやく、先程から話しかけてきているのが、目の前にいる狼であることに気がついた。
「よし! 食っちまおう!」狼は言った。
「ま、待ってぇ! お願いですぅ! ダベナイデグダザイ……」ディランはとうとう泣き出してしまった。
「ん? やっとまともに話したな、でももう遅い、俺は腹が減ってるんだ!」
「バッデー。ダベナイデー」ディランはそういったあと、魚が入った壺を狼に差し出した。「コレー。アゲルカラー」
「ん? なんだそれは?」狼は魚が入った壺に鼻を近づけた。「魚か、まだ新しいようだな……よぅし! 見せろ!」
ディランは立ち上がった後、言われた通りに壺の蓋を開け、中身を見せた。
狼はもう一度匂いを確かめ、魚が腐っていないことを確認した。
「良いだろう! 運が良かったな、餓鬼……。三匹だ。三匹、口の中に置け、いいか? 三匹だぞ? 騙したらただじゃすまないからな」狼は少年に口を近づけて大きく口を開けた。
「は、はい!」ディランは狼の舌の上に、一匹ずつ魚を置いた。三匹置き終わると、彼は言った。「置きました」
――バチン! 虎ばさみのように狼の口がしまった。
「ふわぁ!」ディランは驚き、また地面に尻餅をついた。
狼はむしゃむしゃと音を立て、骨ごと砕いたあと、飲み込んだ。
「ふむ、悪くなかった」狼は言った。「それで、なんでおまえはこんなところにいるんだ? 見たところ、貴様は生贄でもなさそうだしな」
「生贄だって?」ディランは狼が言った耳慣れない言葉に驚いた。「ちがうよ、僕は他の島から来たんだよ。漂流してきたんだ!」
「なるほど、確かに、服装が違うな……」
「あ、あの……」
「なんだ?」
「僕以外にも人がいるんですか?」
「あぁ、いるぞ、びっくりするほどな……」
「えぇ、そんなにですか! でも、ここに来るまでの間、一度も人と会えなかったので、てっきり無人島なのかと思いました」
「無人島? 貴様がいるではないか……」
――沈黙。
「……《あれ、冗談のつもりかな……》」
「ふんっ! 今のは聞かなかったことにしろ!」
「はい!」
「要するにだ。無人島ではないと言いたいのだ!」
「な、なるほど、それで、その、人は一体どこに? まさか……狼さんの腹の中とかじゃ……」愛想笑いのディランは言った。
「心外な! 俺は食わん! 口の中で『助けて!』とか言われてみろ! トラウマになるぞ!」
「あぁ、なんとなくわかる気がします」
「奴らはな、地面の下に国をつくって暮らしているんだよ」
「詳しいんですね……でも、なんでまた地面の下なんかに……」
「し、知るか、奴らの考えていることなど……」狼はこう言ったが、実際はなにかを知っているようであった。
「それと、さっき『生贄』とか言っていたのは……?」
「あー。それはな、この島の民が何年かに一度地上に子供を送り出すんだよ」
「何のために?」
「きっと、そういう決まりだからだ」
「はぁ?」
「……貴様」狼はディランを睨みつけた。
「あ! いや、ごめんなさい!」
「そうだな。よし、おそらくこうだろうと前に想像したことは話してやる。たとえば……子供に地上を確認させて、戻ってくることができれば地上は人間が暮らせる環境というわけだ」
「うん、それで」
「それだけだ」
「え……どゆこと?」
「理解の遅い餓鬼だ。つまりだ、地底の奴らは地上がなくなっていると思っているんだよ」
「はぁ?」
「おい……こっちは真面目に答えてやってるんだぞ」
「す、すみません」
「まぁいい、地上で普通に暮らしている人間に理解しろという方が難しいのかもしれん」
「ふーん。なんで子供なの? 自分で確かめればいいのに……」
「地底では子供達がそういう扱いを受けているというぐらいしか、俺にはわからん」
「なんでだろう……?」
「さあな、結局、臆病者ばかりなのかもしれん。戻ってきた子供は一人もいないのだからな」
「どうして戻ってこないの?」
「そんなの簡単に想像できるだろ? 子供は方角も気にせず、当たりを歩き回り、いつしか自分がどこにいるのか見当もつかなくなる。それでいつのまにか、俺みたいな獣の餌食になったり、道に迷って餓死してしまうのさ」
「なるほど……って、あれ、食べたの?」
「あぁ、美味かったぞ」
「え……」
「嘘だ」
「よかった……」
「というのが実は嘘だ」
「えぇ!」
「まぁ、嘘なんだがな!」
「もーからかわないでよ……あ、わかった! 実は久しぶりに話し相手ができてうれしいんでしょ!」
――ギクッ!
「ふ、ふ、ふん! 別に……」狼は何かを言いかけたが止めた。
「別に……?」ディランは純粋な少年らしい微笑で狼の目を見た。
「うーん……まぁ、そういうことにしておいてやろう」
「大人だね!」
《この餓鬼……》
ディランはふと、狼の足元に目をやった。すると、右の前足を引きづっているようだった。
「怪我してるの?」ディランは心配して言った。
「別に大した怪我じゃない。すこし高いところから落ちただけだ。しばらくほおっておけば――」
「駄目だよ! ちょっと待って!」ディランは雑嚢から布を取り出した。使わなくなった布を洗ってつなぎ合わせたつぎはぎの布で、彼の住む村で包帯としてつかっているものだ。
「大丈夫といっているだろうが」
「いいから、見せてってば!」そういうとディランは恐ろしい狼の歯をものともせず、狼の懐に頭を入れた。「折れてるかもしれないから念のため確認するけど怒らないでね」
「ふんー。好きにしろ!」
「これは? 痛い?」ディランは幹部がある足の甲の裏側をそっと押してみた。
「うぅ……少しだけ痛いかもしれない」
「ふーん。折れてるようには見えないけど……。次、こっちは?」ディランはくるぶしあたりに軽く触れた。
「うぅ……」狼は我慢しているようだった。
「痛いんだね?」
「痛い」
「そうか……」
「遊んでいるわけじゃないだろうな?」
「まさか。真剣だよ!」ディランは言った。「もしかしたら、骨にひびが入ってるかもしれない。応急処置はするけど、しばらくは動かさないようにしてね」
ディランは雑嚢に括り付けた父親の銛を見ると、先端の刃物を取り外した。その後、地面と足をつかい、へし折った。ナイフでささくれをとり、狼の足の大体の長さと合わせると、足の両側面に並べ、包帯でぐるぐるまきにした。