ニホンオオカミ
バスのドアが開く。乗車口をスッと上がる。席には座らない。
今年78になるが、自分はまだまだ衰えてはいない。
若い頃マラソンで鍛えたこの足。毎日20km以上、雨の日も風の日も走り込み、自分を追い込み続けた。今でも鮮明に覚えている。自然と速くなる呼吸、大きくなる心臓の音、重くなる足、前後を走るライバル、もとい仲間たち、その全てが今でも輝いている。あの頃に戻りたいと時々思う。
昔は良かった。街行く人に活気があった。戦争後、なんとか日本を復興させようとお互いを支え合い、励まし合い、力強く生きてきた。そこには本当の日本の心があった。
しかし今はどうだろう。街を見ると皆下を向き歩いている。バブル崩壊で経済は低迷した。安全のためだと言い人付き合いは減ってしまった。弱々しい人が増えた。挙げだすとキリがない。いつからこうなってしまったんだろう。いまの若者たちは日本の心を忘れている。私が、日本の心を知っている私が若者たちに教えてやらねばならない。それは義務であるのではないか。よし、あの頃の美しい日本を復活させるんだ!
男子高校生がバスに乗ってきた。
「あちぃ〜」
そう言っている彼のシャツの裾はだらしなく外に出ている。私が小さい頃は裾を出していると母に「不良になるよ」と言われたものだ。こういう小さな事から心は出来上がるのだ。ここで正してやらねばこの子は堕落してしまう。
「おい。シャツの裾を出しているなんてだらしないぞ。高校生だったらもっとちきっとした格好をしなさい。私たちが学生の頃はみんなちゃんとしていたぞ!」
自分でも熱の高まりを感じる。
「いまの若いもんはだらしない!何故だかわかるか?気が緩んでいるからだ。うん。お前たちは気が緩んでいるんだ!私たちの頃は戦争が終わった後で満足に物がなかったんだ。そんなときでも一生懸命努力して頑張って生きてきたんだ!なのにお前たち‥‥」
「ちょっとあなた」
優先席に座っている自分と同じくらいの年齢の女性が割り込んできた。
「そんなにまくし立てても伝わりませんよ。第一ここはバスの中です。そんなに大きな声出さないでくださいな。」
善意でやったことなのに。全身が煮えくり返る思いだった。
「あ!?おれはこいつのためにやっているんだ!こいつが将来困らないようにするために叱っているんだ!それのなにが‥‥」
言いたいことは山ほどあったが目的地に着いてしまったので渋々下りることにした。
あの高校生のために叱ってやったのにあんまりじゃないか。あれくらい叱ってやらないといまの子には伝わらんのだ。周りがそうやって甘やかすから弱っちい子が育つんだ。きちっとせにゃならん。そう思うだろ?美智子?
妻の墓の前で話をする。
時代の流れとは残酷なものだな。気づかぬうちに何もかもが変わってしまった。子供でもあればそれをつかむことができたのかもしれないが、人生の大きな後悔の一つとなってしまった。
話をしながら掃除を済ませる。
今では私は独居老人だが、そっちへ行くまで見守っていてくれ。
スッキリした墓を後に家路につく。
家に帰ると隣の奥さんとばったり会った。
「こんにちは」
「こんにちはぁ」
それ以上の会話はなく家に入る。
「ただいま」
一言、大きな家に響く。留守番電話を確認する。着信なし。テレビをつける。
「先日起きた池袋の高齢ドライバーによる事故の判決が出ました。犯人は懲役‥‥」
昼に飲み忘れた薬を飲む。