五月五日 木曜日 (1)
今日は青空なのに、雨が降っていました。不思議な天気です。
朝、目が覚めた僕は、読みかけの本を片手にリビングの方へ向かいました。
ダイニングテーブルの前の椅子には、昨日のヒラヒラがついた服を着た男性が座っていました。『王子様』です。どうやら昨日は、もう夜遅いからという理由で、ママとパパがこの家に一泊するようにと勧めたようです。
その王子様の顔をずっと見ていたら、何だかどこかで会ったことのあるような気がしてきました。昨日は初対面の人だとばかり思っていたのに、何だか急に親近感を覚えたのです。
不思議な気持ちを抱えながらずっとその顔を観察していると、王子様がこちらの視線に気づいたようです。訝しげな表情で王子様は見つめ返してきました。それでも何か文句を言うわけでもなく、『やぁ、おはよう』と王子様は僕に挨拶をしてくれました。
ママとパパも目を覚ますと、僕は昨日の話の詳細を訊ねました。ずっと気になっていたので朝ごはんの前に話してもらうことにしたのです。
それでわかったことは、僕のパパの旧姓が『如月』だったということです。つまりパパは、『如月優輝』という名前から、結婚するときにママの苗字へと変わったのです。名前を変えた理由は、単にパパがママの苗字に憧れていて自分もなりたい、と思ったからのようです。お婿さんになっていたパパは、ダイニングチェアをゆっくりと引くと、テーブルを挟んで王子様と向き合うような形で座りました。そしてパパは、テーブルの上で手の指を組んで、落ち着いた声である話を僕に聞かせてくれました。
何年か前のことです。僕のママはとある国の王子様とお付き合いをしていました。二人は幼馴染みで、いずれ結婚しようと約束をしていた仲でした。王子様は僕のママのことが大好きで、僕のママも王子様のことを慕っていたのです。
けれど、運命の日は突然訪れます。
通り雨が降ったある日のことでした。とある国に一人の若い男性が迷い込んでいました。それが後の僕の『パパ』だったのです。
パパは小学生の僕にも馬鹿にされるほどの方向音痴の人でした。どれくらい方向音痴かというと、パパが高校生の頃、授業の休憩時間にトイレへ行ったはいいものの、教室への行き方がわからなくなり、先生に見つかるまで右往左往していたことが毎日あったくらいだそうです。だからパパが大人になって外国へ一人旅に出かけたときも、やはりというべきなのか迷子になっていました。その迷子になった場所が『王子様』と『ママ』がいる国だったのです。
そうして運命のイタズラははじまったのです。
「あ、あの~ちょっとお尋ねしたいのですが……」
知らない国で迷子になっていた何年か前のパパは、近くにいた人に道を尋ねようと声をかけていました。その声をかけた相手が、パパと結婚する前の『ママ』だったのです。これが二人の最初の出会いでした。
ママはその日が結婚式でした。幼馴染みの王子様とついに永遠の誓いを立てる日で、綺麗な誰も見たことがないような珍しいウェディングドレスを着て式を待っていたのです。
結婚式直前だったママは少し緊張していたようです。ちょっと外の空気でも吸って気持ちを落ち着かせようと、一人でお城の庭の方へ出ていきました。そこはひとけがなく綺麗なお花がたくさん咲いています。色も形も全て違うお花たちは、お姫様のウェディングドレスを見て祝福するように微風に揺られていました。けれど、空は重く今にも雨が降ってきそうでした。
ウェディングドレスを着たママを一目見たパパは、時間が止まったのではと錯覚しました。それはまるで雷が落ちてきたかのように一瞬のことでした。パパは、ママの姿を目にして思いがけず恋に落ちてしまったのです。
「ということは今日、結婚するのかい? それは、おめでとう……」
パパは道を尋ねるために話しかけていたことも忘れて、気づけばママと雑談していました。ママも、もうすぐ結婚式がはじまるためお城の中へ戻らなくてはならないのに、パパとの会話を楽しんでいました。ママの出身国は『人見知りの国』ですが、なぜか初対面のパパを嫌がることもなくお話していました。パパには人の心を落ち着かせる不思議なオーラがあったようです。けれど二人の楽しい時間は迫っていました。もうすぐママはこの国の王子様と結婚するのです。
パパは、静かな声で結婚を祝福する言葉を贈ります。けれど、どこか寂しそうな表情をしていました。
「ありがとう……」
ママは優しく微笑んでそう答えます。でもすぐに、なぜかパパと似たような表情になりました。これからめでたく結婚するというのに何かが心に引っかかったようでした。そしてママはついに、目の前にいる男性を見てその何かに気づいてしまうのです。
ママはそっと両手を自分の胸の方へと持っていき、鼓動の速さを感じとりました。今までに感じたことのないほどママの心臓は高鳴っていたのです。このまま目の前にいる男性と会えなくなってしまうと考えたら胸に小さな痛みが走ったようでした。
それが、ママの運命の相手が『王子様』ではなく、『パパ』だと気づいてしまった瞬間だったのです。
けれど、ママはすぐに自分の考えを振り払います。なぜなら自分は婚約中の身だからです。たった一つの愛をこれから誓おうとしているのに、王子様のことを裏切るようなことはできません。ママはタイミングを見計らってパパの目から顔を背けていました。これできっと、二人はもう二度と会うことはないのでしょう。ママは王子様と結婚して永遠の幸せを手に入れ、パパもたぶんいつかどこかで運命の人と出逢って結ばれるという別々の物語が用意されているはずです。
ママはパパに別れを告げて、そそくさとお城の中へ戻ろうとしました。パパも、名残惜しそうにママに背を向けて自分の国へ帰ろうと歩き出します。自国がどの方角にあるのかもわかっていないというのに。
すると、パパの足が突然止まりました。何かを覚悟したように目をつぶって深呼吸をしています。そして振り返ると、ウェディングドレスを着たママを大声で呼び止めていました。
「やっぱり僕、君とこれっきりなんて嫌だ! ずっとずっと一緒にいたい!」
パパは初対面にもかかわらず、ママに告白をしていました。
突然のことで、ママは足を止めて驚いています。パパは、目を丸くしているママのそばまで駆け寄ると手をとりました。ママの手は小さく細くて微かに震えていました。その手を大切に握りしめたまま、パパは大胆にもある提案をしました。このまま二人でこの国を出て、どこか誰も追ってこないような場所で一緒に暮らさないかと伝えたのです。
「今日が初対面だということはわかっているけど……恋を育むのに時間なんて必要あるのかな? 僕は今、運命の人に出逢ってしまったんだ。君と結婚したい」
パパの突然のプロポーズに、ママは動揺しました。もしかしたらパパはなんとなくママの本当の気持ちに気づいていたのかもしれません。
ママの目は泳いでいました。そして今、自分に相応しい言葉がどれなのかを探しています。探しながら、この国の王子様の顔が思い浮かんでいました。子どもの頃からずっと一緒だった王子様の人懐っこい笑顔が、鮮明に浮かび上がってくるのです。でもそれと同時に、目の前にいる男性の真剣な面持ちが深く印象に残りました。ママは、その力強い目に自分の胸がときめいていることに気がつきます。
結局、ママは残酷な決断をしました。長年深く愛してくれた王子様よりも、瞬時に芽生えた自分の気持ちを優先したのです。
ひどいことだとはわかっていたようです。けれど、このまま自分の気持ちを偽りながら王子様と一緒に結婚生活を送ることはある意味もっとひどいことかもしれないと思いました。それは自分の都合のいい理由づけかもしれませんが、ママの決断はもうこのとき揺るぎないものに変わっていました。
そうして、『パパ』と『ママ』の新しいもう一つの物語がスタートしたのです。
王子様がいるこの国からいなくなる前に、パパとママは一枚の書置きを残すことに決めました。何も言わず黙ってこの国から消えるのは、事故や事件に遭ったのではないかと王子様たちに誤解を与え心配させてしまうと思ったからです。
そのとき、ポタポタと空から雨が落ちてきました。雨粒は次第に増えていきそうです。
パパは持っていた紙とペンで急いで真実をありのままに書こうとしました。しかし、パパは方向音痴だけでなく文章をつくるのがとにかく下手な人でした。どう書けば王子様にこのことをうまく伝えられるのかわからなかったのです。雨が降る中で慌てて書いたので、紙が濡れてしまいます。そしてできあがった文章は、『二人が駆け落ちする』という主旨のものではなく、なぜだか『お姫様を無理やりどこかの悪党が連れ去った』ような雰囲気のものになっていました。
「……何だか脅迫状みたいな手紙になってしまったかな」
「え? 何か言った? 書けた?」
「え? あ、うん。うん? 書けた……かな」
「なら早く行きましょ。王子様たちに見つかってしまう前に」
二人は急いでいたので、パパはその手紙を書き直すことはしませんでした。書いた手紙を、ママは一度お城の中に戻って、誰にも見つからないうちにそっと置いてきました。
そうして、パパとママは遠い遠い国へと姿を消したのです。
二人はとある国で小さな部屋を借り、共同生活をはじめました。ママはお姫様という肩書を捨て、それまでの豪華な衣装は着ず質素な生活に溶け込む努力をしました。パパも贅沢は言わず、自分の夢だった海外でお店を開くという道も諦め、安定した職業を選びました。パパには、ママさえいればそれでよかったのです。ふたりは一度に多くのものを失いましたが、たった一つ、手に入れたものがありました。それは永遠の愛です。そしておよそ一年後、ママの身体の中には小さな命が宿りました。つまり、『僕』がこの世界に生まれてきたということです。