part 21
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そして、
そこには古い泉があった。
深い深い峰々がいただく万年雪、それがとけこむ地下水脈が、水の汚れを研ぎ澄まし――
地下から湧き出すその水は、世界のほかのどんな水よりも清いという。その地を人々はパレムの泉と呼んだ。やがて泉の水は、いつの頃からか『命の水』の名で呼ばれるようになる。
心地よい水音をたてて、水はその場所に流れこむ。
高い天窓から降りこむ午後の光。泉の底で光が踊る。
そして今そこに、ひとりの旅人が――
白い布地の旅人服に身を包んだひとりの男。
裸足の足を、泉の水に気持ちよさそうにそのままひたして――
微笑みながら、男が何かをつぶやいた。
そのつぶやきは、そこに響く水音にまじり、命の水に溶けこんで――
そして、
その館は「白の石の舘」と呼ばれている。
羊飼いの丘のふもと、滔々と流れる大河のほとりにそびえるその館。
石組みの壁が春の午後の陽ざしにくっきりと白く輝き、
あたたかな南風が、なめらかな河面にやわらかな波紋を投げかて――
そしてそこに住まうのは、ひとりの貴人。「緑の姫君」の名で呼ばれるその少女。
彼女がもとはどこの生まれで、いつからそこに住むようになったのか――
土地の古老の誰ひとりとして、そのことを知る者はいない。
けれども姫はいつ誰が見ても美しく、いつの日にも可憐で、無垢で、誰にでも優しく――
その姫は深い慈愛に満ち満ちて、土地のすべての者から愛されて――
そして今ひとりの旅人が――
白い布地の旅人服に身を包んだひとりの男。
街道をゆく馬車の席から、河むこうのその館を遠目にながめ――
旅人は静かに、ひとりで笑って――
そしてまた――
「ヨルドさま、」
「何?」
「見ましたか、今のを?」
ひとつのビルの上層で、黒衣の二人が会話をかわす。
季節にそぐわぬ黒のローブ、
そのひたいには、奇妙な文字のペイントが――
「いまたしかに、手を振りました。ほらまた――」
「どこ? いったい何の話?」
興味なさそうにひとりが答えた。ビルの屋上の隅にふわりと座り、足を下に投げ出して。
天をつくようなビルの列。数多くの窓、日の光を映して輝くセラミックタイル。
そしてビルの谷間には、大きな街路樹の列が、まるで緑の河のように――
「この小世界のニンゲンからは、光学偽装したわたくしたちを目視するのは物理的に不可能。それはもうわかりきった事実でしょう?」
「しかし―― たしかにこちらを見ていました。女性です。まだ少女と言っても良いくらいの年齢で――」
「ダグ、いいからあなたも座ったら?」
「しかし――」
「ほら、いいから座って。」
「――はい」
ひとりがしぶしぶ、そこに座った。
吹き上げてくる都会の風が、ローブの裾をぱたぱた揺らす。
白い鳥の群れが、パタパタと羽音をたててビルの森のかなたに飛んでいく。
「でもここは、たしかになかなか興味深い世界ね。」
「はい。興味深い、の内容にもよりますが――」
「わたくし決めました。休暇は二光時単位、延長します。」
「延長ですか? しかしそれでは――」
「もう決めました。あなたも少し、戦い以外のことをいろいろ経験する方がよいです。」
「はい―― それは――」
「ふむ―― ここはだけど、前に見たときよりもずいぶん綺麗に整っていますね。」
「ヨルド様?」
「それに、前にはここには、こんなに緑もありませんでした。」
「あの―― 一体それは、いつのお話を?」
「あ、いいえ。今のは冗談。ひとりごと。さて、このあとどこに移動しましょう?」
そして春風がもういちど吹いたとき、
そこには誰の姿もなく――
無人のビルの屋上を、無心に風が吹きわたり――
そして――
「おい、カナカナ、」
「ん? なに?」
「さっきなんで手を振ってたんだ?」
「え?」
通りの先で足を止め――
少女がこちらをふりかえる。何か少しおどろいた様子で。
「おまえさっきなんか、手、振ってただろ。どっか遠くにむかって。あれ、何だったんだ?」
「え~、そんなの振ってたっけ? 見まちがいじゃない?」
「おい、ごまかすなよ。ちゃんと見てたぜ。」
「ん~、そうか~、見られてたか~。」
少女がしばし沈黙する。なにかをちょっと決めかねるように。
「ま、でも、とりあえずまだ今は―― 秘密。だね。」
「おいこら! 笑ってごまかすなよ!! あ、こら、逃げるな!!」
「はは!! おそいぞアルウル君!!」
「おいこら!! それ! 信号!! あぶないってば!!」
「も~、さっさと来なさいってばよ~ あんたってば基本がトロいのよ~」
少女がどんどんかけていく。それを少年が追いかける。
どこまでもどこまでも追いかける。そして――
「お待たせ~。」
「おお! なになに? ひょっとしてあなたがカトルレナ??」
「ま、そうです。ふふ、ちょっとガッカリした? ゲームほど美人じゃなかったりして。」
「え、そんなことないない。十分しっかり美人さんだよ~!!」
踊るような足取りで、少女が女性のまわりを回った。それからしっかり手を取った。その手を握ったまま、しばらくじっと放さずに――
「ま、でもそれ、ビジュアルの話で言っちゃうと、こっちのアルウルなんて、ゲームとのギャップがもうこれはね~。」
「おい! おまえ、自分をさしおいてそれかよ!!」
「え、ってことはやっぱりこっちがアルウル? あはっ。ほんとにけっこうちっさいんだ。」
女性がおかしそうに笑った。サラサラした長い髪が、春風の中で揺れている。
「え、けどけどカトルレナ、」
「ん?」
「そっちって誰? そっちのちっさな――」
少女がそちらを指さした。
女性の足もと、半分うしろに隠れるようにして――
「あ、ごめんごめん。紹介おくれちゃったね。これ、いちおうわたしの娘。オフ会行くって言ったら、わたしも行くっていってきかなくてさ。ごめん、迷惑だった?」
「え~、迷惑とか、そんなことないよ~!! で、なになに?! 名前とかある? 何歳何歳?」
「――おい。アホかおまえ。名前ない子どもとかいないだろ? もうちょっと常識あるコメントしろよ。」
「うっさいわね~!! 子どもの前でそんな悪い口のききかたしないでよ!! あ、ほら、すごくこわがっちゃってるし!!」
「なんだよそれ? 口悪いのはお前だろ??」
「あ~、もう、ふたりともケンカしないでよ~。ふふ、それじゃまるで、ゲームの中そのままじゃない――」
「じゃ、もうさ、いこいこ、カフェカフェ!!」
そして少女は走りだす。若葉のかおる坂道を。
ちょっと先までひとりで走り、足をとめ、くるりとこっちにむきなおる。
「ね、みんな何してんの? はやく行こうよ~!! この日のためにあたしのとっておきの店をキープしといたんだ。ぜったいカトルレナも気にいると思う。すごいよ!!」
「ったく、おまえそれ、まるで自分の店みたいなこと言ってるな―― って、おい!! こら!! ちょっと待てってばよ!! 自己紹介くらいもうちょっと――」
「ま、いいじゃない。行こうよとにかく。わたしもすごく楽しみだ。」
女性が微笑む。笑顔で髪をかきあげ、それをうしろに流す。けれどもまたすぐ風がきて、またその髪を左右に散らせて―― 花の香をたっぷり含んだ南風が――
そして、
彼らは都会の人波の中、
かろやかな足どりで駆けてゆく。
ひとりの少女を先頭に――
木漏れ日の踊る午後の街、
木々の緑はどこまでも途切れずに、風はあくまで甘く、
午後の光はどこまでも、どこまでも澄んで。
どこまでも――
(『アッフルガルド』 完)




