part 16
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ヨルドさま、
ねえ、ヨルドさま。
きこえていますか。
まだ、わたくしの声が、きこえていますか。届いていますか――
ヨルドさまは、おぼえてらっしゃいますか?
あの日―― あのときのこと――
わたくしとあなた様が、最初に出会ったあの遠い地を――
わたくしが生まれ育った、あの美しかったわが故郷――
しかし、あの日のあの地には――
血の臭い。
血。どこもかしこも血であふれていました。
わたくしの髪も。わたくしの顔も。
すべては血の海の中で。
わたしが愛したすべての人々は、
あの日あのとき、血の中に消えました。
世界は、いつまでも続くと考えていました。
ひとりのニンゲンは、たしかに死ぬかもしれません。
おわりの時間がきたら、わたくしたちはこの世界に別れを告げるでしょう。
そしてあたたかな神の御許へ還ってゆく。
けれどそれでも、世界そのものは存続し――
いくつもの世代をこえて、いつまでもどこまでも受け継がれてゆく。
世界はけして終わらない。世界はけして終わらない。
それが、わたくしの見ていた世界。
それが、わたくしの信じていた世界でした――
けれども、じっさい世界が終わったあの日。
あの日わたくしは、世界には終わりがあることを知りました。
世界は終わる。すべては消える。消えてしまう。
それで終わり。そのあとには、何もない。もう本当に何もない。
あるのは虚無。はてしない虚無。
世界の最後に、わたくしの信じた神は、ついにさいごまで訪れず――
かわりにそこに降りたったのは――
神でも天使でもなく―― 天使ではなく――
そこに唐突にあらわれたのは、少女の形をとったひとりの――
「申し訳ありません。この世界も、もうここまでですね。」
ふいに降りてきたその不思議な少女は、とても悲しい顔でそう言いました。
「天使たちは、あらゆる大陸のあらゆる街をすでに破壊しました。その多くは虚無にのまれ―― ほんのわずかでも生存反応のある都市や村落は―― 世界のすべての地域で、あとわずかに十四―― それが今この世界に残った、本当に数少ない、最後のかけらです」
「…あ、あなたは誰ですか? 天使様ですか?」
「いいえ。断じて違います!!」
「え?」
「天使は―― というか、天使こそが―― 今まさに、いまこの、あなた方の世界を滅ぼす元凶。あの恐ろしい攻撃者たちです。わたくしは悪魔。デオルザルドから来たヨルドと申します。」
「…悪魔―― 悪魔がいったい、ここで何を?」
「おそらく信じては頂けないでしょう。しかしあえて事実を申し上げますと―― ここを護るためです。あなたの時空を守護するため、わたくし含めた十二の悪魔が共同戦線を張り――」
悪魔を名のるその少女はそこで言葉を止め、そのあと苦しそうに、急に顔をゆがめました。
「しかし、その多くはすでに敗れ去りました。防戦は失敗です。すでに十名が、天使との攻防の中で消え去りました。ここもまもなく終わります。ですので、わたくしはひとりでも多くの人命を救出すべく―― 残りのすべてのリソースを注いで、まだ残ったここでの救命のために――」
そこではじめて少女は―― 悪魔は―― 彼女のまわりの空間にようやく目を向けました。
少女の顔が、また一段と悲しみにゆがむみました。
彼女は見た。聖堂の床一面をうずめる多くの死体を。赤黒い血の海。むせかえるような死臭。
大聖堂に救いを求めて集まった人々は―― その数は数千――
わたくし以外の誰ひとりとして、救われなかったのです。
あの恐ろしい襲撃者が、ひと瞬きする間に、すべてを終わらせました。
すべてが死せる肉に変わるまで、ほんの一刻もかかりませんでした。
神への救い、天使の救済を求め、ひたすらにひたむきに地に伏せ、祈りをささげた人々――
女もいました。男もいました。その多くは、まだ大人とも言えぬ若い者ばかり――
小さな子供もいました。赤子もいました。身ごもった若い母親も大勢いました。
しかし救いは、こなかったのです。
最後の最後の最後の最後の最後の最後――
いちばん最後のそのときまで――
わたくしは神を見ませんでした。
彼はここには来ませんでした。
わたくしが見たのは破壊。血と、殺戮。それがわたくしの見た最後の景色で――
大聖堂の窓は破れ、壁は崩れ、そこから夕陽が、見えていました。
世界の最後の、夕陽でした。
その赤は血と同じ色―― むしろ血よりも赤々と、
破壊のあと、数百をこえる死肉の山の上を染め上げて――
「生存者はあなたひとり―― ですか。」
悪魔が、つらそうにうめきました。
「ごめんなさい。もう少し、はやくに来られるとよかったのですが。」
「…あなたは、悪魔とおっしゃいましたね?」
わたくしはようやく、声を出しました。
わたくしの中の何かが、言葉をいま、欲していました。
話している意味は、自分でもわかりません。
しかし、それは、言わなければならない言葉。
話されなければならない言葉。
誰かがそれを言わなければならない。
ここに残った、誰かひとりでも――
ぜったいにそれを――
だからわたくしは、あえて言葉を――
しぼりだすように、そこに言葉をつづけたのです。
「悪魔か天使か、死神なのか。あなたが何でもかまいません。わたくしは今ここで、あなたに問いたい。いったい神は、どこにおられるのですか? あれほどまでに真摯に命をけずって祈りをささげたすべての無垢なる小さき者を見殺しにして―― あのような目にあわせておいて―― われわれの神は、いったいどこにおられるのですか? その方はいま、どこにおられるのですか?」
「神は、あなたの中にいます。」
悪魔が、さびしそうに笑いました。
「そしてわたくしの中にも。あるいは逆に、宇宙のすべてが、神の中に包含されている。と言いかえてもかまいません。ですから神のことを、あまり悪く言わないでください。彼は彼なりに、世界のことを考えていらっしゃる。ただ、あの方はあまりにも大きすぎて、わたくしたち小さき者の基準では測れない、遠大なるお考えをお持ちなのです。」
「遠大なる? 救いを乞い求める子羊をすべて無情に見殺しにして、その主は、いったい何をしようと言うのですか。このような殺戮をいまここで許しておいて、では、いったいそれはいずこの、誰のための神なのですか?」
「神を責めてはなりません。」
悪魔がわたくしをたしなめました。とても優しいが、しっかりとした声で。
「神はあなたを愛しています。そのことは保証します。わたくし悪魔の名誉にかけて。でもあなた、今はここで、神について議論をする時間はありません。さ、急ぎましょう。もうここを出るときです。せめて、あなただけでも――」
「わたくしはもう、どこに行くつもりもありません…」
わたくしは言いました。すべてが物憂く感じました。すべてがもう、終わりに近づいていました。血にまみれたこの地上では、もう、すべてが終わろうとしていました。
「神の見捨てたこの世界で―― この滅びゆく世界で、わたくしにはもう、何も、何をする気力もありません。わたくしはここで――」
「でも、まだ先がありますよ、あなたには。」
悪魔がおりてきて、わたくしの肩にふれました。
その手は思いのほか小さくて、そして思いのほか、やわらかでした。
「さあ、わたくしとともに来なさい。そして共に、見届けましょう。」
「見届ける? いったい何を?」
「多くの世界を。滅びゆくここ以外の、まだ今もある多くの美しい時空の数々を。そしてできるなら――」
悪魔はぐるりと見まわしました。
世界最後の太陽は、荒廃した大地のかなたに沈もうとしています。
その最後のひかりが、悪魔の横顔を照らしました。
その顔は、悲しいまでに、きれいだと。わたくしの目には、そのように映りました。
「ともに、戦いましょう。ともに、護りましょう。終わらなくてもよい世界が、終わらなくてすむように。このような野蛮な殺戮が、もう他の地ではけして、繰りかえし起こることのないように。戦いはまだ、道のなかばです。冷酷な天使たちとの戦いは、このあと何光年時も、ずっとはるか先まで続いてゆきます。さあ、」
悪魔が左手を差し出しました。
そう、ヨルドさま――
あれこそが、あれこそが、わたくしとあなた様との――
わたくしはためらい、そしてまだ、ためらったあと――
その、差し出されたあなたの左手を、わたくしは小さく、そっと握りました。
わたくしは握りました。そして光がわたくしを包み――
そしてそれこそが――
それこそが、そのあと何億光時もひたすらにつづいてゆく、
長い長い、世界を護るための戦いの始まりでした。
わたくしは戦い、戦い――
幾多の時空で、戦闘を重ね――
とても長い戦いでした。とても苦しい戦いでした。
わたくしは、わたくしは――
ねえ、ヨルドさま。
ヨルドさま。
きこえていますか。
まだ、わたくしの声が、きこえていますか。届いていますか。
さいごにひとつ、ひとつだけ――
わたくしはひとつ、知りたいのです。
わたくしは世界を、護れたのでしょうか。
護れたのでしょうか。
わたくしは、ひたすらに失われてゆく、この幾多の破壊と失意の中で――
さいごに、たったひとつでも、この小さな場所を――
この、あたたかな、美しい場所を、
わたくしはこの手で、最後にひとつだけでも――
護れたのでしょうか。
護れたのでしょうか。
ヨルドさま、
わたくしは、さいごに、それだけが気がかりです。
わたくしの声は、まだ、届いていますか。
届いていますか。
わたくしは、たしかに、護れたのでしょうか。
護れたのでしょうか。最後に、そこを、
その場所を、ああ、ヨルドさま――
わたくしは―― わた―― くし―― は―― まも――




