積み上がり、溜まっていく、私の人生。
私はその音が聞こえたとき、自室で積まれた本の中から適当に手に取って、黙々と読んでいた。積みあがった本の殆どはまだ未読で、暇だったから読もうと思ったのだ。
その不審な音ははっきりとは耳に届かなった。私は顔を上げ、窓の外を見た。正直、何処から聞こえてきたか分からなかった。だから取り敢えず、窓の外の異変を探した。
黒い影に染まる街並みに異変は見られない。窓にうつる自分の顔と目が合った。赤ぶちの眼鏡をかけた不細工な女の顔がそこにうつっている。肌は荒れ、唇が分厚い。
私は自分の顔が嫌いだ。
そんな現実から逃避するためにも、私はまた物語の世界へ目を向ける。
深い溜息を吐き、本を閉じた。
半端に現実に戻ったせいか、明日の憂鬱が頭を横切ったからである。明日もあの会社に戻らなければいけない。部屋の隅っこに追い遣られ、社員からの罵詈雑言を浴びせられる日々に耐えなければいけない。本をまた元の位置に戻した。
こうやって本は溜まっていく。この狭いマンションの一室にどんどんと溜まっていく。
また、音が聞こえた。それは動物の鳴き声のようだった。
か細く、今にも死にそうな声だ。
犬の声に聞こえたので、腰を上げる。自室から出ると、思ったより外は寒かった。玄関へと続く長い廊下の電気をつける。
天井についた電気が最初は点滅して、最後には安定するように廊下を照らす。
玄関に設置された犬のゲージの前に男が居た。
私はきゃあ、と叫び、尻餅をつく。黒いレインコートを来た男はこちらを見た。サングラスをかけ、マスクをしているので顔は見えない。男は玄関に座っており、ゲージの中に手を入れていた。ゲージの中で犬が横たわっている。
「タロウ!」
私が名を叫べば、いつもなら尻尾を振りながら反応してくれる。だが、タロウは微動だにしなかった。それは生き物の死を悟らせた。
男はゆっくりと手をゲージから抜くと、手に持つ針を私に見せつけるように光に照らした。細い針は真っ赤な液体に塗れている。
それでタロウを殺したのか。そう強気にでる頭とは反対に、私の体はわなわなと震え、思い通りに動かない。床についた手の内側が異常なまでに冷たくなった。
「だ、だれ」
そう言うのが精一杯だ。喉元が干乾びて、微量な涎の暖かさが舌先に感じられた。
「誰なんてことは無意味な事実でしかない。私は君の知らぬ者だよ。私も君のことを知らない」
男は立ち上がり、腕を天井に向かって伸ばした。
「君の犬は番犬にはなれないね。私を見ても、怯えた目をするだけで、何もしてこなかったよ。こうゲージの中に手を入れても、噛もうともしなかった。今の君のようにね」
「な、なんなの」
私の声は震えている。食道に胃液が込み上げ、気持ち悪さを孕んだ温かさが感じられた。
男が土足で踏み込んでくる。電話はリビングにあり、携帯は机の上に置いてきてしまった。周りに伝達手段はない。何より、体が動かなかった。
「何なのって――それを私に尋ねるか」
男は上がりこんだそこから動かず、玄関を隠すようにして佇んでいる。
大声を出せば、誰か駆けつけてくれるだろう。だけど、私の喉はそうさせてくれなかった。
「私はそれなりの自分なりの理由があって、ここに居るんだ。それが君にとって利益だろうが、不利益だろうが、何にしろ私なりの理由がある」
言っている意味が分からない。
狂っている――そう思った。この男は狂っているのだ。
男が歩き出す。一歩、また一歩男が歩み寄ってくる。
「君の犬の肉球に針を通し、犬は小さく喚いた。それから、雄の大事なところに針を入れて、これまた犬は小さく喚いた。それから――どうしたんだっけな」
「だ、黙って。黙ってよ。こないでぇ」
私の声は余りにも小さい。手を前に突き出し、男を突っ撥ねるような姿勢を作った。だけど、その手は男に届かない。伸びた手に焦点が合って、その他の風景はぼやける。
汚い手。醜い手。
お前が居るだけで職場が穢れるんだよ。
お前は要領の悪い愚図だな。なんだ、その目は。私の妻が使ったナプキンでも使うか?
ひぃん、だってよ。こいつ馬みたいな鳴き声出しながら、倒れたぞ。
ブスはブスらしく、そうやって床に這いつくばっていればいいのよ。
「来ないでって――ひどいなぁ」
なんで、なんで私だけ。私じゃなくて、あいつ等のところに行けばいいじゃない。私がなにをしたって言うの。
目元が焼かれたように熱くなった。
口はだらしなく開いて、喉元からうげえと蛙のような声が出た。溜まった涎が口元に垂れる。
『タロウ、ただいま』
私の声が聞こえた。もう遠くなった過去の声。
タロウは毛のもふもふとした柴犬だった。一人暮らしが心寂しく、それを見兼ねた母が態々ここまで来て、買ってくれたのである。
タロウが来てから、この家が唯一の憩いの場だった。疲れ切った私の心身を『タロウの居るこの場所』が癒してくれた。
男の膝越しに、横たわったタロウを見る。
腹に鈍器が打ち込まれたような、激痛を感じた。男の脚が私の腹に食い込み、床に仰向けに倒される。後頭部が床に打ち付けられて、鈍い音をたてた。
「た、助け――」
私の広げた足の間に男は立って、皮の靴で腹を踏んだ。臍が凹む感覚――歪む。痛みまでも歪んで、私の腸が唸りを上げる。とうとう私は吐瀉した。夜食に食べたおにぎりがばらばらの米粒になって胃液と共に吐き出された。天に向かって唾を吐く――なんて言葉を私は思い出していた。口から飛び出した吐瀉物は顔に盛大にかかった。
顎に米粒が張り付き、そこから首回りに垂れて、服に染み込んでいく。
「いびゃい」
口の中で吐瀉物と言葉が混ざって、自分でもなんて言ったか分からない。
男はそんな私の顔を愉しむように、靴をぐりぐりと腹に捻じ込む。腹が削られるようだ。
「あがああぁぁああ」
「私は捕まっても構わない。君を殺す気もない。もう全てを失った」
そんなこと、知ったことではない。
私は自分の眼球に涙が滲んでいることに気づく。白い天井とそれを照らす淡い光が全て、ぼやけた。
「殺して」
男は多分、吃驚した顔をしている。その証拠に腹から靴が離れ、ただ痺れるような痛みだけが残っている。
「わたしを殺して」
こんな醜いわたしを。
もう。
「それも一つの解放の手段かもしれないな。君も人生が厭になったか。分かるさ。私だって、その気持ち」
私は何だかこの男が天使のように思えた。
「だが、殺さない。君も生きるんだ。生きて、生きて、生き抜くんだ。なあ」
男はまたあの針を取り出すと、私に馬乗りになった。痛んだ腹にわざとらしく体重を乗せて、男は針をこちらに近づけてくる。
厭だ。
その細い針が私のぼやけた視界に近づいてくる。尖った先端が、私の眼球に映っては、ぼやけた。
厭だ。
ぷすっと間抜けな音がした。左目に激痛が走り、目を閉じることすら叶わない。尖ったものが軟らかい眼球の表面を抜けて、神経が巡る中を突き抜けていく。
私は叫んだ。
喉が涸れて、破けそうになっても、私は叫んだ。
赤い血が左目に滲んでいく。血は涙を退け、視界は黒と赤に包まれた。
私は恐らく助かる。そして、また普段の生活を取り戻す。
私はまだ生きなければいけない。