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隠れ場所を作るのが上手い人だったな、と思い出す。くたくたのソファ、向かいで寝そべる男、漂うタバコの煙とイチゴの匂い。こんな風に哀愁浸るなら、これは夢と呼ぶには不完全だ。
懐かしいな、と目を伏せた。自分の手が少し小さく頼りなくて、臺はさらに微笑む。会話はない。薄暗い部屋にほんのりともる裸電球。オレンジ色のその光に、ここがどこだか臺には気付けた。
第零部隊の執務室のすぐわきにある物置部屋だ。一体いつ改装したのかは知らないが、彼がせっせとソファを運び、机を運び、自分好みに作り直したらしい。全く、余計な労力だけは惜しまぬ人だ。
何かを話してほしい。けれども彼は黙ったままで、それが余計に切なさを呼びこむ。臺自身、呼びかけたいと思うのにそれが叶わないのは、これが夢だからだ。きっと昔のように話して笑い合ってしまえば、起きたとき、苦しさに息も出来なくなる。
ただ、傍にいるだけ。ただ、同じ空間にいるだけ。それだけで、穏やかな気持ちになれる。いつからかずっと付き纏っている恐怖が、すっとその身を引く。
高瀬さん。
胸の中だけでそう呼びかけた。高瀬はどこか、遠くを見つめている。テーブルを挟んで向かい側、距離にして一メートルと少しほど。なのに、とてつもなく遠くにいるような気がして。
ゆらり、と電球の光が振れる。影が微かに蠢いて、高瀬が臺を振り返った。短すぎる前髪。また自分で切って失敗したのか。そんな軽口が浮かぶのに、声が喉に張り付いて何も言えない。瞳が真っ直ぐ臺を捉えて、緩やかに微笑んだ。優しい眼に胸が苦しくなる。
どうして、この人はもういないんだろう。
「俺さ、エレベーター作りたかったんだ」
知っている、と頷いた。高瀬は何かとつけてその話をした。エレベーターって紀元前からあるんだぜ、すごいだろ? そう言ってはしゃいで、よくビルのエレベーターに悪戯をしていた。そうして決まって、七緒に叱られる。子どものような人だった。
あなたの所為で何度怒られたことか。思い出して、呆れる。高瀬はなおざりに謝り、次いで臺の所為にして、最後は開き直っていたものだ。付き合う七緒も最終的に呆れかえり、仕様がない人と笑っていた。懐かしい。あの人がもう、あんな風に笑うこともなくなった。それに気がついて臺はまた、哀しくなる。
「大丈夫だ」
高瀬が不意に囁いた。驚いて彼を見返す。ゆるりと笑った男はその手を胸に当てた。真似をして、臺も手のひらを心臓の上に置く。心拍が伝わる。夢なのにはっきりと、それがわかる。その上の刺青を指先が触れた。顔を上げ、高瀬を見る。彼は莞爾と大きな笑顔を作った。
「な? 大丈夫だろう?」
何が大丈夫なんだ。全く無責任で、腹が立って泣きたくなった。嫌だ、と駄々をこねてやりたい。それじゃダメなんだと、嫌だから、いなくならないでくれと。
けれど、高瀬はやっぱり笑っている。それ以外に何もない。大丈夫だ、と三度目の言葉に臺は深く頷いた。堪えきれずに涙が頬を転がり落ちる。
「俺は、エレベーターを作るぜ!」
自分勝手な言葉を聞いて涙が止まらなくなる。嗚咽を押さえながら、臺はソファの上で膝を抱えた。べそをかいて泣きじゃくる。二つのソファの距離は一メートルと少しだけ。しかし絶対的に触れ合えない距離感に、臺は喉を震わせて泣いた。
体を包み込む浮遊感。大丈夫、と声が聞こえた気がした。夢が覚めてしまう。目を開けるのは怖い。怯える彼に、高瀬はよく言った。
大丈夫だ、怖がったってそれでいい。どうしても恐ろしくなったら俺を呼べ。別に、何もしないけどな。
無責任な人だ! 憤慨して、名前を呼んだ。高瀬さん、高瀬さん、ねぇ。何度もその名前を繰り返す。呼んでも、呼んでも欲しい声は返事をくれない。自分が呼べと言っておいてそれはなんなんだ。腹が立つ。それから無性に寂しくなって、口を噤んだ。
囁き声が聞えた。
ハッと目を覚まして起き上った。体の節々が痛い。見ると床の上で、おかしな態勢をして寝てしまったようだ。頬に妙な感触があって、手を伸ばす。涙の痕にフローリングの溝がくっきりと刻印されている。薄く笑って、目を上げた。DVDのメイン画面に戻ったテレビが、煌々と光を灯している。
朝だ。
鳥のさえずりが聞こえて、人の足音が響く。時計を確認すれば五時だった。いつもの起床時間に体の慣れを知って、臺は立ち上がる。うん、と凝り固まった体を伸ばすと、あちらこちらで音がした。キッチンで水を汲んで、ひと口。
鈍い音が唐突に響いた。グラスが流しを転がる。
流し台にグラスを放りだして臺は走った。誰かに、言わなきゃ消えてしまう。そんな気がして電話に飛びつく。こんな時間に千歳はなんていうだろうか。きっとどうした、と訊いてから臺の言葉を丁寧に聴いてくれる。でも、なんて言えばいいだろう。どうしたら今日の夢はいつまでも残ってくれるだろう。
電話を抱えて、座り込んだ。そんなことは叶わないのだ、と思い知る。
巻き戻せ、と高瀬は囁いてくる。しかしそこに声はもうない。七年前に空気を震わせた音と呼吸はあっさりと朽ちて、今や言葉だけが青々とその身を揺らした。もう、思い出せない。
カーテンの隙間から朝日が部屋に滑り込む。憂鬱の闇をズタズタに切り裂いて、臺の足元にまで届いた。小さなきらめきに釣られて顔を上げる。瞳に映った窓の外が明るくなっていた。頬を新たに雫が滑り落ちる。それが光に瞬いて、プリズムを生み出した。
雑念と余裕に背中を押されて、深夜のランニングに出かける。耳にイヤホンを詰め込んで、臺は近所の公園のコースに向かった。有名なランニングスポットだが、日付が変わるギリギリともなれば人の姿はない。
微かな街灯の灯りで時計を確認して、準備運動を始める。関節や筋肉を解きほぐし、自分の中で燻る靄を追い払った。軽く飛び跳ねて、月に手を伸ばす。
二時間ののんびりコースだ。自分の中でそう呟いて、臺は走り出そうと道を見据えた。向こう側に誰かの気配がある。変質者か酔っぱらいか。二択で絞り込んで、結局どちらの選択肢も捨てた。違う、この明らかに場馴れした緊張感と殺意は彼ら特有の物だ。軽く体から力を抜いて、構えを変えた。肉弾戦を覚悟した臺の方に、男が駆けてくる。
高い蹴りを腕で防いで距離を取る。軽い体を素早く動かして、カウンターを狙った。難なく交わされる動きに、相手が相当の戦い慣れている者だと知る。間髪入れずに打ち込まれる反撃を肘でブロックし、ボディに拳を叩き込む。が、それも阻まれた。
男の口の端が上がる。笑っているのだ。くつくつと声を漏らしながら、臺を攻め続ける。冷静にそれを見極めて防御し、臺も淡々と攻撃を仕掛けていく。ふと、このパターンに見覚えがあることに気づいた。前にも、こんな戦い方をしたことがある。
「臺」
名前を呼ばれた。驚いて目を見開いた彼の頬に、思い切り拳が飛んでくる。反応しきれずにそのまま殴られた。硬いランニングコースの土の上に、あっけなく臺は倒れ込んだ。
「え?」
「バカ、驚くなよ、これくらいで」
呆れた声で彼は笑うと手を差し出す。仕掛けてきたのはそちらじゃないか。文句を言い出しかけて、戸惑った。その手を取ると強い力が臺を引き上げてくれる。触れた感触に一体敵が誰だったのか気がついた。
「ショウちゃん……、何してんの」
思わず頼りない声が漏れた。ランニングに出かけて、それを知っていたかのように待ち伏せされ、挙句の果てに殴られた。理不尽だ。憤慨する臺に悪かったと彼が謝ってくる。何か用があるならあるで、もっと穏便な方法を選んでほしかった。
「どうかしたの?」
見上げれば影のかかった横顔。じっと、どこかを睨むような瞳にいつもの優しさは形を潜めている。ショウちゃん。そうっと呼べば彼の目が臺の方に戻ってきた。くしゃくしゃの笑顔が迎えてくれて、思わずホッと息を吐く。
「明日さ、決行だから最後のお誘いに来たんだよ。まさか、殴っちまうとはな」
「普通、そういうのはもっと穏やかにやるもんだよ。楽しく夜のランニングに来たのに、襲われるとは思わなかった」
「悪かったって。で、どうする。全部、お前次第だ」
アホだなぁ、と臺は言ってやりたくなった。どうしたって、彼が祥司の傍につくはずがないというのに。わざわざ決行の日までを彼に明かして、こんな風にやってくるなんて。
臺は黙って首を振った。答えなどとうの昔に知っていただろうに、祥司は残念そうに息を吐く。
「そっか、やっぱりか」
「だって、うん、ショウちゃんがなんで怒っているか、わかんないんだもん」
それは臺が何も知らないから、という理由だけではない。祥司は以前、臺が自分の仲間を殺めた時も、別段怒り出さなかった。あの時、彼はあっさりと笑ったくらいで、激しく臺を憎むこともなかった。しかし今は違う。本気で怒りに駆られて、祥司は軍を確実に襲う。
「どうしてショウちゃんそんなに怒ってるの?」
SRCNSは死ぬことを厭わない。また、誰かが殺されることもある程度は容認している。仕方のない犠牲だった、と彼らは考えるのだ。必要以上に死には囚われない。なぜならそれより大切なものがあるからだ。それはSRCNSが守ろうと試みている、スラム街の子どもたち。彼らが祥司たちにとっての全てだった。
「確かに……、俺たちは死んだ奴なんか興味ない。いい年をして自分を守れなかった奴なんて、放っておいても死んださ。けど、あの話はそれとは違う」
祥司は目を伏せてぼそぼそと臺に語った。珍しいほどの静かさに寄り添う憂鬱。そのおかげで臺にも、祥司が抱える鬱屈を感じられる。
「俺たちはゴミでも駒でもない。人間だ。生きているだけである程度は尊い。間違ってもあんな風に握りつぶしていいわけじゃない。わかんねぇか? わかんねぇよな。でも、俺はあの時、すごくやるせなかったんだ」
七年前、SRCNSの一個隊の兵だった祥司がその知らせを聞いたのは、事故の直後だった。流れ込む状況報告に動揺する本部の男たち。彼らは一様に目を見開き、その死を悼んだ。その時はまだ、皆が仲間の死が尊厳のあるものだと信じて疑わなかった。しかし、軍は全てを覆いの下に隠した。疑問に思ったSRCNSの面々が少しずつ調べて、事実が明らかになり始めた。
軍は邪魔なエデンの隊とついでに、目障りなSRCNSの精鋭隊を一度に爆破で排除した。第零部隊の排除は当時のエデンにとって、事実上の無力化に近い。軍はエデンに力を弱めるために、SRCNSとの交戦中のその時を狙った。SRCNSは実際、エデンと軍の確執に巻き込まれただけだった。
そこにあったのは、大切な戦友たちがまるでゴミ屑のように破棄されていく様だった。
「何か理由があって、個人を見据えて、そしてやりやって殺してくれるなら構わない。それで殺されたのはそいつが弱いからだ。でもあれは違っただろ? 箒で塵を掃き捨てるのとは訳が違うんだ! あいつらの誇りも誓いも決意も、命も、全部あの軍人どもは、見ないで、見向きもしないで、捨て去ったんだ……!」
そのことを祥司は知った時、仲間の志は全て無駄だったと悟った。そしてそれを無為に捻り潰した軍を許さない。それがたとえ、抗うことのできない大きな力だとしても、だ。この身に代えて、彼はその無念を果たさなければならない。
そう、祥司は拳を握りしめて語った。臺の知っていた話とは違う、七年前。あの日、エデンの第零部隊とSRCNSが交戦していた廃工場で、たまたま爆発が起こったのとばかり思っていた。劣化有機溶剤が引き起こした事故。誰も悪くないはずの、偶然。臺はこの七年間、ずっとそう信じつづけて来たのに。
「だから、お前が平然と軍人なんぞ連れているのを見て、死ぬほど驚いたさ。考えられないと思った。けど臺お前、何も知らないんだな。それはそれでいい。だから、俺に協力しろよ」
祥司の言うことが本当ならば、高瀬もまた掃き捨てられた一人になる。今朝見た夢を思い出し、臺は俯いた。しかし彼は大丈夫だと言った。俺はエレベーターを作る、と。そして最後に、巻き戻せと臺に告げたのだ。祥司の言うことを信じないわけではない。ただ、臺が持っているはずの真実とそれは、わずかにずれるような気がした。
祥司の言う交戦中に仕組まれた爆発でも、それが事故でも何か、決定的にありえないことを知っている。
「本当に軍の所為なの?」
思わず尋ねると、祥司は目を見開いて臺を見つめる。俺を疑うのか。そう問い詰めるような視線に、臺は溜まらず俯いた。そんなはずはない。ただ少しだけ、違和感があるのだ。臺の記憶と祥司の発言がなにか決定的に食い違う、そのものが。
「もういい。とにかく俺は明日、動く。陸軍省を襲って陸軍大臣を人質に取る。そしてあの日起こった全てと、軍が画策したことを話させるつもりだ」
「本当にやるんだ」
「あぁ、やらずに死ねるか。先輩たちに申し訳が立たない」
祥司の声は強い。揺るがぬ決心に、臺は頷くしかなかった。今更、彼の心を変える術はない。明日、彼と臺は敵同士になる。
落ち込んでいたのが知れてしまったのか。ポン、と優しく頭を叩かれ、臺は顔を上げた。困ったように、そしてやや寂しそうに祥司が微笑んでいる。一瞬、高瀬を思い出すようなその表情に、臺の心臓がぎりぎりと痛んだ。
「お前、俺の部下だったらよかったのになー」
「なんで?」
「だってさ、なかなか使い勝手が良かったし。それに、臺は司令官タイプじゃないだろう」
ギクリとした。その通りだ。誰かの指令を受けて動くのも、自分で考えて動くのもやりやすい。ただ、誰かに指示を出すのは大の苦手だ。戦闘中、他人のことを考えるだけの余裕も頭脳もない。
笑ってごまかそうとした臺の額を、祥司は弾く。いてっと上がった小さな悲鳴に、彼は悪戯っ子のようににやにやとした。
「でも、何とかやろうとしてんだろ。だったら、仕方ねぇな」
そのまま額を小突かれて、臺も眉を垂らして頬を緩める。頑張るよ、と告げれば祥司はいつもの笑顔のまま頷いた。
何となく離れがたくて、互いに黙ったまま視線を逸らす。俯いた臺の視界には、カラフルなランニングシューズが一足。祥司の足は目に入らなくて、あぁ、寂しいなと目を細めた。
次に会うときは敵同士だ。きっと祥司は今日のように、臺を友達として扱うだろう。しかし二人の手には真剣がある。祥司に殺されたくもないし、祥司を殺したくもない。そもそも臺が明日、彼と対峙するとは限らない。他のエデンの隊員が彼に殺されることもあるだろうし、彼を殺めることもある。それも嫌だな、そんなわがままが彼の中で燻った。
もしも、くだらない、もしものこと。万が一、祥司がSRCNS出なかったとしたら、こんなことはなかったはずなのに。でもそれは違う、と臺は即座に否定した。彼自身がエデンに存在してこそ、価値があるのと同じように、祥司だってSRCNSにいなければ祥司ではない。
このまま互いに何も変わらない状態で、仲良くできる方法があればいいのに。そんな甘ったれたことを考える。
「一時になるな。もう、帰れよ」
臺の心を知ってか知らずか、やや突き放すように祥司は言った。顔を上げて、彼を窺う。今、どんな顔をしているのだろう。視線の合った祥司の眉が、哀しそうに拉げてしまった。
「ショウちゃんと敵同士ってやだなぁって思ってたんだ。でもショウちゃんはやりたいことがあるんでしょ。なら仕様がないよね」
「そうだな」
「うん、じゃあまた暇になったら遊ぼうよ。なんか、そうだなぁ、遊ぼうよ」
「あぁ、いいぜ」
無理やり笑い合って、頷く。
祥司は死ぬ覚悟をしたのかもしれない。本当は今日、臺を誘いに来たわけではなく、ただその覚悟を見せたかっただけなのかもしれない。何度も戦闘に身を投じるその姿を見た。敵としてだけではなく、味方としても。けれども祥司は一度として、死を覚悟したことはなかった。常に、傲慢すぎるほどの勝算をもって戦いに挑んでいた。
死ぬな、と飛びついて言ってしまいたい。けれど、祥司は決着をつけるのだ。その決心を踏み躙るようなことは、臺にはできない。
またね、小さな声で呟く。祥司は笑っただけで何も言わなかった。ゆっくりと彼に背を向けて、歩き出した。走って逃げ帰りたいのに、名残惜しくて歩みが遅くなる。暗いな、なぜだろう。そう思って初めて、自分が俯いていることに臺は気がついた。背筋を凛と伸ばして、顎を上げる。夜空には欠伸をする月が明後日の方を向いていた。
「じゃあな! ちゃんと布団入っていっぱい寝ろよ! またな、臺!」
声が後ろから追いかけてきた。なぜかわからないほど明るい声だ。悲しくなって、それを追い払おうと臺は両手を大きく振る。そして堪らず、駆けだした。
大丈夫、大丈夫だ。祥司ならきっと誰を死なせても彼だけは死なない。きっと生き残って、やるべきことを全うする。そういう人だったはずだ。
無理やり自分に希望を持たせて、顔を上げる。誰でもない、友達の心配をしながら帰り道を走った。だが、またが巡ってきたその時は、互いに命を取り合うのだろう。
臺の中の矛盾がそう叫ぶ。それはそうだ、と彼は返した。おかしくなんかない。祥司は確かに敵でもあるけれど、友人だってあるのだから。
友達を心配して何が悪い。敵に刃を向けて何がおかしい。
全く意味をなさない文句を吐き捨てながら、がむしゃらに家まで走る。夜の街は静かすぎるほどで、彼の泣き出しそうな息遣いを一片も隠さずに、臺の元に届けてきた。赤信号を前に立ち止まる。荒い息のまま、そこにしゃがみ込んだ。膝に額をつけて、強く、目を瞑る。