表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/13

2-2



 第参部隊の執務室は一転して陽気さに満ちていた。先ほど七緒に殺されかけた俊哉を、聊か怖気づかせるほどの賑やかな空気に、戸口で足を止める。瀬良の十倍速でタイピングをするのは美野だろうか。傍らに並んで座る坊と瀬良がそれを眺め、話をしている。


「あの……?」


なぜ増えている? 坊も美野もどうしてここに? そしてなぜ瀬良の仕事を美野が? 疑問が渦巻くままに声をかければ、真っ先に瀬良が振り返った。続いて気だるげに坊がこちらを見やる。


「あっ、俊くんおかえりー!」


先ほどまでのメランコリックも何もかも、吹き飛ばしてしまうような声だ。呆気にとられる俊哉を瀬良は手招きする。ドアを閉めて自分の机に貰った菓子折りとDVDを置いた。座る場所がないことに気づいた瀬良が立ち上がり、俊哉に椅子を明け渡す。坊がすぐに若干場所を作って、自分の椅子を半分、瀬良に譲った。


「千歳、お菓子来たよ」


「何か報告して」


答えながらも美野の手は止まらない。坊と瀬良は楽しげに包装を解き、中を確認する。


「洋菓子詰め合わせ。クッキー、マドレーヌ、それからバームクーヘンにフィナンシェ。ついでにマカロン」


坊が菓子名を告げていくにつれて、瀬良はしょんぼりしていく。対して美野は嬉しそうに声を上げた。


「大半はお前のだな。僕も洋菓子は嫌い」


「わらび餅とか、お煎餅とかの方が良かったなぁ……」


そんな瀬良の手に坊がクッキーを、自分用にマドレーヌを取り、俊哉を振り返る。仕草だけでいるか、と問われ頷けば、バームクーヘンが二つほど投げられた。その他は全て、美野に回される。


「その、お二人はなぜ?」


ようやく俊哉がそう尋ねられたのは、二人が菓子の袋を破った時だった。坊は気ままに菓子に齧りつき、瀬良が察したように声を漏らす。しかし答えたのはまだタイピングを続ける美野だった。


「俺は素晴らしい情報収集能力によって菓子折りが来たことを知って、お菓子を集りに。そうしたら臺が参っていたから、菓子折りと交換条件に仕事を引き受けてる」


「どうしてそれが仕事に生かされないかねぇ」


チクリ、と坊が嫌味を漏らす。それにも構う様子はなく、美野はタイプを続けた。


「そういうことだから、お菓子結構千歳にあげちゃうんだけど、好きだったらごめんね」


「あ、いえ。食べられるか不安だったのでむしろ助かります」


瀬良が洋菓子は好きでないのならば尚更だ。自分も坊が寄越したバームクーヘンの袋を開けつつ、ちらりと彼に目をやった。鬱陶しそうに坊は俊哉の視線を払い、それ、とDVDを指差す。


「それを見に来た。うちだとうるさいし、何より生野が出ているらしいからうっちゃんと話でもしようかと」


すでにDVDはどの部隊にも配布されているらしい。見るか、と手を止めて千歳が面々を窺った。頷く坊と瀬良に、俊哉はDVDを手渡す。美野は手早く何かを操作すると、ディスプレイを大きく動かした。DVDを作動させて、三人で並んで画面を見つめる。


「もう俺は見たから内容は知ってる」


「ショウちゃん出てるって本当なの?」


「さあな。出ている奴は例の面を被っているから。声を聞けば、臺、お前ならわかるんじゃないのか?」


音量を上げ、設定を終えた美野は瀬良の隣に座った。自然と、美野と坊で彼を挟む格好になる。三人の気安い雰囲気に俊哉は彼らが皆、同い年であることに気がついた。そして、エデン養成学校の同期である。中学生のころから一緒に肩を並べていれば、こう親密でも不思議ではない。


 内臓スピーカーからクラシックが流れ出す。薄暗い部屋の中に、装飾の甚だしい椅子が一脚。奇妙な緊張感の漂う中で、場違いなほど穏やかな音楽が奏でられ続ける。


「モーツァルトのレクイエム、しかもラクリモサって言うのは何かの皮肉か?」


瀬良のクッキーをつまみながら、美野が揶揄するように呟いた。瀬良は小さく声を漏らして笑い、美野の肩を小突く。坊ですらゆるりと笑みを浮かべたのに、俊哉は驚いた。


 不意に画面の端から男が現れた。美野が言っていた通り、彼は狐の面を被っている。あの日の日差し、地面の温度、赤ん坊の泣き声。俊哉の頭の中で捲られる記憶のページ。恐怖がぶり返してきた俊哉の隣で、温度のない男が不敵に笑う。


 片手に握ったバットで、男は木の椅子を跡形もなく打ち壊した。金属バットを地面に放る音。高く響くその音だけで、隣に並ぶ面々はその床材を想像した。


 豪奢な椅子の代わりに、面の男は簡素な椅子を運んできた。部屋の中央にドン、と置いて自らが腰かける。


「暗示かな」


「だろうな」


瀬良の呟きに美野が応じた。暗示だとしたら何の。豪華な椅子、そしてそれを壊した男が簡素な椅子に腰を掛ける。今の政府転覆でも、図るつもりだと言うのだろうか。


 真意を求めて、俊哉は男を見る。狐面の男は画面の中でじっとこちらを睨んだままだ。坊の悠然さとはまた違うが、彼は堂々としている。


『最初に言っておく。これはロックバンドのプロモーションビデオではない』


腕を組んだ彼は物々しく宣言した。首を捻る俊哉の隣で、忍びやかな笑いが沸き起こる。瀬良だけが困ったように眉を下げて、肩を竦めていた。


「ショウちゃん、根に持ち過ぎだよ……」


きょとん、としている俊哉に、美野が説明をしてくれた。以前、生野と行動を共にしていた頃、犯行声明を見た瀬良がロックバンドのPVと間違えたのだ。生野に思い切り殴られたと瀬良は嘆く。それ以来、瀬良の発言を気にしてか、SRCNSは常にそう前置きしてから犯行声明を出すのが習わしになったらしい。


「で、誰だった、うっちゃん」


坊が画面を一瞥し、瀬良に尋ねる。俊哉も美野も彼を窺った。うん、と応じた瀬良は画面を見つめて目を細めた。その反応が答えの全てだった。


「ショウちゃんだよ。でもショウちゃん、緊張しないでちゃんと言えるのかなぁ」


面の向こうの顔がわかった途端、瀬良の表情も瞳も随分と柔らになった。心配そうなその発言は杞憂のようで、生野は淡々と唇を動かし、空気を震わせる。


 SRCNSの目的、標的、犯行日時、何をどう使うか。潔くすら思えるほど、彼らは作戦の内容を明かしていく。なぜ、そこまで。そう疑問に思ったのは俊哉だけではない。坊がふん、と鼻を鳴らして、つまらなさそうに足を組んだ。


「これ、陽動作戦だろうね」


「あぁ、そうだろうな。普段とは違って、今回はこれ、一般市民にも広く流された。そこから推測できる狙いは一つ。市民の動揺によって、警察又は軍を動かす、か」


通常、SRCNSは対政府テロ組織であるため、市民と関わりはない。何か事に及ぶときはいつも、政府に直接声明が来る。今回のように、動画サイトに犯行声明が流されることなど考えられなかった。


「前回、僕らが巻き込まれたのもある意味で布石かも知れないね。知っている人がいれば、これもただの悪戯じゃないってわかる」


「確かに。テロなんてテレビドラマか海外の話だと思っている奴らには、それくらいの前置きが必要かもしれない。しかし、その方向転換の理由は?」


「おそらく標的の変更だろう。件の事故で相当SRCNSは軍部に恨みを持っている。今は主に政府の転覆や革命よりも、そちらの方向に動いている。確か、臺もそのようなことを言われたんだったよな?」


美野に確認を取られ、瀬良が頷く。あのとき、瀬良が生野から聞いた話は全て報告書に記載された。無論、俊哉も読み、耳に挟んだ生野の言葉の意味を、そこで理解したのだが。


 軍を討つ、生野はそう宣言をしていた。しかしそれすらも陽動かも知れない。瀬良を引き入れたい、と誘い込んだ彼に嘘はないだろう。生野が瀬良を勧誘するところを、俊哉は報告書ではなく実際に見た。


「その、標的が軍部というのも生野の陽動作戦ではないのでしょうか。エデンを攪乱するための」


口を挟んだ俊哉を、三人はそろって振り返った。坊は片眉を上げ、瀬良を見返る。美野も同じだった。視線に晒された瀬良は気まずそうに目を伏せて、わずかに逡巡する。しかし結局彼は頭を振った。


「それはないよ。ショウちゃんが嘘を吐くなんて思えない」


それは意外な理由だった。俊哉は面食らって口を噤み、目を逸らす。瀬良の、生野に対する感情が見えない。慣れ合っているのか、敵対しているのか。信頼しているのか、それとも違うのか。しかし確実に俊哉よりずっと親しいことは確かだ。美野や坊と同じくらい、生野と話すときの瀬良の表情は柔らかい。


「まぁ、そうだろうね。生野がうっちゃんを欺くなんてことはないだろう」


坊がそう、瀬良に賛同した。と思えば、美野も隣で頷いている。


「なんていうかあいつ、まだ臺のこと相棒だとでも思っているんだろ。その臺に、生野の性格を考えると、嘘の情報を流すなんてありえないな」


「相棒なんて、そんなのさ、僕は……」


戸惑いがちに瀬良が言葉を零す。続きを言わぬ代わりに、彼はそうっと腰に差した二本目の刀を撫ぜた。その人以外に、考えられない。そうとでも言いたいのか。


 俊哉の心はささくれ立った。ここに来る前の七緒との発言。遠い、安寧の場所。そして認められない自分。唇を噛みしめて、目を瞑る。


 きっといつまで経っても瀬良は、俊哉を主戦力とは認めないはずだ。それでもいいとは思う。けれどもそのために何度、俊哉はこの屈辱を味合わなければならない。


 大きな音が急に響いた。思考が全て打ち切られ、ハッと皆で画面を振り返る。生野が自分の座っていた椅子を床に叩きつけていた。呆気なく壊れるそれを捨てて、こちらを睨みつける。面の下にあってもわかるほど、強い意思を孕んだ瞳。


 ショウちゃん、と瀬良が彼を気遣うように呼んだ。どこまでも彼にとって生野は友人なのだ。肩を並べて、冗談を言い合って笑う人。俊哉はそれになろうともしない。だが、瀬良自身、俊哉を友人にしようとは、思ってもいない。


 言いようのない寂しさが、俊哉を苛んだ。ここで愛されることなど真っ平御免だ。だが、どうあがいても自分を愛してくれない環境は、いるだけでその心がギシギシと音を立てる。


 彼の感情がそのまま露呈している。そんな横顔を、坊は視線だけで冷静に観察していた。



 犯行声明の余波は意外なところで現れた。坊たちが予想した通り、一般市民の動揺が大きかった今回は、相当数の軍人又は警察官が宣告された場所に配備された。それも、予定日時の一週間以上前からである。本当にその日に事が起こるとは信じがたいと考えられたためか、市民を安心させるためなのか、俊哉にはわからない。しかしそれが人員の不足に通じたのは確かなことだった。


 信じられない。許しがたい、と声に秘めて、坊が吐き捨てたのを俊哉は苦笑いで応じた。軍と警察の人員不足に継ぎ、SRCNSのテロの脅威が迫るとなると、自然と警戒する要人が増えてくる。彼らの護衛が流れ流れてエデンにまで押し寄せているのだ。暫く忙しい、と瀬良も眉を顰めて呟いた。


「テロ対策にエデンを動かせばいいのでは?」


 護衛からの帰りしな、瀬良に尋ねると彼は弱く笑って首を振る。こう、毎日人の警護に当たるのは疲れるものだ。エデン全体が慌ただしくなっているのも、彼の疲労の原因なのだろう。気遣うように見つめると、その笑みがうんと柔らかに変わる。


「エデンの人員をそこに配備すれば確実だけど、一般市民の中に彼らを長時間晒すわけにはいかない。それに、今欲しいのは確かな戦力じゃなくて安心。なら、一目で警察や軍ってわかるような人たちがいた方がいいんだよ」


それに、と瀬良は付け足した。今ここで、エデンの人間を本部であるビルから遠ざけるのは賢くない。いつどこで、SRCNSが動くかわからないからだ。だから一定数をここは確保しておかなければいけない。


「でも結局、今こんなんだから僕ら弱いよなぁ。ショウちゃん、これを想定したのかもしれない。意地悪だよ」


「当分、この状態が続くとなると上手くないですね」


「うん、上層部も呼びかけはしているんだけどね。つっつんじゃないけどほんと、民間のSPとかに頼ってほしいよ、もっと」


そうすれば護衛の任がなくなり、エデンは通常業務に戻ることができる。何も起きないんだからさ、と瀬良は欠伸交じりに呟いた。


 エデンに下される仕事は、基本的に危険が想定された物だけである。それとは違って、今回は要人の独断で依頼される物だ。危険と判断されないものなど、エデンの住人がやる事ではない。そんな共通した気だるさが、エデンの内部に漂っていた。


 そんな日々が続いて一週間ほど経った。今日の護衛は唐突に要請されたものだった。慌ただしく第参部隊の部屋で準備をする。今回はかなりの重要ポストについている者が護衛対象だ。いつものようにラフな格好という訳にもいかず、二人は珍しくスーツに身を包み、武器を装備する。


「この前、つっつんがついにキレたらしいよ」


密やかに笑いながら、瀬良が呟く。その様子を想像する限り、俊哉には笑う余裕はない。はぁ、と相槌を打ち、詳しく尋ねれば、わずかにその顔が曇った。


「なんだかさ、対象が随分と横柄な態度だったみたいで。いざというときは自分の盾になって死ね、みたいなことを言われたらしい」


「あぁ、なるほど」


そういうことは俊哉たちにも時折あった。それほど露骨ではなかったが、何度かそのようなことを言われたのは覚えている。瀬良はそれに角の立たない対応をしていた。しかし彼らのわがままでこの仕事は下りてきているのだから、腹を立てても仕様がないだろう。


 それでさ、と瀬良は刀を一度抜いた。刀身を確かめるように眺めて、また鞘に仕舞いこむ。


「つっつんったら躊躇もなく拳銃抜いて、彼に突き付けたんだって。この仕事で我々が最優先すべきと言われているのは、隊員の命です、と。それがお嫌ならば、ぜひ他を当たってくださいってね」


苦情が来た、と七緒が言っていたらしい。俊哉は苦笑しつつも、よくやった、と坊を誉めそうになった。けれども自分がその場に居合わせていれば、恐ろしさのあまり、当分は悪夢に悩まされたことだろう。


「もしかしたら、ちょっとはこの現状マシになるかもね」


二本目を瀬良は鞘から引き抜いた。こちらも綺麗に手入れをされている。その白刃に疲労の滲んだ顔が映り込む。一度振ってしまえば、それは跡形もなく消え去った。


 俊哉もまた拳銃を帯びる。弾丸を確認して、予備を持った。持ち歩くのは常に二丁だ。そしてあの日以来、このエデンにいても常に、肌身離さず携帯している。


 準備を終えた俊哉を、瀬良が振り返った。行こうか、と声のない言葉に頷く。颯爽と前を行く彼の背中を見つめて思う。この人は間違っても自分の味方ではない。


 以前の仕事と違って、護衛の時はやはり空気が緩い。車内の雰囲気の軽さに、俊哉は今日もホッとした。おそらくそれは、瀬良が放つ緊張感。今回の彼はと言えば、ただぼんやりと窓越しに外を眺めるだけ。形の綺麗な眼も円やかなまま、だ。一人、異様に神経質になっているのは、瀬良と俊哉に挟まれる議員のみだった。俊哉も力を抜いて正面から流れていく外を見やる。


 外は夕方だった。暮れゆく光の中で、人々がせかせかと忙しなく動く。ちょうど退勤時間と重なっているのだろう。歩道はスーツ姿の者で溢れていた。


 通常ならば一時間で終わる護衛らしい。しかし道が若干混んでいるため、予定よりもう少しかかるはずだ。俊哉が腕時計を見下ろして、時刻を確認する。この議員を無事送り届けて、全部終わるのは七時くらいだろうか。


 ぼんやりと眠たげに俊哉の瞳がフロントガラスに向く。信号が黄色に変わって、車は緩やかにスピードを落とし始めた。


 不意に瀬良が動く。決して急いた動作ではないが、警戒している。瞳に帯びる緊張感はすぐに車内に充満した。


「どこですか」


「戌亥」


すると左正面だ。俊哉の方が近い。だが、瀬良は方角を答えたきり、集中しきってしまっている。俊哉に指示を出すこともなく、ただ感情の失せた頬を晒して、身構えたままだ。


 この人はそうだ、司令官ではない。常に自らが先陣を切って走る、兵隊だ。


「すみません、信号が変わったらできるだけスピードを上げてもらえますか」


「しかし、この渋滞では」


「えぇ、わかっています。ですが、できるだけ」


瀬良が指示を出したのは運転手だけだった。俊哉が指令を仰ごうと彼を見るも、それより先に議員が動く。堂々としたその姿からは想像も出来ぬ彼の動揺に、聊か俊哉は驚いた。


「おい、大丈夫なのか」


恐怖と緊張で乱雑な口調になった議員が、瀬良を問い詰める。集中を乱された彼は、珍しく舌打ちをした。狼狽える男を冷たく見据えて、一つ、頷く。


「えぇ、おそらくは」


「おそらく、では困る! どうにかしろ!」


声を荒げる男が瀬良の腕を掴もうと手を伸ばす。触れるより先に瀬良は議員を睨んだ。それだけで、彼は大人しくなった。


「少なくとも我々は、どうにかなります」


「貴様っ!」


「瀬良さん!」


俊哉が思わず口を挟んだ。彼の声に瀬良は毒気を抜かれたように一瞬呆け、そしていつもの円やかさを取り戻す。俊哉と目が合った彼は、俊くん、と小さく呼んだ。落ち着け、そう頷けば、彼は背筋が震えるほどの妖艶さで笑った。


「つっつんの言っていた通りだ」


瀬良は呟く。そしてごっそりと感情を削ぎ落した声で、淡々と述べた。


「時間がない。君を構えるだけの力はない。壊滅する必要はない。ただ、この場を乗り切ればいい」


その指示に頷く。敵に頓着せずに、ただ逃げ切れればいい。そして、議員よりも自分の命を優先しろ。


「合図したら、伏せて」


三、と瀬良は言った。それが人数なのか、それとも時間なのかがわからない。


 信号が変わった。運転手が指示通り必死で速度を上げようと試みている。しかし、渋滞に阻まれ、上手くいっていない。


「二、一、一、二」


小さな声で数字が紡がれる。怪訝に思った俊哉と瀬良の目が合った。瞬間、頷かれる。合図だ。


 瀬良の手が議員の頭を押さえ込む。伏せた俊哉の耳に高い音が響いた。防弾ガラスに突き刺さる弾丸。動揺する運転手に、瀬良は進めと一言吐き捨てる。止まってはならない。断続的に打ち込まれる弾丸に、窓の外はたちまち混乱した。


「次、丑寅、次、未」


淡々と瀬良が方角を告げ続ける。先ほどの数字は人数か。そう納得した俊哉の耳に、また弾丸が撃ち込まれる音が聞こえた。拉げていく窓ガラス。しかし防弾ガラスは白くなるばかりで割れることはなかった。


 行く先で信号がまた変わる。この状態で止まるのはまずい。焦る俊哉の目の前で、前方の車が全速力で信号を越えて行った。それについて行こうとする運転手を、左側から現れた車が阻止する。交差点の真ん中で停車したそこから降りてきた男が、機関銃を持っていた。


「瀬良さん」


「大丈夫。ドアを外されたりするよりマシ。だけどとりあえずもう進めなくなった」


フロントガラスが真っ白くなっていく。降り注ぐ弾丸はそのための物だ。しかし瀬良の声はあくまでも冷静だった。作戦を変える、との呟きは俊哉宛だろうか。いや、自分自身の確認に過ぎない。


 急に瀬良が窓を向いた。男が外から鈍器をガラス目がけて振り下ろす。それが当たるより先に、ドアロックを解除した瀬良が扉を開いた。思い切り、扉を男に打ち当てる。男はそのまま、地面に倒れ込んだ。再びドアを閉めた瀬良が、車内を振り返った。


「車動かせそうなら進んで。どうにかなる?」


「します!」


「わかった、合図したら動かして。あとは任せる」


一般の運転手だと言うのに、彼は案外肝が据わっていた。瀬良と彼は頷き合って意思を確認する。そして瀬良は俊哉を振り返った。


「俊くん、柔術の心得は?」


「多少なら」


「うん、了解……。じゃあ、一緒に降りよう。彼らがこのまま無事突破できるように、邪魔者をここで防ぐしかない。車内に残って応戦するのは、正直、分が悪い。だから、外に出るけど、なるべく拳銃を使わないことを念頭に置いておいて」


「わかりました」


指示が出たことにホッとする。落ち着いた俊哉の様子に、瀬良はただ頷いた。震える議員は彼らに文句でも言いたいらしく、目を上げて睨みつけるも、声が出せずにただそれだけだ。瀬良はその視線を無視して、周りに気を配る。そして俊哉を見た。小さく顎を引く彼に、俊哉はドアに手をかける。


「頼みます!」


瀬良は運転手にそう告げると、自らもドアを開く。そして混乱にざわめく外にと飛び出した。俊哉もその後を追う。扉を閉めるとドアロックの音が聞こえた。車はすぐさまタイヤの音を響かせて走り出す。


 車外は大混乱だった。人の叫び声に、乱れる車の列。一般乗用車を縫うようにして、男たちが駆けてくる。瀬良の動きは素早かった。俊哉に拳銃を封じたくせに、自分は可憐に抜刀し、切り伏せる。躊躇のない動きだ。


 それを見ていられたのもわずかな事。打ち込まれる銃弾を避けて、俊哉も応戦する。男の間合いに滑り込み、彼の急所を狙う。瀬良には多少、と言ったが柔術はそれなりに極めているつもりだった。確実に当て身を決めて、男を地面に落とす。まだ終わらない。


 先ほどの瀬良の数字によれば、敵は全部で六人。一人は瀬良がドアで片をつけ、更にもう一人、彼が切り伏せている。そして今、俊哉が一人を落したので、残りは三人になった。


 機関銃を持った男に、瀬良が迫っていく。そのまま銃が弾ければ、彼とて無事では済まない。男が瀬良に照準を当て、引き金を引くより先に真剣が動いた。真っ直ぐに滑り出された刃が男の腕を切り落とす。機関銃が地面に転がり落ちて、瀬良はそれを蹴り飛ばした。


 躊躇のなさに、俊哉は呆気に取られた。腕がなければいい、手がなければいい。その後彼がどうなるかなど気にもしないその判断は、瀬良がどれほど優れた戦闘員であるかを示す。しかし、俊哉には解せない。そこで躊躇のできない彼を、俊哉は受け入れることができない。


 瀬良が振り返った。俊哉を見て、顔色を変える。異変に気付いた俊哉は、とっさに懐に手を滑らせた。訓練された通り、拳銃を取り出して構える。淀みのない、流れるような動作だった。彼自身が驚くほどに正確に向けられた照準。向かってきた男の瞳が見開かれる。俊哉の指が引き金にかかる。


「バカ、殺すな!」


瀬良の声が俊哉に躊躇させた。いつの間に戻ってきていたのだろう。チャンスとばかりに銃口を向けられた俊哉と、男の間に彼が滑り込む。瀬良の蹴りが綺麗に男の顎に入った。彼はそのまま、残った一人を殴りつける。怯んだ男の頭を掴んで躊躇なく、地面に振り落とした。


 一連の動作は鮮やか過ぎるほど俊哉の目に焼き付く。振り返った瀬良の瞳に、俊哉は慄いた。自分もついでに始末される。そう思うほど、彼は殺気に憑りつかれている。服を汚す返り血が、頬にまで飛んでいた。その肌の白さを際立させるような滑らかな赤に、俊哉の喉が鳴る。


 瀬良の腕が伸びてきた。殴られる、と目を瞑った。しかしその感触はなく、ただ乱暴に引き寄せられる。


「勝手に死ぬな、殺めるな! あんた誰なんだっ、軍人だろう! ここで一人でも殺したら、あんたは絶対に戻れなくなる! 軍に戻りたくはないのかっ!」


厳しい口調だった。恐る恐る持ち上げた瞼の向こう側で、瀬良は怒りに駆られている。それだけではない。何か、非常な悲しさが彼を苛んでいた。


「頼むから、ここで誰も殺さないでよ。君はエデンの住人じゃないんだから、その感触は味わっちゃいけないんだよ……」


ごめん、そう言って瀬良は俊哉を離した。いつもの口調、いつもの雰囲気。俊哉の知っている瀬良に戻った彼は、頬の血を拭い去る。その時瞳に走った恐怖を見て、俊哉には彼の言うことがわからなくなる。


 人を殺めるなど、非道なことはするな、と言いたいのか。しかし俊哉は軍人だ。彼の叫びは全く以って、お門違いなものになる。だが、瀬良は言った。軍人に戻れなくなる、と。ここで誰かを殺めることと、俊哉が戦場でそうすることはまるで違う。そうとでも、瀬良は言いたいのか。


 だから彼は俊哉に拳銃を封じた。エデンに彼がいる間、決して誰も死なせないために。


 夕焼けが消えていく。俊哉の所はもう、暗闇が押し寄せてきている。それなのに、すぐ傍にいる瀬良は、燃えるような赤を抱いたままだった。


 すんっと彼が洟を啜る。拙く、そして情けない表情だった。泣き出しそうなその一歩手前で、瀬良は口元を手で隠す。歪んだ眉が彼の背負った奇妙な悲しみを、俊哉に教えてくれていた。



 シャワーのコックを捻る。冷たい水が徐々に温かみを帯びて、熱い湯にと変わった。それをまず手のひらで受けてから、俊哉は水の中に頭を潜る。壁に額をつけて、しばらくそのまま浴びていた。


 あれから、瀬良は一言も口を利かなかった。執務室に帰ってからもう一度謝られただけで、それ以外は全く。着替え終えた俊哉が執務室に戻ると、彼の姿はすでになく、そのままエデンのビルを後にした。


 何かが、俊哉の心を捻り潰した。そんな感触に耐えられず、報告もないのに陸軍省に足を運んだ。憔悴しきった俊哉を見て、相川は何も言わなかった。報告を促すこともない。何かあったのか。そう問われて、不思議と口から滑り出たのはあの、七年前のこと。


 例の事故は、エデンの上層部が引き起こした、というのは本当ですか。


 なぜそう言ったかなどわからない。エデンが穢れていると確認して、そこから逃げ出したかったのかもしれない。自分の安寧の土地ではない場所、そして瀬良からも認められない場所。


 俊哉は振り返って初めて気がついた。瀬良に殺すな、と言われて何より衝撃だったのは、彼にエデンの人間ではないと切り捨てられたからだ。だからお前は味方じゃない。そう、暗に言われたような気がしてならなくて。


 馬鹿馬鹿しい、と俊哉は笑う。自分自身、彼を味方などとは思ってもいないくせに、彼に認められたい、そして味方だと思っていてほしいなど。そもそも瀬良とは決して分かり合えないじゃないか。今日も俊哉はそれを実感した。なのに、なのにどうして。


 あの人に頼られたらどれほど、誇らしいだろうか。


 死なぬために必死で訓練を積み、淡々と仕事を熟す。瀬良は武人としては本当に優秀だった。彼に戦力と認められることが、俊哉の矜持を満たす。それはもう、否定できない事実だった。


 強い者に認められたい。それがどれだけ、蔑んでいた相手であっても。


 違う、と俊哉は首を振った。それでもないような気がする。強かろうと弱かろうと、今は一番近い人に認められたい。そうでないと、自分が足元から崩れ去る。士官学校や入隊してからの成績は常に良かった。エリートコースを歩いてきたと自負できる。


 けれども今は、実力至上主義のエデンにいる。軍では最悪の掃き溜めと思われている場所だ。ピカピカだった俊哉が、そこに仕事とは言え送られる。自分を捨てられたような気にもなった。そしてエデンでは、英数字隊に鼻で笑い飛ばされるような存在である。


 必要とされていたい。存在を認められていたい。それなのに瀬良は、俊哉に殺すなという。そしてエデンの住人ではない、と彼を否定した。エデンに俊哉は必要ではない、軍もまた、今の彼を求めてはいない。軍省が欲しいのはエデンにいる俊哉だ。


 空虚さに膝が笑った。情けなく床に座り込んだ俊哉は、ぼんやりと壁を見つめる。水音が外界の一切を遮断した。


 七年前のことを尋ねた俊哉を前に、相川は酷く動揺した。そして一言、帰れと。


 彼にすら見捨てられたかと思えば、頬が自然と上がった。あれほどエデンの住人を嘲っていたのに、今、最も価値がないのは俊哉自身だ。そんな気がしてきて、更に笑う。


 ギリギリのところで、瀬良の声が蘇った。胸倉を掴んだその手、血相を変えて駆け寄ってくれたあの男。勝手に死ぬな。そう言った彼も本当なのだろう。それがたとえ、俊哉を思って言ったことではなくとも、それだけが、今の俊哉には救いだった。


 シャワーの水滴が雨のように波紋を作る。それを一つ一つ数えながら、俊哉は自分の中を振り返る。今までとこれからを考えて、ボロボロに砕けたプライドをもう一度、作り直す。まずはそのために、目を深く瞑った。


 脳裏に残った、あの赤が美しい。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ