表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/13

2、There is no no right.

2、There is no no right.



 割り切ってしまうと気にならなくなるものだ。そんなものか、と自分の気持ちの切り替えにやや、戸惑う。俊哉はロッカー室の扉を開けて、ため息をついた。


 あの日は色々と思う事もあったが、数日経った今、興味の矛先は違う場所を向いている。瀬良がどうの、というのは俊哉には関係ない。所詮ここは借りの居場所。全ての用が済んだら、SRCNSで瀬良がそうした通り、俊哉もここを去るのだ。彼はあくまでもエデンの住人ではない。


「軍人だ」


ロッカーの扉についた鏡を見て唱える。自分の役割を間違えるな。戸惑った彼に相川はそう言った。瀬良を補佐するのではなく、彼を監視する立場にいるのだ。そう、間違ってはならない。


 余計な物や上着をロッカーに仕舞いこんで、ランニングシューズに履き替える。瀬良ではないが、すっかり出勤後の一時間をトレーニングに当てるのは習慣になってしまった。軍にいた時とはまた違った、体力の付き方に気がつく。


 腕時計を見下ろすと、時刻はまだ八時前。瀬良はすでに基礎トレーニングを始めているころだろう。今から俊哉が行ったとしても、始業時間の九時には容易に間に合う。


 鍵を閉めてロッカー室を後にする。腕を大きく伸ばしながら考えるのはあのことだ。最近、走りながら、腹筋をしながらいつも思いめぐらす、七年前。


 相川にはとてもではないが訊けなかった。七年前、と報告の際口走った俊哉の前で、あの人が珍しく狼狽えたのだ。共犯者に隊長、と呼ばれるときなどとは比べ物にもならないほどに。


 何かある。そう思って口を閉ざし、自らで調べることにした。新聞、インターネット、雑誌。何でも使った。それでもわからない。俊哉自身覚えはあったが、廃工場で大きな爆発事故が起こったことくらいしか出ていなかった。


 しかし、と俊哉は目を伏せる。あの日、同乗者は何を言っていただろうか。お前らの所為で、と彼は確か呟いた。お前ら、というとこの場合は軍を指すのだろう。あの爆破事故にエデンと軍が何らかの関係をしている? 


 ともかくもう少し情報を集めて見よう。そう自分に頷いて、俊哉は訓練室の扉に手をかけた。と、同時にノブが回って勝手にドアが開く。面食らってその主を見れば、瀬良だった。タオルで濡れた髪を拭う彼は俊哉に気づくと、上気した頬をゆるりと微笑ませた。いつもは晒されない綺麗に筋肉の付いた腕が、Tシャツの袖から覗いている。


「おはよ、俊くん。訓練?」


「えぇ、瀬良さんはもう上がりですか」


「いや、違くて。こっちでやろうと思ってたんだけど、なんかランニング室

すごい混んでるの。訊いてみたらさ、第壱部隊が朝からマラソン大会やってるとかで。仕方ないから、プール戻ろうと思って」


困ったように眉を垂らして、瀬良が柔らに笑う。そういうわけで、当分ここは第壱部隊に占拠されるらしい。走るつもりだった俊哉も弱った。待っていると時間の無駄であろうし、そうかと言ってどいてもらうわけにもいかない。ううん、と頭を悩ませる俊哉に、瀬良が上を指差して誘ってきた。


「俊くんもどうせだし、上行く? プールなら空いているよ、この時間」


「はぁ、しかし」


邪魔ではないだろうか。瀬良はいつも一人でトレーニングに向かう。俊哉がいては集中できないのではないか。しかしそれを、杞憂だと彼は笑った。一旦始めてしまえば全く周りが見えなくなるタイプなのだと、瀬良は言う。


「水着買うのにちょっとお金いるけど、ま、大丈夫、大丈夫」


やや強引に頷かされて、結局瀬良の隣を歩く。つらつらと、他愛もない事を話しながら、プールのある八階へと向かった。


 ちらりと肩を並べる瀬良を眺めて、俊哉は思う。彼との距離感は心地がいい。瀬良の性格の所為なのだろうが、近くもなく遠くもない。最初は随分と懐に突っ込んでくる男だと思ったが、それを過ぎれば彼は一定の距離を俊哉との間に置いた。瀬良のそんなところが、SRCNSの事といい、彼に適切な仕事をさせるのだろう。


「そういえば、ずっと訊きたかったんですけど、瀬良さんはいつも基礎トレって何しているんですか?」


無駄のない、シンプルな線を描いた体躯を見て尋ねる。濡れた髪を払っていた瀬良は、うん? と首を傾げた。


「どうして?」


「いえ、その、随分と基礎トレに重点を置いているようですし、それに、瀬良さんの筋肉の付き方ってちょっと不思議というか」


「不思議、かなぁ」


自覚は無いようだ。頷いた俊哉に瀬良はさらに首を捻った。俊哉の経験上、普通はもっと筋肉の発達箇所に偏りが出る。スポーツ選手などを見るとよくわかるが、それぞれ競技によって全然筋肉がついている場所が違うものだ。


 しかし瀬良はどこもまんべんなく、また多すぎずついている。刀を用いるという事もあって、やや肩は秀でているようだが、それを入れても均等が取れている。おそらくこれが、全身を最も有効に使うのに優れた体格なのだろう。


「うーん、いや、よくわかんないけれど、つき過ぎないように気を付けているって言うのはあるかなぁ」


「と、言うと?」


「これはお師匠さんが口酸っぱくして言ってたんだけども、僕らは重くちゃいけないんだ。なるべく俊敏に動けるよう、軽くなきゃいけない。それに、刀は力で圧倒するのとはちょっと違う。だから、必要以上の筋肉は体を重くするだけで反って邪魔なんだよ」


もちろん使う物によって違う、と瀬良は付け足した。特に彼の場合、元の背格好が小柄であるため、大柄の敵と対峙した時にどれだけ筋肉をつけても力では劣ってしまう。ならばその体を活かして、素早さを身に着ける、というのが狙いらしかった。なるほど、とその説明に俊哉は素直に感心する。


「トレーニングも結構、トレーニングって言うかダイエットに近い感じかも。ゆっくりとじわじわ負荷をかけていらないものをそぎ落とすっていう雰囲気。他の人みたいに、がつがつ動いて苛めるっていうのとは違うんだよね」


そうして、瀬良は普段のトレーニング内容を教えてくれた。プールでやること、ランニングルームでやることに筋トレ。さすがに刀の修練までは訊かなかったが、それだけでもきちんと考えてプログラムが組まれていることがわかる。アスリート、というより武人として彼らが一流であると、俊哉は認めざるを得なかった。


 プールの更衣室の扉を開ければ、温水特有の温かさがここまで流れ込んでいる。ロッカーを開けて、瀬良はまずタオルを放り込んだ。教えてもらった通り、水着を買って戻ってきた俊哉の目に、彼の上半身が映る。


 晒された肌は意外にも綺麗ではなかった。日に焼けていない白いそこに浮かび上がる、無数の傷。


――エデンの養成学校を卒業するのは、入学した者のわずか十分の一。それ以外は皆、死ぬ。


 運転手がそう言っていたのを思い出した。数多の恐怖を乗り越えて、未だに彼は生きていられる。その傷全てが瀬良の実力と今の地位を指し示すものだった。


 しかし瀬良は全く違うところを俊哉が見たと思ったらしい。恥ずかしげに笑って、片手で鎖骨の刺青を隠す。そこで初めて、俊哉は彼の手の下に絵が入っていることに気づいた。


「それは……、エデンの軍章ですか」


羽の生えたリンゴを、一本の矢が貫く。Little Edenの象徴とも言える絵だ。


「そうそう。一世代昔はみんなどこにでも入れてたんだけど、今はあんまりいなくなっちゃった。つっつんは見たことがあるな。あとは、噂だけど七緒さんも入れているって聞いたことあるよ」


坊が、とは意外だった。彼はこう言った己を縛るようなものを嫌いそうなのに。七緒のことは、ぎりぎりの理性で想像するのをやめておく。


「そういうのがあると、仲間意識が芽生えますもんね」


ありきたりな答えで、七緒から思考を逸らす。俊哉の苦労を知ってか知らずか、瀬良は笑って首を振った。そうではない、否定の言葉を述べてから、彼はロッカー戸を閉めた。鍵の閉まる音が響く。


「違くって。いつどこで死んでもどこの者かわかるように、だよ。だから、千歳とか武闘派じゃない人は昔から入れていなくって」


彼の呟きに、昔の上官の言葉が蘇った。訓練は誰かを殺めるために行う者ではない。自分たちが生きながらえるためにするのだ。


 ここの住人は、正しくそれを地で行っている。容易く見捨てられるその命を、必死で、守るために生きている。



 古い新聞記事を捲る。閉館ギリギリの図書館にほとんど人気はない。特有の穏やかな静けさに似合わぬ物騒な記事に、俊哉は目を落としていた。


 七年前といえば士官学校に通っていたころだ。よく覚えてはいないが、例年通りいろんなことがあった。隣国との情勢が危うくなったり、ここ数年で一番の猛暑と言われたり。その中に埋もれるようにして、爆発事故はある。爆発事故のたった数日後に起きた政治騒動のおかげで、それらはすっかり流されてしまっていた。そのため、事故を語る新聞記事はごくわずかである。


 事故が起きたのは秋のことだった。原因は廃工場に放置されたままだった有機溶剤が劣化し、何かの拍子に引火。大量に残っていたそれらにたちまち燃え移り、他の放棄されていた様々な原料や資材等と誘発して爆発が起こった。幸い周囲に一般宅は無く、被害も少なかった。だが、爆発の規模が大きかったため、工場は跡形もなく消え失せた。


 新聞記事は濁しながらもSRCNSと軍のことに触れている。不審な集団がここで何かをしているとの情報があったため、事故当時、軍がそこで厳重注意をしに向かっていた、と。たまたまその時爆発事故が起こってしまったため、SRCNSと思われる民間人、そしてわずかの軍人が死傷した。


 事故死したもののほとんどがSRCNSの者だ。ご丁寧に、軍人には階級が添えられているため、一目でわかる。


 予期していたことだったが、当然エデンの名はどこにもなかった。被害者の名前にもそれらしきものはない。だが、あそこに彼らが関わっていたことは確かだ。そうすると、ここに描かれる物語はわずかに姿を変える。


 SRCNSの取締りに向かったのはエデンの部隊だ。おそらく、大字隊一つに補佐として英数字隊。そこでSRCNSとの間に戦闘に至った。その最中、有機溶剤の発火による爆発が起こり、両者もろともそれに巻き込まれた。


 そこまで想像して俊哉は首を捻った。するとおかしなことが二つ出てくる。


 一つは新聞記事に載った軍人の名。エデンとSRCNSだけの話ならば、ここで軍人が死んでいるのはおかしい。彼らはなぜこの場に居合わせたのか。


 もう一つはあの時の運転手の言葉だ。彼は軍人である俊哉に明らかな敵意を向けて言った。お前たちの所為だ、と。けれども俊哉にはここに軍が介入した意味がわからない。SRCNSは国内反政府組織で完全にエデンの管轄だ。エデンに来るまで、俊哉はその存在すらも認識していなかった。


 結局不審点は一つに帰する。エデンとSRCNSの戦闘に、軍が関係しているという点だ。


 さっぱりわからずに、俊哉は新聞を机に放った。閉館のアナウンスが静かに流れる。そろそろ片づけて帰らなければならない。明日も、早い。


 ため息をついて新聞をまとめて立ち上がった。エデンの住人に訊いてしまうのが一番早い気がする。しかし、一体誰が語ってくれるだろうか。考えて、誰もいないとすぐに気がついた。


 瀬良は、おそらく何も語らないだろう。折れた刀身、七年前に失った唯一の相棒、そしてこの前彼が言っていた師匠。それらは全て一致する。きっと彼はこの事故で掛け替えのない人を失っている。容易に口を割るはずがない。


 それに、こんなことを訊いたら疑われる。俊哉がしていることを知られるのはまずい。エデンの住人はないとすると、相川か。


 自らの上官を思い出して俊哉は渋い顔をした。あの人も、この事故には何か思うところがあるに違いない。きっと知る必要がないと言われて終わりだ。望みは薄い。


「自分で調べるしかないのか」


長い道のりになりそうだ。深々とため息をついて、俊哉は肩を叩いた。司書に一礼をして、図書館を後にする。夜の街に変わった外は肌寒い。月が大口を開けて浮かんで、俊哉を間抜けに見下ろした。


 誰か都合のいい者はいないのか。エデンの内情に詳しく、そして躊躇なく口を開いてくれそうな者。


 そんな話などあるはずがない。自分勝手な考えに俊哉は薄く笑って、足を止めた。後ろを歩いていたサラリーマンが、不審そうな顔で彼を追い抜いて行く。


 いる。確実に、それができる者がいる。


 俊哉の脳裏に一輪の花が揺れる。美しい艶やかな唐紅の花弁はいつか、電車で見た老女の花のようだった。そんな可憐と危険が混在するあの男。


 共犯者の存在を思い出した俊哉の心は、にわかにざわめいた。あの男に情は薄い。意地の悪さだけが突出しているようだが、実際はとても有能だ。事実、彼は今、大字隊の隊長を務めている。すなわち、内情にも詳しい。


 彼にならば訊ける。彼ならば知っている。


 現金にも足取りは途端に軽くなった。人に溢れる夜の街を、俊哉は軽快に行く。彼に話しかけるのは聊か気が重いが、背に腹は代えられない。エデンと軍、そしてSRCNSの間にあったあの日のことを、俊哉は気になって仕方がないのだから。


 不意に、彼が口癖ように言うことを思い出した。唇をゆるりと動かして、音にはせずにそれを真似してみる。


There is no no light.


そこに、一切の灯りは存在しない。



 陸軍省本部の中庭は暗かった。人の気配はない。夜、終業間近のこの時間に、こんなところにいる酔狂なものは俊哉くらいだろう。まさかエデンで彼を呼び止め、話すわけにもいかず、彼がここに報告に来るタイミングを狙うしかなかった。訊きたいことがある。そう言った俊哉を共犯者は何の感情も見せぬ瞳で見つめ返し、ただ、頷いた。


 銅像に寄り掛かり、腕時計を確認する。部屋の前で別れてからすでに三十分が経過している。きっとそろそろ来るだろう。


 淡い音が響いた。ハッと顔を上げて彼を見る。俊哉より、若干低い背丈に短い黒髪。やや伏せ目がちに俊哉を見据える彼の眼は、相変わらず凪いでいる。まるで人形のようだ。それほど雅やかで美しく、洗練されたその風貌。


「七年前のことか」


俊哉が尋ねるより先に彼はそう、はっきりと言った。驚愕と困惑を俊哉に見て取った男は、不意にその唇を捲り上げる。笑ったのだ。そうすれば作り物めいた優艶さはボロボロと剥がれ落ち、その内に秘めた人間らしい毒々しさが露呈する。


「隊長が言っていた、お前がひょんなことからその話を知ったと」


相川が、呟くと彼は一つ黙って頷いた。そしてややうんざり顔で前髪を撫ぜる。


「まぁ、隊長に詳細を聞くのは賢くない。だからと言ってこっちに来るとは、思いもしなかったな」


自嘲気味に吐かれた言葉は、なぜか俊哉の心に引っかかった。俊哉の疑問さえも、全て予想済みで組まれた事柄のようだ。俊哉の訝りを前にして、共犯者は艶やかに笑って見せた。まぁ、いい。そう、言い捨てられる。


「仔細ははっきり言って知らない。あの話はそれほど隠されるべきものだし、なにより誰も彼もが語っていいものじゃない」


「しかし、あれが軍部の引き起こしたことであるなら……」


「黙っていられない? それなら教えてやろうか。噂でしか聞いたことはないが、あの件に軍が一枚噛んでいるのは確かだ。だが、首謀者は違う」


軍部ではない、別の者? 目を瞬いた俊哉に男は微笑みかける。何か、得体のしれない感覚が俊哉の背筋を下った。思わず一歩引いて、彼の間合いから体を退く。


「エデンだよ。エデンの上層部が主犯だ」


「どういうことですか?」


あの件で、エデンの部隊も被害にあっている。それなのに、一体どうしてエデンの上層部が首謀者となるのだ。俊哉の問いかけに、彼は肩を竦めて見せた。


「しかし、あそこに向かわされたのは邪魔な隊だったらしい。邪魔な部隊と邪魔なSRCNSの中核がそろっていて、要らないものを一緒に掃除できたらいいとは思わないか? そういうことだよ」


「では、軍は何故絡んで?」


「そこまでは知らない」


中途半端に情報が打ち切られた。しかし彼が言ったことには、奇妙な説得力がある。軍が主犯だったと聞くよりも、エデンの画策だったと聞く方がまだ頷ける。


 もういいか、と彼は腕を組み、俊哉を睨んだ。首肯しかけて、共犯者を引き留める。一つだけ、彼にエデンで会ってからずっと気になっていたことがあった。それは前から不思議だったが、エデンでの彼の様子を見て更に深まった疑問である。


「貴方はなぜ、この作戦に?」


尋ねると意外そうに片眉を上げられた。俊哉からすれば当然のことだ。この共犯者はエデンでも確固たる地位にいる。それに彼があそこを疎んでいるようには思えない。やや、口を閉ざしたのち、共犯者は真直ぐ俊哉を見据えた。その瞳の強さに、目眩がする。つい視線を逸らした俊哉を、彼はからかうように口の端を持ち上げた。


「この国のため、という理由だとは思えないのか?」


「そんな、冗談を」


彼がそんな理由でこの作戦に参加している訳がない。何かを憂い、何かに献身する男には到底見えない。俊哉の言い草に気を悪くするでもなく、むしろ上機嫌で彼は喉を鳴らした。


「大した理由じゃない。それに、聞いてどうする」


「あなたが真っ当な理由もなしに作戦に関わっているのが、奇妙で仕方ないんだ」


「不安?」


静かに問われ、俊哉は頷いた。そう、不安だ。彼がいつか俊哉や相川をあっさり裏切ってしまうような気がする。俊哉の素直な反応に、彼は揶揄も何もしなかった。それなら仕方ない。そう呟いて、どこか遠くに視線を投げやる。


「確かに隊長の志とは違う。別段、エデンがどうなろうと国がどうなろうとどうでもいい。ただ、取り返さなければならないものがある。あの時奪われた僕の物を、奪い返さなければならない」


強い口調だった。自分の覚悟を自分自身で確認するような、そんな断定的で文句など言わせぬ言い方。予想外だった彼の言葉に俊哉は目を瞬く。見られていることを知ってか、共犯者はいつも通り笑って、首を振った。それ以上は言わない。そんな拒否を、彼の中に見つける。


 そのまま男は踵を返した。淡い音が響く。芝生を踏みつけて戻って行くその背中を、俊哉はぼんやりと眺めた。今日聞いた七年前のこと、そして共犯者の目的。疑問を解消したかったはずなのに、余計頭の中でそれらは複雑に変化する。


 ゆっくりと息を吐いて、俊哉は銅像に背を預けた。視界の端で夜空が色を重ねていく。深まる時間を見つめて、これをどう処理すべきか、暫しの間彼は思いあぐねた。



 軽快なキータイプの音が聞こえる。瀬良の机は今、ほとんどが紙で埋まっていた。時折聞こえる唸り声に、哀しそうな呟き。心配して彼の席を俊哉が覗きこむも、大量の書類で瀬良が見えない。


 これらは全てここ二年間で瀬良が行った仕事の報告書と作戦書、そして始末書である。七緒が今朝、段ボールで持ち運んだものだ。普通、一連の仕事が終わった際に、それらはきちんとパソコンに打ち込んでデータ化される。それを散々やらずに放置してきた結果が、この書類の壁だった。


 手伝ってはいけませんよ。素敵な笑顔で言い捨てて行った七緒を思い出す。瀬良の業務怠慢に腹を立てていると言うより、彼を苛める機会を得て生き生きとした様子だった。とは言われても、俊哉もやることがないのはつまらない。仕方なしに、瀬良がやりやすいように打ち終わった物を片すなり、日付順に並べるなりと書類を弄りまわしていた。


「でも、七緒さんって綺麗ですよね。可憐っていうか、服の裾の、レースみたいで」


始末書を眺めながら何気なく呟いた。攻撃的なピンヒールはさておき、服装も柔らかな色合いの物が多く、彼女の嫋やかさを引き立てている。と、言うのは士官学校以来ほとんど女性と関わりのなかった、純朴な男の考えである。


 ぴたりとタイピングをする瀬良の手が留まった。彼はわざわざ書類の山から顔を出し、奇妙な物で見るような目で俊哉を注視する。


「ごめん、もう一回言って」


ひょこりと顔を覗かせる姿は、警戒している小動物によく似ている。うさぎか、と瀬良を見つめて俊哉は二度頷いた。彼が外敵に怯えて震えるところが容易に想像できる。その辺りが、この瀬良という男の悪い性質だ。


「だから、七緒さんはレースのようだな、と」


白くて繊細で綺麗なレース。迷いもせずに繰り返した俊哉を、瀬良は正気を疑うように見つめ、やがてゆっくりと目を逸らした。スローペースでタイピングが再び始まる。


「……形状記憶合金で編まれたレース……?」


彼の呟きを拾った俊哉は、まず大真面目に首を捻った。形状記憶合金でレースが編めるのだろうか。そしてそれが、瀬良なりに精一杯考えた、非常に強い物の喩えであることに気がつく。レースはレースでも容易には破れないような、ものすごく強いレースであると言いたいのだろう。


 どうしてそんな、と俊哉は唸ったがすぐに理由はわかった。うさぎの瀬良にとって、七緒はいつも意地悪を嗾けてくる天敵である。言うならば、レースなど可憐なものではなく狼だ。狼になった七緒に突かれて怯える瀬良が想像できそうだったが、彼のために俊哉はやめておいた。


 なんて話をしていると、卓上の電話が鳴った。瀬良が向こう側で軽く手を振る。出て、と言ったようだったが、助けてと聞こえた気がする。ともかく俊哉は受話器を取った。耳に当てるとやたらと明るい、北薗第二総括長の声が流れ込んできた。


『もしもし、臺くん?』


「すいません、瀬良さんは今、手が離せない状態でして。重要なことですか」


『あ、いや全然。なら永戸くんでいいから少し出てこられないかな。渡したいものがあるんだよね』


「はぁ、自分でよろしければ」


じゃあ、よろしく。そう北薗は明るく言って電話を切った。受話器を置き、瀬良を窺う。どんな話だったかを伝えるより先に、彼はもう一度手を振った。


「聞いてた! ごめん、行って来てくれる?」


「わかりました」


まとめ終えた書類を置いて、俊哉は立ち上がる。戸口でちらりと振り返れば、瀬良はまた何事かを唸りながら必死で書類の山と戦っていた。聞こえないように小さく笑って、俊哉は部屋を後にする。


 北薗に渡されたのは、先日の仕事の礼として送られてきた菓子折りだった。わざわざ丁寧に、と驚く俊哉に珍しいことだと北薗も言う。隣で聞いていた七緒ですら、ほとんどない例だと言うのだから、件の密使は相当恐ろしい思いをしたのだろう。なんだか申し訳ない気持ちになりながら、菓子折りを箱ごと受け取った。瀬良と分ければいいと言われるが、こんなに食べられる気がしない。


 瀬良は甘い物は大丈夫だっただろうか。俊哉はそう好みでもないため、彼が好きであってくれた方が助かる。確か飴は好きなようだが、と唸りながら総括長室を後にした。


 昼を過ぎると第二総括部も相当人の数が減る。広々とした廊下の静けさに俊哉は目を細めた。午後の気だるい明るさが白い廊下に溜まりこんで、行く先できらめいて俊哉を待ち受ける。


 こんな風に気を抜くのは久しぶりだったかもしれない。あまりにも光に溢れる世界に、ふとそんなことを思った。しかしそれは、少し前なら当然だったような身軽さだ。


 無意識の内にエデンに来てから相当、俊哉は気を張っていた。もう一月近く経った。けれどもまだこうして一人にでもならなければ、ほうっと息を吐くこともできない。


 瀬良の隣は心地いい。しかし彼は、俊哉の仲間ではない。


――いつでも、彼を殺められるだけの覚悟がなければいけないのだ。


 そんな義務が不意に重く、胃の腑を下に引っ張り込んだ。菓子折りの箱を握り込み、廊下を進む。光が舞い込むその中にと、足をゆっくり、ゆっくり踏み出して行った。


 角を一つ曲がって陽だまりに背を向ける。前からやってきた男に道を避けようと動いたが、彼の体は俊哉についてきた。訝しげに眉を顰めつつも、更に避ける。それでも男は俊哉を通さない。


 靴音が鳴った。ハッと気がついて振り返ると、背後も塞がれていた。男が三人。俊哉の逃げ場を封じている。


「な、何を……」


手が、無意識の内に懐を探っていた。拳銃を探すがそれらしいものが見当たらない。まずい、部屋に置いてきたままだ。


 自分の迂闊さに舌を打つ。間合いを取ろうにも、三人に周りを囲まれれば難しい。菓子折りの箱を盾にするつもりで、胸のあたりまで持ち上げた。表情の失せた顔で男たちが近寄ってくる。この、悪意も何もない頬が薄気味悪い。俊哉の背を、冷や汗が滑り落ちる。


 また、だ。すぐに、自分が敵意を向けられる対象であることを忘れかける。この男たちは何かしらの善意で俊哉を囲んでいる訳ではない。薄い頬の下、血管の通るそこで、ざわめきのような俊哉への敵意や殺意を抱いているはずだ。


 正面の男の手が伸びてきた。それが俊哉の襟元を掴むそのわずか一瞬の隙に、高いヒールの音が滑り込む。ピタリと動きを止めた男たちに、首を竦めたままの俊哉。場違いなほど凛とした声が、その場に響いた。


「永戸さん? あぁ、まだよかった」


七緒の声だ。彼女の登場に男たちの行動は素早かった。一人は俊哉の隣を通り過ぎ、また一人は七緒の方へ何食わぬ顔で歩き去って行く。残りの男も、不自然ではない動作でその場から消え去った。代わりに現れた七緒は、一枚のDVDを手に静かに俊哉を見据える。


「これを。北薗総括長から。渡し忘れだそうです」


気がつかなかったのか。思わずそう勘ぐる自然さで、七緒はDVDを俊哉に差し出した。つい、彼女の雰囲気に呑まれるようにして、それを受け取ってしまう。


「SRCNSがインターネットの動画サイトを利用して配信した、犯行声明だそうです。無論、今は即刻削除されたため、現物を見ることはできませんが。消される前にDVDに焼きましたので、どうぞ瀬良さんと見ていただければ」


付け加えられた説明に頷いた。淡々と物事を運ぶ七緒はいつもよりもずっと冷たい。しかし彼女のおかげで窮地から脱したことは確かだ。礼を言わなければ。そう思って七緒を見つめれば、彼女は不快そうに眉を上げるだけだった。


「あの、先ほどは……」


「礼は結構です。助けたつもりはありませんから」


きっぱりと言い捨てた七緒に、俊哉は口を噤む。


「たまたま、総括長が渡し忘れをしたため、あなたを追ってきたのです。幸運ですね」


本当にそうとしか思っていない声音だ。むしろ、あのまま死ねばよかったのに。そうとすら七緒は思っているようで。


 俊哉の心がにわかに荒む。七緒は最初からどことなく冷たさを含んでいたが、こうもあからさまに敵意を向けられたのは初めてだった。俊哉の困惑を嘲笑うようにして、彼女は口の端を釣り上げる。


「しかし随分と不用心ですが……、忘れてはいけませんよ?」


ヒールが床を叩いた。警告音のように響くそれは、俊哉の危機感を煽る。彼女の細い手がするりと自身の腰に滑り落ちた。決して艶やかには見えないその仕草に、俊哉の喉が鳴る。恐怖が背中にべったりと張り付いた。瀬良を苛めて遊んでいる時とは明らかに違う、七緒の表情。


 かちり、と音が鳴った。どことなく聞き覚えのあるそれに、俊哉の本能が悟った。逃げられない。死ぬ、ここで骸に成り果てる、と。


 手が動いた。素早く引き抜かれたそれに、俊哉はぐっと身を構える。額を打ち抜かれる予感に、目を強く瞑った。しかし、何も起こらない。恐る恐る瞼を持ち上げると、やや興ざめしたような七緒が、ボールペンを片手で弄んでいる。


「あなたのこと、殺せるものならそうしてやりたい。ですが、あなた一人を始末したところで何の意味もありません。それに、私にはできない」


彼女の手からボールペンが落下する。細身のそれは床にまっすぐにぶつかると、小さな音を立てて転がった。俊哉のつま先に軽く当たって、動きを止める。


 本気で殺されるかと思った。汗の通った跡がさらに冷えて、体を震わせる。拭い去ることのできない恐怖感に、俊哉は七緒という人を改めて見つめた。


 艶深い髪の毛に形の良い眼、円やかな白い頬に赤い唇。童話に出てくる王女のような姿を持ったその人は、背筋が凍るほどの殺意を有している。そして、確実に敵を射止めるだけの力をも。


「えぇ、私はあなたたちを許せません。きっと一生恨んで死ぬのでしょう。だけれど、あなたを殺しはしない。それは無意味ですから」


「無意味、ですか」


尋ね直した俊哉に七緒は視線をくれるだけだった。優雅に膝を折って落ちたペンを拾い上げると、それを元通りポケットに仕舞い込む。くるりと踵が回った。半身だけ、こちらを向いた中途半端な格好で、七緒は顔を伏せる。


「えぇ、意味などありませんとも。この身に巣食った絶望を味合わせずとして、あなたたちを易々と殺めてなるものですか」


平淡に呟かれる言葉はそれだけで呪いになった。俊哉には彼女の怒りの原因が想像できない。おそらく彼女も、あの七年前に容易には語れない経験をした。そしてそれを、軍の所為だと思い込んでいる。


 けれどもあれはエデンの上層部が仕組んだらしい。だが、七緒にそれを伝えてどうする? どうにもならないのは火を見るより明らかだった。


 靴の音を高らかに、七緒は俊哉を置いて行った。呆然とその背中を眺めて、俊哉は手に残ったDVDを見下ろす。彼女は俊哉を恨んでいる。きっと、エデンにいる者の多くが彼の存在を憎んでいる。


 瀬良はどうだろうか。ふと、彼の姿を思い返してみた。どんな時も彼は俊哉を区別しない。美野もそうだ。彼も最初から、俊哉を軍人だと厭わなかった。


 それでも彼らはエデンの住人だ。瀬良の胸元に入った刺青を思い浮かべた。彼も美野もここの住人である限り、俊哉の敵からは動かない。それはつまり俊哉もまた、彼らの敵であることを意味していた。


 七緒が向けた敵意と殺意。彼女のことに目を伏せて、俊哉は第参部隊の執務室にと向かう。そういえば、頭の片隅をよぎったのは七緒のことだ。瀬良は彼女にもまた、刺青が入っていると言っていた。けれども七緒は事務員。非、戦闘員である彼女がなぜ、それを必要としたのだろうか。


 いつの間にか形の崩れた菓子折りを抱きかかえる。丸腰である恐怖と戦いながら、人気のない廊下を進んだ。俊哉の行く先はやはり陽だまりが埃を輝かせている。そこは柔らかく美しいが、決して彼が安心する場所ではない。俊哉の安寧の在り処はエデンではないのだ。


 窓から外を仰いだ。ビルとビルの狭間から辛うじて青空が望める。白い線を描きながら、飛行機が一機、空を切り裂いて行った。指先でそれを追い駆ける。日差しが照らす俊哉の頬は、奇妙なほど凪いだまま、頼りなさげに色あせている。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ