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1-4


 指先が机を叩く。覆いのない窓がそのまま室内を映しこんだ。夜、外は明かりに満ち満ちて、暗さをどこかに掃き捨てる。


「報告を、永戸」


落ち着いた声が俊哉の裾を引いた。あの会議から現実に戻ってきた彼を、相川は静観する。俊哉はゆっくりと目を瞬いて、その世界を瞳に映した。輝く窓、上品な内装に座る男の気品。彼はもう着られない軍服を着て、相川は俊哉の正面に座っていた。大きな重たい机が二人の間に横たわる。


 終業後、俊哉は陸軍省本部の一室に馳せ参じていた。週に一度、ここで報告をするのが彼の義務である。俊哉は請われるまま、上官である相川に一週間で見聞きしたことを差し出した。例えば今日の会議の様子、最後にアナウンスされたこの三か月の強化月間について、それから。


「『我々が殺めてはならない人などいるのか』そのようなことを、坊さんが仰っていました。それに、周りの人も頷いていて。それは、その……どういう意味なのでしょうか」


 俊哉の問いかけに相川は黙り込んだ。彼はエデンのことをよく知っている。あの組織をどうにか消してしまおうと、長年をかけて取り組んでいるのだから当然だ。その彼でも黙する。それほど今日聞いてしまったことは、エデンの内部にだけ渦巻くことなのか。


「さぁな。今一つ、意味が掴みかねない。他に、気になることは」


「その、坊さんのことです」


「瀬良ではなく」


俊哉はすぐに頷いた。瀬良のことはいい。それよりも坊だ。今日の様子からして、彼が何かを考えていることは確かだ。それがこの作戦に何らかの影響を与えるような気がして、俊哉には恐ろしい。


「坊、か。あれは有名だな。身内での結束が強いエデンの中でも、危険分子としてリストに名を載せている」


「危険分子? すると、その、坊さんの存在というのは……」


「あぁ、だが、心配はない。そのことも考慮に入れて、動いている。もし万が一、何かあった時にはお前に危険が及ぶことになるが……、それ以外は大丈夫だ。今まで通りでいい」


相川がそう断言するも、俊哉の心は晴れない。坊をこのまま放っておくのはあまりに不用心だ。だからと言ってどうしようもない。今更どうにもならないから、相川もそのままにしておくのか。いや、彼を予想して対策を打っているはずだ。


「それより、瀬良に注意をしてくれ」


相川の声に一段と重みが載った。彼は俊哉が第参部隊に配属が決まった時からずっとそう、口を酸っぱくして言っている。何を瀬良に恐れる。相川はどこまでも真剣に瀬良の危険性を説くが、俊哉からすれば坊の方がよほど危うい。


「瀬良さんの、一体何に注意をすればよろしいのでしょう」


その、実力か。それとも全く見えぬところに隠された人間性か。瀬良が何かを秘めていると言うのなら、坊のようにいっそ露出した危うさの方が安心できる。けれども俊哉はそれを感じられない。


 窓ガラスを見つめて、そこに瀬良を思い浮かべる。笑った顔がまず浮かび、そして記憶にしっかりと刻み込まれたあの、SRCNSの時の彼を描いた。どれもこれも、瀬良は鮮やかだ。拙く、それでいて研ぎ澄まされた冷静さに、どことなく感じられる冷淡さ。完璧ではない。ぎりぎりのバランスを保って作り上げられる、あの、鮮麗な美しさ。


「あれは、厄介だ」


相川が重苦しい声で呟く。そうだ、厄介なのだ。下手をすれば絡み取られる。ほだされるな、と彼が再三注意したように、気を抜けば途端に引きずり込まれる。引きずり込まれる? それは、どこに。


 一礼をして、踵を返した。この迷いは自分の中で処理をしたい。片手で口元を隠すようにして覆い、俊哉は扉に手を伸ばす。彼がノブを掴むより先に、ドアは勝手に開いた。やってきた男と視線が絡む。いつもの意地悪げな顔で彼は笑うと、奥にいる相川をみやった。


「ご苦労様です、隊長」


共犯者である彼は、相川をなぜか隊長と呼ぶ。その理由を問うたことはない。彼がそう呼ぶたびに、相川はこれ以上に無いと言うほどの渋面をするからだ。底意地が悪い。俊哉は胸の内で一つ呟いて、ドアを閉めた。


 廊下に出て、深く息を吐く。坊のこと、瀬良のこと。様々な気がかりがとぐろを巻いて思考を支配した。エデンに来てから迷うことばかりだ。しかし、俊哉がやらねばならぬことは一つしかない。


 扉から背を離して、歩き慣れた陸軍省の廊下を行く。すれ違う人々が俊哉を振り返るのが悲しい。もう、同じ制服は着られない。



「作戦は前に説明した通り」


 着替えながら瀬良ははっきりとそう言った。俊哉もその隣で着替えをする。堅苦しくも、ラフすぎもしない。しかし動きやすい服装だ。


 スーツでなくてもいいのかと訊いたが、それでは目立つと瀬良に言われてしまった。男が四人、値段の張る車に乗っていたら相当目立つ。それよりも、若者が好む車種にラフな格好の男が乗っている方が、一般道を走る分には目立たない。


「今回は誰にも知られたくない密使だからね。その辺は注意しないと」


そう呟く瀬良は、下手をすれば高校生にでも間違えられそうだった。しかし、帯刀をする。腰に刀を一本差し、それよりもずっと短い物をもう一つ、帯びる。脇差と呼ぶにも中途半端な大きさに、俊哉の視線が惹かれた。


「それは?」


尋ねると瀬良が首を傾ける。俊哉の目が見る先を辿って、彼は納得したように頷いた。黒光りする鞘から刀身を抜く。まじまじと刀など見るのは初めてかもしれない。興味深げに見つめる俊哉を笑って、瀬良はそれを掲げて見せた。可憐だ。よく手入れされていることがわかる、白刃。けれどもそれは、半分をやや過ぎたあたりで無残に折れている。


「お守りなんだ」


それ以上を、俊哉は訊けなかった。瀬良は目を伏せてまた、元通り刀を鞘に戻す。凛と響く日本刀に俊哉は俯いた。


 瀬良はいつかの日と同じ、緑青のパーカーを仕上げに羽織った。ファスナーを引き上げて、そのポケットにブドウの飴玉を鱈腹食わせる。一つを俊哉に寄越し、自分も袋を破った。甘い匂いが鼻先をくすぐる。


「そちらの方の準備は? メンテナンス平気?」


指をさされたそれを俊哉も見下ろす。初日に取りに行った拳銃だ。HK45。ヘッケラー&コッホというドイツの会社の自動拳銃である。受け取ったその日から慣らしもメンテナンスもしている。しかと頷けば、瀬良は安心したように微笑んだ。


 全ての準備が整い、二人は確認のため、指令書と作戦書を並べて眺める。瀬良の指が時間、そして場所をなぞり、それから作戦の紙に移った。


「何事もなければ一時間で着く。渋滞にはまっても二時間程度。時間は問題ない。一応チェックしたけれども、道路状況に問題はないみたい。だから二時間を見て行けば大丈夫。それで、SRCNSの襲撃予想場所だけれども」


地図を取り出した瀬良が、印の付いた場所を示していく。全部で三か所。高速道路の真ん中と、その出入口だ。騒ぎがあれば問題となりそうな場所だが、やりやすいのだと瀬良は言った。


「下よりはずっといいよ。ならば下を通らなきゃいいって思うかもしれないけれど、それだってショウちゃんは狙ってくる。だったら、なるべく人目につかない方がいい。高速道路なら、最悪僕らを抜いて行ってくれればいいしね」


「瀬良さんはどのあたりで来ると?」


「うーん、予想だけれど、真ん中じゃないかな。どういった形で仕掛けてくるかはわからないけれど、どんな形もありえるだろうと覚悟して。ショウちゃんはそういう人だから」


以前も聞いたことだ。生野祥司に俊哉はまだ会ったことはないが、瀬良の話を聞く限り、かなりの武闘派だ。そして、破天荒。また、実力もある。ほとんど同い年の彼がSRCNSで、一つとは言え部隊を組織できているのだから、相当の使い手である。


「襲撃後の行動は以前の通り。俊くんはなにより、密使とその書簡を守ることに専念して。運転手には話がついている。何があっても、黙って空港に向かえ、と」


「瀬良さんは生野祥司に対するのですか」


「うん、そうなるよ。まぁ、大丈夫。間違っても死ぬことはない」


作戦書を瀬良は仕舞いこんだ。地図と指令書だけを残して、行こうと俊哉を促す。暮れかけの日差しが、部屋の中に差し込んだ。


 きっとここに戻ってきた時には、今とは全く違う何かを持っている。そんな予感に、胃の腑が重く沈み込んだ。扉を開けて待つ瀬良を、俊哉は追いかける。先ほど彼が寄越した飴玉を口の中に放り込めば、優しい甘さが彼を癒してくれた。


 前を歩く瀬良が大きく伸びをした。ゆるりと起き上った狼のようなその仕草に、また見知らぬ花が懐から零れ落ちる。俊哉は彼の様子を、目を細めて見つめた。


「楽しそう、ですね」


首を傾げた瀬良が振り返った。そう? 自分の上機嫌に自覚が無いようだ。彼は微笑んだまま、ふと視線を下げる。そして次に目を上げたときは、先ほどとはまた色味の異なる物を抱えて俊哉を見つめた。


「あぁ、でも、生きてるって感じがするかもしれない」



 何事も起きないまま、車は高速道路に乗った。車内は気まずい沈黙を有している。瀬良はまっすぐに前を向いたまま口を噤み、俊哉はその反対側で窓越しに外を見る。間に挟まれた密使は居心地が悪そうに俯いたままだ。惰性で流したままのラジオが、場違いなほど明るい声で笑っている。誰もしゃべらない、目も合わせない。苦しいだけの時間は予想よりも早く終わりそうだった。


「直に、高速の終わりです」


運転手が囁いた。瀬良は黙ったまま頷く。柄にかかる手。いつでも抜けるように準備されたそれに、俊哉はざわついた。瀬良が予想した最後の地点、高速の出口が近づいてくる。


 沈黙が緊張に変わって車内を包む。俊哉から密使に、そしてそれは瀬良にも伝わったのだろう。彼は刀から一旦手を離して、微笑んだ。それに空気がふわりと円やかさを得る。だが、その安寧は一瞬だった。


「右」


「後方ですか」


「そう、辰巳の方角」


瀬良の手が再び柄に触れた。彼の指先がドアロックを外す。運転手がそれに目をやると、視線だけで彼に後を尋ねる。瀬良は頷いた。


「指示通り」


「了解しました」


彼の返事を聞くとほぼ同時に、瀬良が躊躇なく扉を開いた。寸刻入れずにぶつかってくる自動車。ドアは奇怪な音を立てて密使を怯えさせる。驚きに目を見開く俊哉を前に、ドアは自動車との狭間にされ、無残に拉げる。瀬良が高速道路に飛び降りた。それを見届けた運転手はアクセルを踏み込み、彼をその場に置き去りにする。


 思わず俊哉は振り返った。瀬良の姿は徐々に遠く小さくなる。そこで何が起こるのか、俊哉には想像も出来まい。


「ドアを」


運転手が短く指示を下す。それにやっと我に返った俊哉は、瀬良のいた右側に移動した。ドアはもう、使い物にはならないだろう。なんとか引き戻すものの、ほとんど閉まらない。


「これから、どう」


震える声で密使が俊哉に尋ねた。彼は、と男が瀬良のことを気にかけている。俊哉は首を振って、驚くほど無慈悲に彼に告げた。


「このまま空港に向かいます。この後は、自分が書簡及びあなたを」


緊張で乾いた唇を舐めった。こんなにも躊躇なく瀬良を切り捨てられたとは、自分でも当惑する。俊哉に生野祥司の強さなどわからない。けれども瀬良は恐れる様子ではなかった。


 車内は再び、重苦しい沈黙が支配する。しかしもう、それを癒してくれそうな男はいない。



 熱い地面に片手をつく。気を利かせて速度を落としてくれたとはいえ、走行中の車から降りるのは中々のものだ。風が頬を打つ。ほとんど力に突き飛ばされるような形で、臺は道路の上に舞った。


 あぁ、死ぬ。このままだと死ぬ。けれど、死ねない。死ぬわけにはいかない。


 狂気と正気。それらが入り混じる思考の中で、どうにか最善の策を捻り出す。アスファルトに叩きつけられ、後続車に跳ねられるより先に、何とか受け身を取った。あちこちを擦り剥きながらも、無事、体は止まる。


「ドア、いいのかよ、あんな」


夕陽を突き破るような、明るい笑い声が辺り一面に響き渡った。よく笑えるな。聊か呆れながらも、埃を払って臺が立つ。こちらに当ててきた自動車は、少し先で止まっていた。その傍らに佇む、一人の男。


 やはり予想通りだったか。生野たちは俊哉を追ってはいかなかった。つまり目的は密使と彼の持つ書簡ではない。こちらに残された臺に生野は用があるのだ。


 相変わらず露骨な態度だ。生野はしばしば臺にちょっかいをかけてくるが、そのやり方が酷過ぎてこちらが参ってしまう。SRCNSに肩入れしていると言われた日には、勘弁してくれと笑い出したくらいだ。


「ドアはいいんだって、修理すれば。それよりも、あれ、本気でぶつける気だったんでしょ、びっくりした」


「そりゃあ、全力でやらないと、な。それで、最近どーよ、そっちの天使さん方は」


「ぼちぼちかな。そっちの方はどう? 相変わらず?」


「あぁ、老人もガキもみんな変わらねぇよ、良くも悪くもな」


親しげに言葉を交わす二人を見て、生野の部下は対応に困り果てている。襲撃するために来たこの場で、リーダーである生野が笑って話をしているなど、彼らからすれば考えもしなかっただろう。


 全くとんだリーダーだ。臺は彼ほど中心に向かない人はいないといつも思っていた。そのくせ、彼ほど人に好かれる男もいないのだから不思議で仕方がない。臺だって嫌いではない。この破天荒さと楽天的な性格。一緒にいれば楽しくて、そして常に危険に晒される。


「そう、だったな。そういえば仕事だった。だけど、悪いなー。ちょっとお前ら、下がってろ。俺はコイツと話がしたい」


言い放った生野に誰も文句を言わなかった。臺を警戒するように視線をくれるが、それ以外は何もしない。周りを囲んで、見張りをするように立ちはだかる。そうしてできた簡単な密室の中に、臺は生野と取り残された。


 目を伏せて、考える。難しいことは極端に苦手だ。生野が何を臺に話したいのか、それすらも見当がつきそうにない。


「話って何? 今度の休みにでも、一緒に遊びに行く?」


「楽しいお誘いを断るのは残念だが、生憎、俺に休みってのは無くてな。ま、逆に言えば休みしかないんだけど」


「じゃあ、何の用?」


尋ねれば、生野の雰囲気が一変した。先ほどまでの親密は失せ、代わりに冷え冷えとした拒否が突きつけられる。生野は臺の何かを疑っている。正気か、それとも、思惑か。 


「車の左側に乗っていた男。あれは誰だ」 


「彼のことくらい、ショウちゃんは自分で調べたものかと思ってたな」


「調べた。調べて今、訊いている」


ならば何も話すことはない。臺が肩を竦めれば、生野は憮然とした顔で彼を睨みつけた。白を切るな。厳しい声が飛んでくるが、臺には生野の怒りの根源がわからない。俊哉は俊哉だ。彼はさほど重要人物でもないから、生野はきっと臺が知る以上のことを知っている。


「はっきり言わないと、お前にはわからないらしいな」


「そうみたいだ。悲しいけど、あんまり頭は良くないし」


「自覚があるだけマシだぜ。じゃあ、率直に訊く。臺、なぜお前は軍人を隣に置く。よく、平気でいられるな?」


生野は侮蔑をはっきりと込めてそう言った。それは、軍に対してか、はたまた臺に対してか。冷静さを崩さない臺に、生野は舌を打つ。腰に携えた刀を抜くと、正眼に構えた。きらめく刃が臺を睨みつける。


「あんなことがあったっていうのに……。俺にはお前の正気が信じられねぇな。七年前だ。随分と経っちまった。でも、七年しか経ってねぇ。俺は許さない。あちらの都合で俺たちを巻き込んだ軍部を。お前らだってそうだと思っていた。なのに、お前はどうして、敵を隣に置く?」


「待って、何言ってるの、ショウちゃん。七年前? 七年前って言うと、あれのことを言っているんだよね? あれは事故だったんでしょう? 確かに軍が引き起こしたものだ。でも、でも、なんかショウちゃんが言うようなことじゃないような気がする」


「お前、それを本気で言っているのか?」


地を這うように低い声。生野が、間違っても冗談を言っているわけではないと、臺は知る。だが、彼にその覚えはなかった。七年前の事故。そう、あれは確かに事故だった。多くのエデン関係者が死に、またSRCNSの面々も亡くなった。軍部が起こしてしまったあれは、必然でありまた偶然である――


 生野もまた、臺の反応に戸惑いを覚えた。彼も、白を切っているのではなく、本当に何も知らないのだと気付く。しかしそれがありえるのか? 生野にはにわかに信じがたい。その、二本目の刀。彼が帯びるもう一つのそれが、一体何であるかを知っている生野にとって、七年前のことをほとんど聞かされていない臺など、考えられなかった。


「まぁ、いい。もう、いい」


生野が囁く。片手で額を押さえたまま、もう一度刀を鞘にと戻した。改めて臺を見返したその時には、当初そこにあったのと同じ親密さが滲んでいる。


「わからないんなら俺が教えてやるよ。俺にとって、お前は敵じゃない」


「あんなことがあったって言うのに?」


「まあなー。俺は、一度気に入ったおもちゃは容易にゃ離さんぜー。というわけで臺。再三のお誘いになるが、どうだ? この手を、取る気は無いか?」


臺の前に、生野の手のひらが晒される。大きな手だ。これを取って歩けば、きっと楽しい。それに生野は、必ず臺を大切に扱ってくれるだろう。気も合う。いい相棒にもなれる。でもダメだ。臺はSRCNSには決してなれない。


「無理だよ」


「やっぱり、か。まぁ、予想済み」


「さすがに会うたびに言ってればわかるでしょ、いくらショウちゃんでも」


「失礼な言い草だな」


言いつつも、生野は手を下ろそうとはしなかった。依然として、臺を引き入れようと片手を見せている。


「俺たちは、ようやく十分な武力を取り戻した。だから、軍を討つ。あの日、俺たちを価値のないゴミのように殺したあいつらを許さない。そこでだ、臺。お前、エデンとして俺たちに協力する気は無いか?」


「……へ?」


エデンのままの自分として、生野が受け入れてくれると言う。臺はその魅力的な提案に一瞬、揺れた。いや、待て。ギリギリのところで理性が彼を引き留める。よく考えろ、と囁き声。どう考えてもおかしいだろう。SRCNSとエデンが協力関係を結ぶ利益とは? エデンはあくまでも、軍の系列に位置するというのに。


「どういうこと? そんな美味しすぎる話には、さすがに乗れない」


「真っ当な話だと思うんだけどなぁ。俺たちは軍に恨みがある。そしてあの日、かけがえのない人を失ったエデンも同じだ。エデンの中には、軍人を死ぬほど恨んでいる奴などたくさんいるだろう。俺たちが共闘する理由はある」


「いや、そうかもしれないけれど、でも」


「お前は知らないんだな。あの時のことを。それでもいい。俺が教えてやる。だから、早くこの手を取れ」


臺は躊躇した。自分にまさか、知らされていないことがあるだなんて。あの日のことは事故で済まされた。あの日犠牲になった者は皆、名誉ある死を遂げた。そう聞いた。そして渡された。あの人の全てを。


 生野は臺の中にある穴を埋めてくれると言う。そうすれば、七年前のことが全部わかるかもしれない。でも、でも、でも? 一体何に躊躇している?


 耳元で囁き声が蘇った。巻き戻せ。その一言で、臺の思考は全て、動きを止める。


 首を振って、臺は一歩、後ろに下がった。消え始めた夕日の中に、足を踏みこめば、そこから時間を誤った真紅が滲み出す。真実など知る必要はない。望まれたのは、巻き戻すことだけだ。


 生野は黙ってその判断を見ていた。臺の選択を、もしかすると彼は予想していたのかもしれない。ふ、と口元を解いて、刀の鞘に手をかける。抜刀の体勢だ。臺もまた体から余計な力を抜いて、いつでも彼に応じられる覚悟をした。


「いつも思うんだけどさ、お前、すげー悪い奴だったらよかったのに」


「えっ、なんて?」


急な独白に、臺は目を瞬いた。生野は顔中でにっこりと、少年のような笑顔を作る。


「そうしたら、その両腕切り落として、敵も味方も失くすのに。お前、中途半端にいい奴だから、そうできないんだよなぁ」


「急に怖い事言い出すんだから、ショウちゃんは」


「本気だぜ。お前が坊みたいな奴だったら真っ先にしてた。けどできない。だから、力まかせにその腕、こちら側に引っ張ってやる」


無垢だった笑みは途端に不敵なものにと変わる。これが、生野祥司だ。一見全く相反する物を彼はその身に兼ね備えている。そして、持て余すことなく巧みに使うことができるこの男は、やはり魅力的だった。


 瞳が輝く。髪の毛と同じくらい、色素の薄いそれは強い意思を宿して臺を見つめた。ゆるりと笑った臺に、彼も満足げに頷く。



 密使は無事に国際空港まで辿り着いた。俊哉が彼を送り届ける間、運転手は車を変えに向かう。合流後、瀬良を迎えに行く手はずだった。


 密使の背中が手荷物検査場に消えるのを見つめる。ここで、彼とはさよならだ。丁寧に、だがひっそりと頭を下げた密使に対して、俊哉も出来る限りの綺麗な礼を返した。


 急いで踵を返す。俊哉が慌てたところで、車が戻って来なければ意味がない。しかし瀬良が気がかりだった。あの場で彼を置いて行ってしまったが、無事だろうか。無事でなければ、腹が立つ。俊哉を平気だと言いくるめたのだから、自分がいなくとも大丈夫だという証拠を見せてもらわなければならない。


「それはそれで、腹が立つ」


彼がその場で死のうが俊哉には関係がない。だがそれは、俊哉の力不足の所為な気がする。逆に、瀬良が無事でいれば俊哉は彼に必要がないのだと、唇を噛むしかない。一体自分でもどうあってほしいのかわからなかった。だから、余計に気になって仕方がない。


 ともかく戻ろう。ため息をついて、俊哉は空港内を走った。平日の夕方の国際空港は、驚くほど空いていて、必死で駆ける彼の姿が浮き上がる。


 息を切らして空港を出た彼の目に停車した車が見えた。行きとは違う色の軽自動車である。聞かされていた車種と色を確認し、肩の力を抜く。扉に手をかければ、運転手は冷たく俊哉を一瞥した。


「自分は予定通り瀬良さんを迎えに行きますが、どうしますか」


サイドブレーキに手をかけた彼が尋ねた。もちろん、俊哉だって同行する。不本意ながら、瀬良は彼の隊長でありこの仕事は自分の物だ。


 躊躇のない返事に運転手は気でも悪くしたのか。無愛想に頷くと、車を発進させた。彼の指がカーステレオを弄り、ラジオを止めてしまう。意図的に作られた重たい沈黙に、俊哉はゆっくりと息を吐いた。


 瀬良がいなくなってから、彼はずっとこうだ。俊哉を明らかに敵視している。そういえば、と瀬良に見せられた作戦書を思い出した。今日の運転手は英数字隊から一人連れてきていた。彼からすれば、俊哉は根っからの余所者。それが憧れにでもある大字隊に配属され、その隊長と肩を並べているなど面白くはないだろう。


 だからと言って。ふ、と頬杖をついて俊哉は流れる街並みに視線を移す。これほどあからさまなのもどうなのか。軍とエデンの確執も知っている。よく思われないことも覚悟していた。あぁ、でも。


 俊哉は静かに目を伏せた。陰った頬に憂いが滲んで彼の肩に、アンニュインを纏わせる。誰が、ではなかった。自分を深く思い出してみて、とんだ皮肉だと俊哉は苦笑する。この偽りの楽園を蔑んでいるのは自分だ。その俊哉自身が、エデンの住人に明らかな蔑視を向けられたくないなど、都合が良すぎる。


 その自嘲を、運転手はどう受け取ったのか。軽く眉を顰めて、低い声で吐き捨てる。


「あなたは決して瀬良さんの相棒にはなれませんよ」


どういう意味だろう。瞳を正面に巡らせれば、バックミラー越しに視線が合った。俊哉をバカにしきったような彼のそれは、思いの外俊哉を落ち着かせる。このまま何か、大切なことを吐き出してくれる分には問題がない。


「それは、どういう」


「そもそも、おこがましいじゃないですか。あんたみたいな、軍出身がエデンの養成学校出しかなれないはずの、大字隊にいるなんて」


それは承知している。大字隊だけは、どんなに成績が良くともエデンの養成学校を出なければなることができない。俊哉は今回の任務のためだけに、特別派遣されたのだ。そこで文句を言われても仕様がない。


 肩を竦めた俊哉を睨んで、彼は舌を打った。お前は知らない。小さな囁き声が、俊哉の心を逆に撫でつける。そう、知らない。だから激情のままに語ってくれるのを待っている。


「英数字部隊と漢数字部隊の扱いを、あんたは知らない。俺たちはゴミだ。大字隊のように、代わりがいないわけではない。だから、幾らでも使い捨てられる」


「ならば、皆、大字隊の面々を恨んでいるのでは?」


「まさか! あんたは想像もしたことがないだろう。エデンの養成学校は、お前らとは違う。士官学校のように、生易しい物じゃない。卒業する時、残っているのは入学した時の十分の一だ。それ以外はみんな、死ぬ」


瀬良はその貴重な十分の一の一人なのか。思いもかけず残酷な数字に、俊哉は俯くしかなかった。エデンの養成学校に入学するとき、彼らは十三歳だ。そこから三年間、みっちりと訓練を受ける。確固たる能力と毅然さ、そして有り余る運がなければそこを卒業することはできない。彼らは十五になるまで、一体どれほどの死に直面するのだろう。


「だから、一度も死ぬ恐怖を味合わぬまま大字隊なんて名誉ある、そして唯一価値を認めてもらえる場所にいるあんたを、誰も許さない。覚えておけ。俺たちはあんたが瀬良さんの隊員であることを認めない。その心臓、常に狙われていると思っておけ」


明確な脅迫だった。彼の敵意に、俊哉も薄れかけていたエデンへの侮蔑を思い出す。瀬良が、美野が、あまりに普通に接してくるため忘れていた。俊哉はある意味で、敵陣に放り込まれたのと同じなのだ。


「あの人の隣にいていいのはただ一人だけだ。お前が瀬良さんの隊員になるくらいならば、生野が瀬良さんと組んだ方がいい。あの二人はずっといい相棒のようだしな。お前よりはみんなも認める」


「生野さん、というと」


「何にも知らないんだな! それでよく、偉そうに会議になんて出席できるものだ。そんなのは本人から聞けばいいだろう。だが、これだけは教えてやる。七年前を境に、あの人はもう誰も相棒にはしない。お前らの所為で起きたあれで、瀬良さんは大事な相棒を失った。エデンも、SRCNSも大きく傷ついた。だから、俺たちもSRCNSもお前らを恨んでいる」


「七年前……」


それ以来、瀬良がずっと一人で仕事を熟してきたことは知っていた。ゆえに、もともと個人プレーに長けていた彼がますますチームワークを失ったのだと。しかしそれは違うのかもしれない。瀬良自身が俊哉を隊員とは認めていないから、こうして今も、遠ざけられるのか。


 生野祥司とは、上手くやっていたようだし。


 それが、意外にも俊哉の喉の奥で引っかかった。舌で歯の裏を撫ぜる。唾を呑みこんでも、魚の小骨が刺さったようにその違和感は消えてくれなかった。


 夜に変わった高速は、様々な灯りによって輝いた。窓ガラス越しに外を眺める。瀬良を気にする気持ちはすっかり収まり、酒が抜け始めたころの気だるさのようなものが、俊哉を引っ張りこむ。


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