表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/13

1-3



 橙色の電灯。シャワールームの扉が開き、再び閉まる。乾いた床を踏む素足がタイルの冷たさに震えた。シャワーコックに伸ばされる手が、ほんのりと淡く火照りを見せる。満足げなため息。軽い擦過音と共に湯が頭上から溢れ出した。電灯のオレンジ色を弾き飛ばして、飛沫は輝く。


 タイルの目に沿って湯が排水溝にと流れて行った。電球に照らされたそれは、透明とは言い難い。悲劇には似合いそうにない甘い果実の色が、床一面を浸した。小さな歌声がシャワールームに響く。


 肌を滑る水の動き、口遊まれる愛らしい歌、個室を世界から切り取ろうとする水の音。タイルの上に広がった夕焼け色が瑞々しく、ところがふと、その装いを変えた。気だるげで艶やかな花びらのような、紅に。


 歌声が湯気に咽込む。苦しげな呼吸と咳に光は一掃された。足に触れる水が赤々と染まって、匂いが立ち込める。知っている。忘れることはできない。その感触も香りも、全て。触れ合うたびにその身の中に蓄積されていく。


 咳はようやく治まった。大きく息を吐いて、彼は額を壁に押し付けた。心音が狂ったようにうるさい。髪から雫がゆるりと伝わる。それが滴り落ちるのとほとんど同じ速度で、彼は瞼を下した。


 橙色の照明が滲む。光が離散して、宝石箱のようにそこだけ輝いた。床を張る湯は無色透明のただの水。


 黒い短髪から水が転げ落ちた。たくさんの音のその中で、わずかにそれは響く。唇は慣れた仕草であの日の囁きをなぞった。重たい言葉は水の中で共鳴することもなく、一人、静かに朽ちていく。


「……そして、巻き戻せ」



 にわかには信じられないが、数日も経てばこの生活に慣れてくる。エデンでの一日はごく単調なものだった。出勤すると瀬良はトレーニングの真っ最中でおらず、始業時間を少し遅れてから部屋にやってくる。一緒にその日の業務を確認し、また訓練やら何やらに耽る。


 そうしている内に、瀬良の扱いも心得てくる。基本的に煩わしくない男だ。生来一人で過ごすのが好きなのか、余計な口は利かない。二人で部屋にいたとしても、そうそう話しかけてこないのはいい。若干、通じない話に戸惑う事もあるが、気にするほどでもなかった。


 その朝、俊哉が出勤すると瀬良は珍しく部屋にいた。第参部隊、とタイプされた扉を開ければ、彼が振り返ってくる。控えめな挨拶にも瀬良は嬉しそうに目を細めた。


「基礎トレはどうしたんですか?」


「もう終わったよ。やらなきゃいけないことがあったから、早めに来たんだ」


「やらなきゃいけないこと?」


いつもとは違う幕開けに俊哉の眉根が寄る。俊哉は宛がわれた机に鞄を下して、引出しの鍵を開いた。そこからすっかり慣れた調子で、二丁、拳銃を取り出す。


「今日は午後から定例会議で、午前中の内に仕事の作戦書を作っておかなきゃいけなくて。この前、北薗さんが言ってたの覚えてる? 本格的な仕事って奴」


「あぁ、あれを」


あまりに瀬良がその話に触れないため、うっかり忘れていた。しかし当の本人はきっちりと覚えていたらしく、俊哉の知らぬ間にある程度の作戦は立てたと言う。瀬良は作戦の覚書を俊哉の方にと滑らせた。


 所要時間に経路、それから見知らぬ単語が幾つか。ちらりと裏を覗いて見れば、ピザの広告だった。平穏なその裏で、俊哉にはまだわからない物騒な事が繰り広げられる。


「これは、どんな仕事なんですか?」


尋ねると、瀬良はメッセンジャーだと答えてくれた。つまり何かを届けに行くのが、今回の仕事である。所要時間、経路というのはそこで納得が行った。しかしながら、ただの配達をエデンに回してくるというのは、一体どういうことだろう。


「瀬良さん、その、なぜこれを自分たちに?」


「これって?」


「この、メッセンジャーの仕事のことです。通常の配達ならば、ここに回してこなくてもいい仕事のはずですが」


「あ、なるほど。うーんと、そうだなぁ、運ばなきゃいけないのはただの手紙や小包じゃあないんだよね。今回もそう。ごめん、ちょっと待ってね」


そう言うと、瀬良はキーボードを軽やかに叩く。マウスを操作して、パソコンから俊哉を振り返った。鈍い音を立てて、部屋の隅でプリンターが作動する。


「詳細は今印刷中。ざっと説明しちゃうと、今回は密使を国際空港まで運ばなければいけなくって。でもそういうのってやっぱり大事だからこそ危険でしょう? だからね、俺たちみたいな丈夫で使い勝手のいい、金庫がいる」


「つまり、護衛ですか」


「それに近いかも。あぁ、でも、確実に違うことが一つ」


瀬良が席を立って印刷した仕事内容を俊哉に差し出した。北薗から瀬良宛へのメールをそのままプリントアウトしたらしい。砕けた口調のあいさつ文の下に、一転して堅苦しい言葉で仕事内容が語られる。


 来週の日付の隣に、目安となる到着時間。交通手段は自動車、運転手は英字隊より派遣。行き先に最優先事項。想定できる脅威。それらがずらりと並んでいた。


「この、最優先事項って……」


そこに密使と思われる人名は記されていなかった。代わりにあるのは、密使が運ぶのであろうと予想される書面。驚いて瀬良を見上げると、彼はやはり何でもないという顔で頷いた。それで当然だと言わんばかりの態度に、俊哉は久方ぶりに戸惑いを感じる。


「護衛は人を守るけれど、あくまでも俺たちはメッセンジャーだから。彼らが運んでいる物さえ守れればそれでいい。最悪、人は見捨てる対象で書簡を最優先に動くよ」


「そんなこと……」


「どうしたの? 俊くん」


不思議そうに瀬良が首を傾げた。それに俊哉は、抗議も更なる問いも浮かばなくなる。いえ、と首を振って、瀬良の説明の続きを待った。


「今回は内容があれだから、SRCNSの襲撃を予測して行かなきゃまずい。だから、このルートで通って行く。平日の夕方だから、渋滞を考慮して少し早めの出発になるけれど」


作戦書に添付した地図上を、瀬良の指先がなぞって通り道を示した。しかし、これでは大通りばかりだ。重要な密使を運ぶのならば、人目のない裏通りを選択すべきではないのか。俊哉の戸惑いを、珍しく瀬良は尋ねる前に察した。


「こういう風に、確かに裏通りを行くのは目立たなくていい。けれど、人通りのないところというのは、どうしても襲撃を受けやすい。それならば、渋滞にはまっていた方がずっと安全なんだ」


人が大勢いるところで何かを仕掛けるのはやり辛い。見られる、という危険性に続き、動きづらいのだ。また、裏通りは気が緩みやすい。人など来ないと思ったその隙を狙って、SRCNSが動く可能性は大だ。彼らはどこそこのチンピラなどとは違う。プロのテロリストなのだと、瀬良は暗に言葉に含める。半ば言いくるめられた気持ちで、俊哉は頷いた。


「でも表通りも安心はできない。動くのはおそらくショウちゃんところだ。ショウちゃんは結構無茶苦茶するから、どんな場所でも仕掛けてくる。そしてそれでも成功させるのが彼」


SRCNSの部隊の一つを仕切るのが生野祥司。瀬良はかなり、彼を高く評価しているようだ。そして、生野の方も非常な関心を瀬良に抱いている。俊哉はいつだか、彼らが何度か刃を合わせたことがあると言っていたのを思い出した。


「正直、何度やってもショウちゃんの出方はわからない。むしろあの人はどうでもする。だから最初からショウちゃんの襲撃を予想して、それが避けられないということにしちゃう。そこで、襲撃後の行動」


瀬良は作戦書を指で叩いた。俊哉の視線がそちらに動くことを見てから、書かれる言葉の下を指でなぞり上げる。生野以下を相手取るのは瀬良のみ。俊哉はそのまま護衛として、書簡及び密使を空港まで送り届ける。

また、だ。そう、俊哉は唇を噛みしめた。


 前回のショッピングモールの時もそうだった。瀬良が一人で全てを解決しようとする。今回はあの時よりは酷くはないが、根本は同じことだ。瀬良にとって俊哉は仲間ではない。ただの助太刀程度としか思われていない。だから、一緒にどうにかするという考えには至らない。


 確かに瀬良に見合うほど、俊哉の能力は高くはない。だが、瀬良に何もかもを背負わせて、自分はのうのうと空港に向かうなど考えられるだろうか。それならばいっそ、邪魔だから来るなと言われた方がいい。


「俊くん?」


黙り込んだ俊哉を瀬良が心配そうに窺う。不安? 彼の問いは全くの的外れだ。不安なはずがない。恐ろしいはずがない。俊哉は今エデンに下っているが、それでも根は帝国軍人。戦闘になろうとも、死を、怪我を厭う訳がなかった。


 ところが、答えぬ俊哉に瀬良は随分と勝手に納得したようだ。そうだよね、と知った顔で頷いて、柔らかに眉を下げる。


「やっぱり怪我するとか考えると怖いよね。でも大丈夫! 僕がどうにかして、俊くんには危険が及ばないようにするから!」


俊哉はそんな風に気遣われるような、脆弱な生き物ではない。断じて、そうだ。怒り任せに机を叩く。驚いた瀬良の瞳が俊哉を見つめて揺れた。許せるはずがなかった。誇り高き帝国軍人を、掃き溜めの中で恥も知らずに生きるエデンの住人が、こんな手を使って辱めるのなど。


「恐れてはいません。瀬良さん、俺は能力こそ低いですが軍人としての志は高く持っているつもりです。死や怪我に怯えて為すべきことを為せないなど、ありえません」


「俊くん?」


怒気を精一杯抑えた声でそう告げた。瀬良の眉がすっと、眉間に皺を刻む。


「何だっていいです。だから、俺にももっと瀬良さんの役に立つように作戦に参加させてください」


そう付け足せば、瀬良は困った子供を見るような瞳で深く、ため息をついた。違うんだ。否定の言葉が一つ、机の上に転がる。何が違うと言うのだ。俊哉は怒りを上手く処理できずに、瀬良を思い切り睨みつけた。役立たずなどではない。絶対に、与えられた任務はこなして見せる。


「別に俊くんを軽く見ている訳じゃない。でも君にとってこれは初めての仕事だ。一体何がどうなるかも、ショウちゃんの力も知らない。だから今回ばかりは経過を見てほしいんだ。分裂して、空港まで密使を届けるのもはっきり言って安全ではない。なるべく書簡が届くようにショウちゃんたちを食い止めるけれど、それが全て可能とは限らない。もし僕がいなくなった後、何かあった時に応じるのは俊くんしかいないんだ」


ある意味、瀬良よりもずっと危険な役目かも知れない。そう彼は、落ち着いた調子で諭した。瀬良の説明は全く真っ当であり、また誠実だった。ささくれ立った俊哉の心を、そうっと凪いでくれる。反発したことが恥ずかしくなって、俊哉は俯く。彼の方とは二つしか変わらないというのに、瀬良は老人のような眼差しで若い彼の苛立ちを受け止めていた。智恵とも諦めともつかぬ物が、その中にふと滲みこむ。


「それから、悲しいけれど俊くんはもう軍人ではない。ここに足を踏み入れたあの瞬間から、君は特権を手に入れて、それと同時に大切と言われるものを失った。そのことを正しく理解できないうちは、君を戦闘に投じたくない」


静かな瀬良の声に、俊哉は共犯者に言われたことをなぜか思い出した。

彼はいつもの通り、俊哉をせせら笑ってから囁いた。お前にはまだ、人を殺せない。銃の扱い方くらい知っている。そう反発した俊哉を更に笑って、共犯者は首を振る。実際にやったことはあるのか。ないだろう、と。使い方を知っていることと、使うということは全然違う。彼はそう言い切って、憐れむように俊哉を眺めた。


 きっとそれと同じことを瀬良は言っている。俊哉が知っている特権とその代償は、実際に経験するまでわからない。けれども、そんなことを待っていたらいつになる? 瀬良が直々に教えてくれると言うのか。

まだまだ不満はあったが、これ以上は受け付けないと言わんばかりに瀬良は目を伏せた。しおらしくすらあるその仕草に、俊哉は口を噤む。了承の旨を小さく呟けば、ホッとしたように瀬良は頬を緩めた。


「とりあえず、今回はこれで。まだ変更はあるかもしれないし、細かいことは許可を得てからね。じゃあ、午後の会議までいつも通りでいいよ」


「会議では何を?」


よく考えてみると、ここに来て初めての会議だ。鬱屈とした気持ちが、わずかに晴れる。エデンの重要機密事項でも語ってもらえれば、それに越したことはない。しかし瀬良は首を傾げるばかりだった。俊哉は彼の様子に、会議の内容を知った気分になる。


「いつもの報告会みたいなものだけど……、ま、行けばわかるよ。普通、隊長と副隊長しか出席しないんだけど、第参部隊は副隊長いないしそもそも二人だけだから、俊くんが出ても問題ないはず。ということで、またあとで、だね」


黙って顎を引けば、瀬良は立ち上がった。机の上から作戦書を取り上げて、出口にと向かう。会議は午後からと言っていただろうか。瀬良は作戦書の提出後、そのままトレーニングに向かうだろう。場所や時間は昼に顔を見合わせたときに訊けばいい。


 一人になった部屋で俊哉は大きく息を吐いた。天井を見上げて、先ほど自分が考えていたことを振り返る。怪我も死も恐れはしない。けれども、それは本当だろうか。単に今まで俊哉が、酷い怪我も死を感じることもなかっただけではないか。


 心が弛む。バカバカしい、と自分を押しのけて、俊哉は乱雑に髪を掻き上げた。帝国軍人にそのような思考などありえないのだ。士官学校以来、散々に教え込まれた理屈で、ふと見つけた不安に蓋をする。



 会議は九階の部屋で行われた。ぐるりと大きな円卓に人がまばらに座っている。瀬良は左の端を指差して、そこからゆっくりと自分たちの方に滑らせた。あそこからあちらの端までに座るのが、大字隊となる。第漆部隊を除いた壱から玖の隊から二人ずつ、合計十六人がそこに座る。


「それから、右側。あっちからあの辺りまでが漢数字隊。隊長が一名ずつ出席するよ」


瀬良の説明に俊哉は頷いた。漢数字隊は大字隊の一つ下に位置する部隊だ。国内での活動が中心となる大字隊に対して、漢数字隊は国外に赴くことが多い。数は一から九までで、大字隊と同じであった。


「英数字隊は出席しないんですか?」


エデンの部隊は三種類ある。先述した大字隊に漢数字隊。そして、俊哉の言った英数字隊だ。最初は皆の多くがここに配属される。漢数字隊のフォローが中心であり、漢数字、大字以外の隊員はここに所属した。人数が必要な際は、大字からも協力要請があると言うが、俊哉にはほとんど関わりのない人々である。


「うん、英数字の隊が出席する会議はないよ。今回は年度初めだから結構大きめで、第一総括部も第二総括部も一緒だし、しかも漢数字もいるけれど、やっぱり英数字隊はいない。なんでって言うと、彼ら主導の作戦がないからなんだよね」


「なるほど。では、いつもはここまで多くはないんですか?」


「そう。いつもならば総括部ごとだし、大抵は大字のみかなぁ。漢数字も結構大事な仕事してるんだけど、彼らって広く出て行っちゃうからあんまり集まれないんだ」


各隊の隊長と副隊長が揃った姿を見られるのは、年に二回。年度末と年度始めの時だけなのだと言う。貴重なその一回が、今日の会議だった。


 話をしている内にぞくぞくと人が増えていく。美野が正面の外れた席に三人の部下を伴って座った。何やら、難しい顔でショートカットの女性に耳打ちをしている。着ているTシャツは相変わらずであるのに、そうしていると彼が普段の倍優秀に見えるから驚きだ。もう一組、四人が美野の隣の席に腰を下ろした。彼らはちらりと視線を交わし、軽く会釈をしあっている。


「あれは漢数字の方の第七部隊だよ。英数字以外、七は情報部系統なんだ。今、千歳と話しているのが第漆部隊の副隊長。円卓につくのはメインの僕ら、武力隊。この会議が、僕たちの仕事ぶりに対してお小言を貰うっていう物だからなんだけどね」


「お小言?」


「そ、大体もっとうまくやれっていう話。それに対してどうにか言い訳してやり過ごすっていう会議なんだ。そうだ、大字隊の方は二人いるけれど、隊長と副隊長をすぐに見抜けるよ。基本的に発言者である隊長が右に座る」


「何の話?」


淡い音を聞いた。気配のなさに相変わらず気がつかない。獲物を狙う猫のような足取りで、その男は近づいた。しかしやはり瀬良は気づいていたようで、自分の隣に立った彼を見上げて微笑んだ。つっつん、呼び声に応じて坊は目を細める。


「やあ、うっちゃん。ご機嫌は?」


「調子いいよ! あ、春日くんも久しぶり」


瀬良の言葉に坊の隣に座った男が硬い表情で会釈をする。彼が坊の第肆部隊の副隊長だろうか。俊哉の視線に気づいた春日は、そのままの顔でぺこりと頭を下げた。まるで興味がない、という様子である。


「うっちゃん次の仕事の予定は?」


「うーん、と、来週だったかな。つっつんの方は、暫く大きいのないんだったっけ?」


「そう。どうでもいいのが幾つか。護衛とか、うちがやることでもない」


仕事の話をし始めた二人を見て、俊哉は坊が左に座った理由に気づいた。本来の席である右に座れば、春日を間に挟んでしまって瀬良と話ができない。彼は自分の都合のためならば慣習など無視するだろう。坊らしい行動だ、と俊哉は苦く笑った。


 ピンヒールが床を強く叩く。惹かれて顔を向ければ、七緒が北薗と共に入室していた。中央の右側に彼女を伴って、北薗が座る。左側に着席している男は、第一総括長の内藤だろうか。北薗と二三言葉を交わして、立ち上がった。会議室が途端にしん、と口を噤む。


 会議が始まった。


 各隊ずつ対応の意図や反省点などを指摘、説明をさせられ、改善策を講じられる。長く、単調な時間だ。順番は漢数字隊から恐らく問題の大きさごとに。名指しされる隊もあれば、されない隊もある。退屈を持て余して俊哉が周りを見回せば、皆も欠伸を噛み殺してばかりだった。


「第参部隊、瀬良臺」


不意に瀬良の名前が呼ばれた。知っていた、という顔で彼は立ち上がる。視線が静かに瀬良に寄った。揺れる瀬良の手のひらで遊ぶ坊は上機嫌だ。


「先日のSRCNSの件についてですが、あの場で抜刀せねばならなかった理由をお聞かせ願いますか」


小さく坊が舌を打った。俊哉もわずかに困惑する。あの場の瀬良の対応は適切だった。あれ以外に何かできるとは思えない。しかし瀬良は動じなかった。彼には珍しいほど淡々とした調子で、その件についての説明を始める。


「ご存じとは思いますが、人質は十八人。標的は五人でした。その内、四人は小火器を所持。人質は全て一般市民です。殺めてはならない者に分類されています。そのため、最優先事項として人質の無傷での解放を選びました」


瀬良が一旦口を閉ざす。落ち着いた彼の様子に北薗は柔らに微笑んだ。その隣の七緒は、聊かつまらなさげにそっぽを向く。


「四人の武力に対して、こちらは二人。加えて、永戸隊員はまだ武器を所持しておりませんでした。事実的に戦力となったのは自分のみ。人質の安全を最優先するとなると、抜刀せずに事を片すのは難しいように思えました」


「しかしながら、一般市民の前で抜刀し、流血沙汰を起こしてしまったのはどうかと」


追求が司会の男から飛んでくる。腕を組んだ坊がまた舌を打つ。彼の鋭い視線が鬱陶しいと男を睨んで威嚇するも、彼は坊に動じることなく瀬良を見つめる。瀬良もまた、男を静かに見返した。


「えぇ、全くその通りだと。なるべく事を大きくしないように努めたつもりでしたが、結果的に自分が至らなかったため、予定よりも大事になってしまいました」


「次回からはより適切な処置をお願いします」


冷たい言葉だ。あの場の緊張感、状況、そして恐怖。それらを全て無視して、淡々と要求だけを突きつける。その態度に、俊哉は怒りよりも当惑を覚えた。これではまるで、瀬良たち隊員は上層部のいい駒ではないか。


 しかし瀬良は一礼をして椅子に着席した。彼は慣れている。この扱いも、求められるものの高さにも。先ほど、瀬良が小言だと俊哉に零していたのを思い出した。きっと、ここに集まった者のほとんどが、この光景に慣れているのだろう。そして、大して気にすべきことでもないと、胸の内で笑っている。


 現場に出ない者の話など、聞く価値がない。共犯者はいつだか、俊哉に意地悪く呟いた。


「第肆部隊、坊恵一(つつみ けいいち)


坊の名前が呼ばれた。瀬良の隣に座る男に、皆の視線が一旦向く。どうしてか、司会を務める男は一瞬だけ彼の表情に怯えた。坊は立ち上がらない。代わりに、平淡な口調で春日を一度、呼ぶ。立ち上がったのは春日だった。


「先日の作戦四七二番に際し、標的を殺害に至った経緯を説明していただきたく思います」


殺害という単語にやや、会場はざわついたかのように思えた。瀬良もまた、珍しそうに片眉を上げる。だが、彼らの視線は坊には向かない。前でファイルを片手に進行を担う男に注がれた。坊の口元が、不意に緩む。


「その件に関しましては……」


「申し訳ないが、この話は坊隊長直々に説明願いたい」


春日の言葉を第一総括長である内藤が遮った。場が、静まり返る。坊は何の感情を見せない瞳でまっすぐに内藤を見つめると、おもむろに椅子を蹴った。戸惑う春日に座るように命じて、顎を引く。定まった視線は上司である内藤を射抜いた。


「説明せねばならない事が、不明瞭のように自分には思われるのですが。標的を殺害するに至ったことがどのように問題だと?」


その時俊哉は、何人かが尤もだと頷く様を見た。主に漢数字隊の面々である。大字隊がどのように反応したのかは、見づらい位置にいたためかもしれないが、彼らは一様に動揺も何もしなかった。しれっと、冷たい仮面をかぶったまま正面を見つめている。


「今回の作戦において、標的を殺すことは命じられていなかったはずだ。あくまでも捕縛、そして連行を目的としていた。それは説明があったはずだと思うが?」


司会を差し置いて、内藤が坊を追求する。節々に垣間見える厳しさにも、彼は余裕を持って対応した。どちらが上司かわからない。先ほど俊哉は瀬良への対応に、隊員は駒のようだと感じた。なのに坊と内藤を見ていると、まるで内藤が坊の駒のようだ。彼の美しい手のひらの上で、微笑みを浮かべながら転がされている。


 そして、ふと気づく。恐らく坊はこの状況を予想して標的を殺めた。彼はここで内藤から何かを引き出し、しかもそれを滅多にないこの機会で皆に晒そうとしている。


「はい、説明は聞いております。自分たちも捕縛、そして連行に努めました。しかしながら、標的の抵抗に遭い、やむなく殺害したと報告したはずです。これ以上も、これ以下もありません」


きっぱりと言い切った坊に、内藤の顔が渋く歪んで行く。一方で、坊はどこまでも余裕を持っていた。艶めく声にぞっとするほど綺麗なままの笑み。絶対的な支配者の役割を担って、坊はそこに君臨する。


「それとも、内藤第一総括長。あなたは我々が殺めてはならない者が存在するとでも、仰っているのですか?」


内藤が黙り込んだ。空気は完全に坊の物となっている。漢数字部隊はそろって不審の目を総括長二人に向け、大字隊の面々も冷ややかな視線を浴びせた。


 なんだろう、この雰囲気は。一人、取り残された俊哉は縋るように隣の瀬良を見る。瀬良の頬は凪いでいた。いつものような柔らかさはないが、厳しさもない。あくまで場を見守る立場にいる彼に、俊哉は不覚にも安心する。彼がゆるりと息を吐いたと同時に、内藤が深い嘆息を零した。


「……そうとは言っていない。一つだけ訊く。坊」


「はい」


「本当に、やむを得なかったのだな? 標的は抵抗を図ったと」


ゆったりと、坊は頷いた。内藤の表情は変わらない。


「そうするしかならない状態に至ったと、言うのだな」


「えぇ、それが最適であるという状況でした。我らの神に、誓いましょう」


坊が神を持ち出したことに、内藤が折れた。


 一体どの神を指すのか明確になったことはないが、エデンの住人にとって神は重要な存在だ。なぜなら彼らは、神の庇護の下にあるエデンの住人。何かを介し、儀式や決まりごとをもって神と接する人間とは明らかに違う立場にいる。その方法によって違う宗教は、さして問題ではなかった。大切なのは、神が存在すること、それだけである。


 内藤が片手で坊に座れ、と命じる。頷いた彼は形ばかり美しい礼をして見せると、優雅に席に着いた。会議場の空気が揺れる。


 司会の男が再び、別の隊を呼びあげる。また、単調で窮屈な時間が始まった。 


 俊哉はこっそりと坊を盗み見る。恐ろしい男だ。改めて、俊哉は坊をそう評価した。坊を支配する者など、この世にはいない。彼にとって人類は二種類しかいないのだ。駒か、己か。


 見つめるその先で坊が動いた。視線が円卓の表面を撫でつけて、ゆっくりと上がって行く。誰かの答える声を聞きながら、必死で俊哉はそれを追いかけた。その経路を楽しむようにして、瞳は弧を描き、左を向く。ぼうっと、遠くを見やる瀬良を捉えて、その視線で絡め取った。ゆるゆると、坊の眼が細められる。


 幸せそうだ。俊哉は胸の中に浮かんだ言葉を見つけて、困惑する。なぜ、坊がそれほど瀬良にすり寄るのかがわからない。何にも執着のなさそうな男が、なぜあれほど彼に。


 痛みに声を挙げそうになった。だがそれは幻覚だ。ハッと振り返れば、先ほどまで自分がそうしていたように坊がこちらを見ていた。いや、違う。確かな悪意を持った瞳で、俊哉の横面を刺し貫く。そのあまりの鋭さに、俊哉は惑うしかなかった。


 日が徐々に傾いて行く。決まりきった気だるさを抱えながら、会議はまだまだ終わらない。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ