1-2
向かいに座る老女が抱えた花が美しい。艶めかしい赤だ。目を刺すようなその色に、俊哉はそっと瞼を伏せる。電車の音が胃の奥でドスンドスンと足踏みを繰り返した。平日の午前中、車内は空いている。
隣に座る瀬良は中吊り広告を眺めていた。一つ一つ、舐めるように見回して、時間を潰している。会話はない。そのことに俊哉はほっと胸を撫で下ろした。
指先が、神経質に着込んだパーカーの裾を引っ張る。このパーカーも中のTシャツも、更に言えば靴に至るまで、全てが美野の物である。借りておいてなんだが、どうにもTシャツの柄が気になって仕様がない。瀬良に借りればよかった。そう後悔して、俊哉は先ほどのやり取りを思い出した。
総括長室を後にした二人は、暫し廊下で互いを見合った。というより、俊哉が一方的に瀬良の視線にさらされたに近い。目を逸らしたら負け。なぜかそう意固地になってしまい、彼をじっと見返していると、瀬良は渋い顔で首を捻る。
「俊くん、身長どれくらい?」
「一七五センチくらいだったと」
「そっか……」
そう言われて気がつく。瀬良はざっと見積もっても俊哉より十センチは低い。彼の服を着るのは難しいだろう。それで瀬良は先ほどから頭を悩ませているらしい。時折聞こえる名前は、貸してくれそうな人だろうか。
「いえ、自分はこのままでもいいのですが」
ワークパンツにパーカーという装いの瀬良とでは、少しちぐはぐかもしれない。しかし、そんなことは気にしなければいいだけだ。俊哉の考えを見抜いたかのように、瀬良はやや弱い顔で首を振った。
「普段、目立っちゃだめなんだよねぇ、僕たちは。なるべく、誰の記憶にも残らないようにしないと、だから」
本来存在しないものとされるのが、エデンの住人たちだ。だからこそ、外に出る時は必要以上の気を配らなければいけない。どこにでもいる、特に気にもかからないような、そんな姿でなければならない。瀬良はそう説明すると、頬を掻いて言い訳のように呟いた。
「それでも何かあった時動くのは僕たちだから、その時は仕方ないんだけど。ま、いいや。それより、貸してくれそうな人、見つけたし行こうか」
頷いた俊哉に笑いかけて、二人は第漆部隊の部屋に向かった。そして美野に服を貸してもらったわけだったが、気がかりはやはりこのTシャツだ。なぜか美野は奇妙な柄のTシャツを大量に保持しているらしく、一番の気にいりだと言って持ってきた物に、俊哉は凍りついた。白地に毛筆で『新鮮牛乳』と大きく書かれている。
「それから、靴と……」
それ以外がまともなのがまた辛い。全てがおかしければ、これだってさほど目立たなかったかもしれないのに。にこにこと穏やかに笑って美野の用意を見る瀬良に、俊哉は殺意すら芽生えかけた。
「……瀬良さん、なんで美野さんなんですか」
俊哉の問いは存外、恨めしく響いたようだった。瀬良が彼を見上げて、びくりと肩を揺らす。
「えっ、だって、一七五センチでしょ? 千歳はちょっと大きいけど、小さいより大きい方がいいだろうし」
「だからって言って、他にいなかったんですか? ほら、一七〇を越えていれば誰だってよかったですよ」
むしろ、美野の服は少し大きい気もする。俊哉が見上げるくらいの背丈だ。瀬良と美野が並ぶと、遠近法の間違った絵を見ている気分になる。
「うーん、今、確実にここにいて、それで快く服を貸してくれそうな一七〇センチ越えの知り合いっていうと、やっぱり千歳くらいしか」
つっつんは無理だろうし。瀬良の呟きを拾って、美野はその通りだと頷いた。鮮やかな配色のスニーカーを彼は俊哉の前に置く。Tシャツ以外のセンスがずば抜けていいのが、俊哉には腹立たしかった。
「坊は人に物を貸すタイプじゃないのな。臺には別かもしれないけれど。でも、身長的にいうとあいつがベストだった?」
「そうかも。つっつん、どれくらい?」
「お前より、拳一つ半くらい高い程度」
すると、俊哉よりわずかに低いくらいか。坊、と話題に上る人を想像しながら、俊哉は靴を履きかえた。
「その、坊さん、とは?」
声を抑えて尋ねた俊哉を、二人はそろって振り返った。彼を思い出してか、美野はやや渋い顔を。瀬良は変わらぬ笑顔で疑問に応じる。
「つっつんは第肆部隊の隊長だよ。第一総括部になっちゃうから、フロアはここじゃなくて九階の住人だね。たぶん、その内会えると思う」
「ま、会わない方がいいと俺は思うけどね。坊《つつみ》は基本的に性根がアレ」
絶妙に濁した美野に、優しいじゃんと瀬良が突っかかる。坊は随分と人によって印象が変わるらしい。別に会わなくてもいい。俊哉は喉の奥でそう吐き捨てて、最後にパーカーを羽織った。新鮮牛乳の文字が見えないように、首元までファスナーを引き上げる。
「ん、嫌なところない? 大きいとか、小さいとか」
「それは平気です」
気にいり、と紹介されては、シャツが嫌だとは言い難い。俊哉の言葉に満足げに頷くと、彼が脱いだ服を持ち上げた。柄はさておき、快く貸してくれた美野に礼を言えば、彼は緩やかに微笑んだ。面倒見がいいのだろうな。美野の背中を見て、俊哉はそんなことを思う。
「じゃ、そろそろ行こうか。あんまり遅いと、七緒さんに怒られるかもしれない」
「わかりました。俺たちは、どこに」
「そうだねぇ……」
呟きながら、瀬良はメモを取り出した。貰って三十分と経っていないのに、既にぐしゃぐしゃなのはどうしてだろう。指の先で皺を伸ばしつつ、瀬良の瞳がメモを追い駆ける。隣から覗き込んだ俊哉も、改めてそれを見つめた。
W‐99、W‐PP、HK‐45……。
他にも幾つか、アルファベットと数字が連なっていた。その下に、ありふれた日用品の名前が並ぶ光景が奇妙で仕方がない。これはなんだろう。瀬良に尋ねるより先に、彼が結論のために口を開いた。
「こっちはどこでも帰るからいいけど、上は引き取りに行くから行く場所は一つしかない、か。電車でちょっとかかるけど、すぐ傍に大きなショッピングモールがあるからちょうどいいかな?」
「この、上のはなんです?」
「これは型番だよ。たぶんだけど、俊くんのじゃないのかなぁ」
「俺の?」
一体何だろう。見当もつかない俊哉を、瀬良の方が不思議そうに首を傾げた。拳銃だよ。そうあっけらかんと言われて、目を瞬く。
「俊くんは小火器専門だよね? 君のための拳銃を取りに行くんだと思う」
「俺のための? わざわざ?」
「そりゃそうだよ。だって訓練用でもなければ、滅多に使わない飾りでもないんだから」
当然、と言い切られてもわからない。確かに俊哉は基本的に拳銃を使う。軍の訓練でも、射撃は人一倍得意だった。自信はある。拳銃だけでなく、もっと他の物だって扱える。けれども自分専用の物など想像もしなかった。
「基本的に、エデンはみんな自分の物もっているよ。共有なわけでもないし、みんなと同じ型っていうのもない。好みの物を少しずつ、換えが効くように持っている人が多いかな」
「瀬良さんもですか」
「うん、換えはないけどね」
それで思い出した、と瀬良は手を打った。
「刀を持ってくるよ。俊くんは先に、下に行ってもらってもいい?」
「刀なんて持ち歩いていいんすか」
スーツより帯刀している男の方が目立ちそうだ。そもそも、警察が黙っていない。すると瀬良はやや得意げな、というより悪戯小僧の瞳で笑った。問題ない、と勿体ぶるときの言い方をする。
「いいから、いいから。大丈夫、どうにかなる」
勝手にそう言い切ると、瀬良は猫のように素早く身を翻した。俊哉が何か言うより先に、扉を開けていなくなってしまう。どうにかなると断言したのだからそうなのだろう。ため息を零した俊哉は、踵を返して一階にと向かった。
電車が止まったことで我に返った。妙な不安に駆られて隣を見ると、瀬良は相変わらず中吊り広告を見ている。彼の足元には刀袋に入った真剣が。そうすると、彼が自慢げに言った通り、竹刀でも入っているようにしか見えない。瀬良の容姿と相俟って、彼らは異様なほど自然に馴染んだ。剣道部の学生、くらいにしか誰も思わないはずだ。
視線を正面に戻せば、花の艶も跡形も残さずに件の老女は消えていた。どれほどぼんやりしていたのか。自分に呆れて、俊哉は苦みを奥歯で磨り潰した。
轟音と共にトンネルに電車が滑り込む。光のきらめきが一度に消滅して、暗闇の向こう側に並んだ彼らの姿が映り込む。鮮やかな色を纏った瀬良の隣に座る俊哉。借りた美野のパーカーの深い紺色が闇に馴染みこんでいた。いや、服の所為ではない。俊哉が、と言う訳でもなく、瀬良がだ。隣に座る少年じみた男は驚くほどに、鮮麗な色彩を帯びている。それに、否応なく誰もが目を奪われる。
こんな人が目立たないはずがない。出る前に散々気を付けた事柄が、全て無駄のように俊哉には思えた。一切の無駄を削ぎ落とした横顔を瞳に映す。斜めに払われた前髪の下で、きらめく眼が動いた。俊哉を見て、瀬良は首を捻る。
「あと、二つで着くよ。疲れてない?」
「あ、いえ、平気です」
よかった。そう零してまた、瀬良は車内に視線を滑らせた。ぐるりと大きく一周してから、目は中吊り広告に戻って行く。
奇妙な男だ。俯いた俊哉は胸の内で零す。鬱陶しいほど子どもっぽく、厭わしい存在のはずなのに、腕を引かれて止まない。魅了される、彼が懐に秘めた花々に。
――ほだされるなよ。
彼の声が、耳元で蘇った。そうだ、瀬良に懐かれるのは構わないが、自分が惹かれてはいけない。
一瞬でも目を奪われた自分が愚かしく、俊哉は軽く唇を噛みしめた。目を瞑って、座席に背を付ける。鼓動のような電車のリズムが心地よい。窓の向こうから真っ白の光が差し込んで、俊哉の頬を柔らに照らした。
人が揺らめくショッピングモールをのんびり歩く。太陽はまた空での居場所を変えた。正午が近づいたためか、到着したときよりも若干買い物客が増えている。
店や人を眺める俊哉の隣で、瀬良がメモを睨みつけていた。メモにあった買う物は大半済んだはず。最初に引き取りに行った品物は全て俊哉が持っている。その他のカップやポットなどは瀬良の足元で揺れていた。あとは帰るだけだと思うと、心なしかホッとする。右手の紙袋の中身が俊哉には気がかりで仕様がない。
引き取りに行ったそれらは、瀬良の言う通り全てが拳銃だった。どれもドイツ製の物で、俊哉が訓練の際に好んで手にするものばかりである。一体いつ、そんな疑問を投げかけても答えはないに決まっていた。ならば、訊かないに越したことはない。
「うーん、と。他に欲しいものはない? 何でもいいけれど」
「いえ、別に」
コップがあれば十分だろう。別にそこに住むわけでもあるまい。呆れ気味に首を振る俊哉に、瀬良はやや不満げだった。本当に? そう訊き返されて、再度頷く。
「俊くんがいいって言うならいいんだけど。ま、足りないと思ったらまた買い足せばいいのか、な? じゃあ帰る?」
「えぇ、早めに帰りましょう。午後の予定はどうなるんですか?」
今朝北薗が言っていた本格的な仕事のことを聞いていない。午後はそちらの方に移って行くのだろうか。思案を巡らす俊哉の隣で、瀬良はうーんと首を捻った。
「そうだなぁ、今日は特に仕事がないから、午後はいつも通り……」
訓練かな。瀬良がそう言いかけた時だった。平和なショッピングモールを打ち壊すような、低い銃声。ハッと俊哉がそちらを見返った隣で、瀬良が瞬時に動く。肩に負った真剣を下すと、いつでも刀袋から抜けるように持ち替えた。今までの呑気顔などどこにもない。油断なく警戒した瞳が、ゆっくりと辺りを見回す。
「今のは」
「銃声だね。ちょっと嫌な感じがする」
再度破裂音が鳴り響く。悲鳴にざわめき、足音と罵声が混ざり合って俊哉たちに押し寄せた。もう少し奥に行った方だ。先ほど、通り過ぎてきた、何かの催し物ができるように広場になっていた所。位置を特定したのは俊哉だけではない。彼が全てを理解するより先に、瀬良が駆け出す。捨てられた袋が大きく音を立てて道に転がった。
「瀬良さん!」
慌てて袋を持って追いかける。瀬良の足は速かった。身軽になったこともあるが、フォームに無駄がない。広場の傍の店で彼は足を止めると、角からそうっとそちらを窺った。追いついた俊哉も彼の後ろから様子を眺める。
広場には幾らかの客がいた。子どもを連れた母親、老人、学生らしき若者に、スーツ姿の男。様々な年齢と性別。それらをぐるりと囲い込むようにして立つ、奇妙な男たち。服装は平凡なそれだが、彼らは一様に狐の面をつけていた。手に持つ銃にこれが何かの遊びではないことを知る。
「どうするつもりですか」
そっと瀬良に尋ねた。彼は驚いたように俊哉を振り返り、あぁ、と頷く。まるで俊哉がいたことをすっかり忘れていたような態度だ。俊くん、などと呼んで馴れ馴れしくしておいて、いざとなったらこれである。俊哉は怒りを通り越し、彼の態度に呆れてしまった。
「五人、人質は四倍程度。五人は四方に散らばって、人質は集められている。一人やっても、他の者が人質を戒めることができる。どう動くのが正解でしょうか」
クイズでも出すように、瀬良は俊哉に問う。そんな場合じゃない。腹立たしい彼の口ぶりに文句を言いたかったが、俊哉は黙り込んだ。今ここで、敵に見つかったらどうにもならない。ここは一先ず、退避して助けを呼ぶのが正解なのではないか。そう、言いかけた俊哉に瀬良が静かに囁いた。
「指がなければ引き金は弾けない」
その囁きは奇妙だったが、正しくはあった。確かに指が全てなければ、引き金どころか拳銃を持つこともできない。一体何を? 戸惑う俊哉から瀬良は袋を一つ奪った。先ほど彼が道に捨てて行ったそれを、再度瀬良は投げ捨てる。
袋はあっさりと、重力に引きずられてアスファルトにぶつかった。鈍い音が響く。俊哉が抗議するより早く、狐面の一人がこちらに向かってきた。
「あんた、何を」
気付かれてしまった。逃げなくては、言いかけた俊哉の眼が瀬良を捉えた。先ほどまでの冷静な顔とは違う。心底怯えている、という情けない表情。怖気づいたのか? 侮蔑と驚愕が入り混じって、俊哉の中に沈殿する。これだからエデンは、彼がいつもの文句に夢中になるより先に、狐面が瀬良の腕を捕まえた。
「お前らもこちらに来い」
「いっ、嫌だっ、ごめんなさい、離して!」
抵抗する瀬良を男は問答無用に引きずった。もう一人が俊哉を後ろから抱え込む。必死でもがくと背中に拳銃が突きつけられた。ダメだ。ここで下手をすれば、殺される。
広場の中央に連行されながら、横目で瀬良を睨みつける。こんなことになるなんて。その批難は、彼の横顔に浮かぶ冷たさに離散した。瀬良は怯えているふりをしている。その裏で、冷静に辺りを観察していた。一体誰がリーダーか。そして何が望みなのか。
人質の輪の中に二人は転がされた。狐面たちは俊哉たちから持ち物を奪わなかった。碌なものを持っていないと判断されたに違いない。いや、動けないとすら思われたのだろう。瀬良の刀袋を一瞥した男は、拳銃をこれ見よがしに振って見せた。余計な真似はするなという脅しである。
そして、四人が再び人質を囲うように立った。残り一人がどこかに電話をしている。彼がリーダー格か。電話を下した男がこちらを振り返った。怯える人質たちの顔を舐めるように見回し、見張りに大きく頷きかける。彼らはそろって銃を持ち上げた。
「我々はSRCNS。先日、政府が打ち出した憲法改正案に反対すべく、ここで声を上げることにした。貴様らは選ばれたのだ。我々がより良き国を目指す運動の贄になることに。すでに警察には連絡済みである。我々の要求が呑まれぬ場合、または対応が遅れた場合は、貴様らを順番に殺していく。そうだな、お前からだ」
男が目を向けたのは瀬良だった。彼は引き攣った悲鳴を短く上げる。後ずさりをした瀬良の怯えを楽しむように、男はじっくりと彼を見回した。瀬良はぎゅっと体を縮め、目を瞑ってその視線に耐える。
俊哉は若干の焦りを感じていた。このまま何もしない、という訳ではないだろう。先ほどの瀬良は明らかに何かを考えていた。しかし、彼の作戦が読めない。一体どうするつもりだ。そして俊哉は、何をすればいい。自分だけ他の者と同じように観客など、真っ平ごめんだ。
リーダーは再び電話をかけ始めた。見張りたちはゆっくりと時間をかけて、人質の周りを歩き出す。
居心地の悪さに、ベビーカーに乗った赤ん坊が泣きだした。不安を煽る音色に、見張りたちも舌を打つ。リーダー格が彼らに視線をくれて、どうにかしろと命じた。一人が母親の傍で足を止める。ライフル銃を振りかざし、低い声音で迫った。
「うるせぇんだよ、どうにかして黙らせろ。じゃないと、お前から行くぞ」
母親はか細い声で許しを請う。卑劣だ。嫌悪に顔を歪ませる俊哉を、見張りが睨みつける。負けじと睨み返した彼に、その足が向いた。
見張りたちの場所が固定される。一人は母親の傍に、一人は俊哉に近づき、その間、瀬良の近くに一人。そしてほとんど真逆の方向に一人が残った。リーダー格は離れた場所で電話をしている。拳銃も手にしていない。
「お前、随分と反抗的だな。お友達じゃなくて、お前からでもいいんだぞ、若僧」
人質の声は案外低かった。ただの脅しではないと、言葉の節々で伝えてくる。苛立つだけで、何もできない。どうする、瀬良は何を考えている。歯噛みしながら怒りの矛先を瀬良にと変えた。視線の先で、彼がゆらりと動く。
高くなった太陽に、真剣がきらめいた。彼に最も近かった男の手を、瀬良の刀は正確に跳ね飛ばす。周りがそれに気づくより先に、俊哉を睨む男を突き飛ばし、転がった銃を彼は拾うと、真逆にいた男に投げつけた。回転のかかったそれは的確に彼の額を弾いて、後ろに尻を着かせた。動揺した残りの人質に、瀬良の刀が向けられる。ピタリと張り付くように狙われた頸静脈に、男は動きを止めた。
「動くな。全員だ。動いたらこいつを殺す」
冷淡な声が広間に響き渡る。味方を人質に取られた彼らは、一歩も動くことができない。銃を奪われた男に、右手を刎ねられた男。起き上った見張りの一人も、リーダー格もその場に縫い付けられる。瀬良は母親から男を遠ざけると、拳銃を奪う。そして、背後から首を絞めて落とした。
「お前……」
リーダー格が瀬良を睨みつける。彼にとって、先ほどまで瀬良はただの人質でしかなかったはずだ。その戸惑いを手に取るように感じて、俊哉も困惑した。瀬良はこのまま、一人でこの場を制圧しようとしている。
「諦めて一切の抵抗をやめろ。これは警告じゃない。命令だ」
静かな瀬良の声が響く。唯一武器を持った男は未だ、動けずにいた。彼が銃を持ち上げたその瞬間に、瀬良は意識のない仲間の首を掻き切るだろう。しかし、男がそのままでいる確証はない。チラリと瀬良の瞳が動く。男を見、そして手に入れたライフル銃の感触を片手で確かめた。リーダー格の方に近づきながら、彼は俊哉を見つける。銃を手から滑らせて、頷いた。
宙を舞ったそれを誰もが追い駆けた。武器を奪われた男がそれに手を伸ばす。彼が掴むより先に、俊哉はそれを奪うと残った男に向けた。彼は諦めたように両手を挙げて、拳銃を捨てた。
これで、武器を持つ者はいない。ぐったりと重たい男を地面に寝かせ、瀬良はリーダー格から電話を取り上げた。面の下から感じる、鋭い視線。それにふと笑って、通話を絶つ。
「生野祥司《しょうの ようじ》よろしく伝えて」
「お前は誰だ?」
問われ、瀬良は肩を竦める。刀を鞘に仕舞おうとして、袋ごと置いてきたことに気がついた。仕方なしにそれを持ったまま、パーカーの襟元をTシャツごと引き下げる。覗いた鎖骨の下に、色鮮やかな刺青が入っていた。狐面の下で、男の瞳が大きく見開かれる。
「エデン……」
「運が悪かったんだね」
羽を生やした優雅なリンゴを一本の矢が打ち抜くその絵は、Little Edenの軍章だった。智恵の果実を放棄したそれは、まさにエデンの全てを示す。彼らは原罪を持たない。だからこそ、何をしてもいい。
瀬良の腕がわずかに動いた。刀が脇腹に当てられる。このまま引き抜けば、腹部に大きな傷を負うことになるだろう。震える男を瀬良は笑わなかった。淡々と、事務的な声で降伏を促す。
「死にたくなかったら退け」
男はゆっくりと両腕を持ち上げた。戦意喪失を示すそれに瀬良は頷いて、俊哉を体半分で振り返る。狐面を被ったテロリストたちは唐突な展開に、深く項垂れるしかなかった。
忘れていた赤ん坊の泣き声が耳に蘇る。全身から力を抜くと、瀬良は不意に笑った。後に残った終幕の予感に、俊哉は目を伏せる。ライフル銃を持った手のひらが、震えを止められなかった。
半ば逃げるようにショッピングモールから帰った俊哉たちは、事務室で手当てを受けていた。さほど酷い怪我はないが、あちこち知らぬ間に擦り剥いている。絆創膏を貼ってもらった俊哉が礼を言う隣で、瀬良は七緒に追い詰められていた。大きな膝の擦り傷を消毒する、しないでもめている。
嫌だ、という悲鳴と七緒の凄む声を聞きながら、俊哉はため息をついた。先ほど、あの場を見事に収束させた男と同一人物とは思えない。本当に瀬良はぬかりなく動いた。俊哉はあの時何もしなかったに近い。ただ、ぼうっと眺めていて、瀬良が必要になった時だけに動かされた。そう、動かされたのだ。
「いい加減にしなさい。子どもじゃないんですから」
「するから! 自分でするから、七緒さんはや、やめ」
瀬良の制止はやや遅かったらしい。直後上がった悲鳴に、どちらが勝ったのかが想像がついた。泣きべそをかく瀬良に七緒は淡々と処置を施していく。貼った絆創膏の上から、彼女は軽く膝の傷を叩いた。
「ま、なんにせよお疲れ様です。災難でしたね、永戸さんも」
初日からテロ騒動に巻き込まれるなど、誰も思っていなかっただろう。頷く俊哉を見て七緒は不意に頬を緩めた。彼女の奥底にどれほどの冷たさが眠っているかなど知れないが、そうされると俊哉は七緒を直視できなくなる。そっぽを向いた俊哉の耳に、瀬良のまだ弱い声が届いた。
「怖かったよ、本当に。どうにかなってよかったなぁ」
怖かった? 驚いて振り向くと、涙に潤んだ瀬良の瞳が出迎えた。面食らった顔で彼をそのまま見つめる。
「俊くんもびっくりしちゃったよね」
「は、はぁ……。いえ、しかし、瀬良さんは冷静に場を判断して動いていたように思えましたが」
「僕が?」
聞き返す瀬良の声音に載った無垢な色に、俊哉は何故か腹立たしくなる。混乱し、何もできなかったのは俊哉の方だ。瀬良は淡々とせねばならないことを的確にこなしたではないか。謙遜だか何だかわからないが、瀬良が自身の行動を否定すると、同時にあの時の俊哉が貶されていく。悔しさに唇を噛んで俯いた。
「まさか、違うよ。結構混乱してた。だから手元狂って、うっかり手ごと刎ねちゃった。本当は、指で収めるつもりだったのに」
「中々むごいことをしてきましたね、瀬良さん」
「あれは悪かったと思うよ」
ため息をついて、瀬良が椅子に腰かける。軽く滲んだ疲労感は、その罪悪感ゆえなのだろうか。慣れているのだと、思っていた。俊哉は彼の様子を意外に思いながら、あの時の瀬良を思い浮かべる。死にたくなかったら退け。そう言った彼に、逡巡や情けは無かった。
「殺せばよかったのに。手だ、指だ、なんて面倒くさい」
金属音が高く鳴り響いた。不穏な言葉に相俟って、それは禍々しく俊哉の耳を打つ。ハッと振り返ると細身の男が一人、戸口に立っている。全く気がつかなかった。しかし彼の気配を感じなかったのは俊哉だけのようで、瀬良も七緒も動じる様子がない。彼を一瞥した七緒は軽く眉を顰める。
「坊さん、一体何の御用ですか?」
「事務室に用があって。ティッシュペーパーと雑巾を取りに」
「それならば、九階の事務室を利用していただけると」
「ついでに、臺の顔を見に、ね」
腰に刀を二本差した彼が歩くたびに、淡い音が響いた。坊、と呼ばれた彼は俊哉の横をすり抜けて、瀬良の傍に寄る。緩い笑みを浮かべて坊を見上げる瀬良を、彼はポンと優しく頭を撫ぜた。
「うっちゃんは相変わらず優しいなぁ」
「いや、でも、あの場で殺めていたら、周りの人がびっくりしたと思うし」
「そうですよ。今回は一般市民の見ている場でした。軽率な行動は慎まなければなりません」
「あぁ、そう?」
腕を組んだ坊がやや挑発的に七緒を見据えた。この二人、あまり関係がよろしくないのか。独特の緊張感が狭い事務室を包み込む。先ほどから徹底的に無視されている俊哉は、居心地の悪さのあまり瀬良を見やった。
「あ、そうだ、俊くん。この人が、朝言ってたつっつんだよ。第肆部隊の隊長」
瀬良の言葉に坊がようやく俊哉に視線を移す。品定めするように下からじろりと見ると、彼は軽く頷いた。横柄な態度に、どこかの王様でも相手をしている気分になる。
「永戸俊哉です。本日から瀬良さんの隊に配属されました。よろしくお願いします」
「どうも」
と、一言。あまりの感じの悪さに、目を瞬く。そういえば今朝、美野は彼について『性根がアレ』と濁していた。はっきり言ってしまうならば、非常に性悪だ。
坊はと言うと、七緒からティッシュボックスと雑巾を渡されたにも関わらず、瀬良の隣から離れない。気にいりの猫でも撫ぜるような仕草で、先ほどから瀬良の髪の毛を弄って遊んでいる。帰ればいいのに。そう思ったのは、俊哉だけではなかったようだ。
「いつまで、坊さんはここに? ティッシュボックスが一つでは足りませんでしたか?」
「いや、まさか。ただ、SRCNSと聞いたから少し気になって」
「SRCNS?」
坊の言葉を俊哉が聞き返した。件のテロリストたちも己をそう呼んでいた。SRCNS。一体、何の略称だろう。
「シーラカンス、ね。ショウちゃんところの」
「シルクンスっていうのが、正しい読みな気がするけど。ま、アルファベットは当てかも知れない。事実、僕は彼らの正式名称を聞いたことがない」
「それでは一体何のことだかわからないでしょう」
ため息交じりに、七緒が口を挟む。瀬良も坊も言うのは名前ばかりで、SRCNSが一体何なのかさっぱりわからない。
申し訳なさそうに眉を垂らす瀬良の隣で、坊は片眉を上げて見せた。それでどんな文句があると言うのか。そう言いたげな態度に、七緒は再び嘆息する。
「坊さんに通じると思った私が愚かでした。SRCNSは反政府組織です。行動目的は主に、貧民街の住人の救済。人数も多くまた大きな武力を持っているため、政府も中々手出しができずにいるのが現状です」
他国に意識を向ける軍と違い、国内にも視線を張り巡らせるエデンにとっての最大の敵と言っても良い。SRCNSもエデンも地下に潜った組織、という点では同じだが、より知られていないというのではSRCNSの方が上だった。
「そこで、一番大きい武装集団を持っているのが生野祥司。まだ若いけれど、中々の腕前と行動力の持ち主ですね。瀬良さんと一緒に行動していれば、必ずいずれ出会うはずですよ」
「それは、彼らを想定した仕事があるからですか?」
追って尋ねた俊哉を坊が呆れたように鼻で笑った。瀬良の頬を軽く撫ぜた後、肩を抱き寄せる。所有を示すようなその仕草に、自然と俊哉の眉が寄った。
「まさか。それだけじゃ、わざわざ頭領の生野が出てくるわけがない」
「では、なぜ?」
「瀬良さんは生野祥司のお気に入りですから。何度だって対峙したい相手、のようですよ。今日のももしかしたら、瀬良さんの外出を聞きつけてちょっかいを出してきたのかもしれませんね」
サラリと言ってしまう七緒が信じられない。そんな個人的な感情の所為で、あれほどの一般市民が巻き込まれたのか。恐怖に怯え、時間を取られた。それだけではない。あの時は瀬良がどうにかしたが、運が悪ければ死人が出ていたかもしれないのに。
感覚がわずかにずれているのだ。先ほどもそうだった。坊の発言に対して、瀬良も七緒も殺めることを悪いとは言わなかった。あの場では不適切だった。そう、彼を諌めただけで。指がなければ、という瀬良の発想も、俊哉には分かちがたくある。
「さて、そろそろ駄弁はやめにしましょう。坊さんもさっさと九階に戻ったらどうですか? 隊長がいないのはどうかと思います。瀬良さんも、午後の予定に移ってください」
「言われなくとも直にそうしようかと」
厭味たらしく坊が答え、ティッシュと雑巾を持ち直した。手のひらで瀬良の髪をぐしゃぐしゃに乱してから、踵を返した。別れの言葉もなく、事務室を出て行く。音のない歩みだったというのに、俊哉にはまるで王でも通り過ぎたかのように感じられ、その尊大さに目を瞬いた。
「全く、永戸さんも初日から災難続きですね」
「は? 災難?」
腹立たしげに七緒は坊の出て行った扉を睨む。やはり彼らの仲はよろしくないのだ。瀬良にはやたらと甘いようだが、坊も七緒には好戦的だった。
「あんな人に会う、それにSRCNSのテロにも巻き込まれる。瀬良さんとは仲がよろしいようですから、これからも時折顔を見合わせることになるでしょうけど」
「つっつんはわかり辛いだけでいい人だよ?」
「あれがいい人なら、世の中善人しかいません」
きっぱりと七緒が言いきった。苦笑する瀬良が助けを請うように俊哉を見る。しかし、俊哉とて彼の味方をする気にはならない。似た雰囲気の七緒と坊が特別合わないと言うのもあるだろうが、残念なことに坊の印象は最悪だ。
「それより、瀬良さんたちも午後の業務にあたってください。と、言ってもそうやることはないでしょうか」
「うん、いつも通りとりあえず訓練かなあ」
立ち上がった瀬良が俊哉を見上げた。どうする? そんな風に傾げられた首に、俊哉は戸惑う。そう言われても何をすべきかわからない。軍では基本、訓練と言えば皆で行うものだった。
「瀬良さん」
見かねた七緒が口を挟む。やや咎める音を含んだそれに、瀬良は首を竦めた。ちらりと振り返り、彼女の機嫌を窺う。
「貴方はもう一人じゃあないんですから。少し、永戸さんのことも考えて行動してくださいね」
「……頑張らせていただきます」
自信のない声で頷いた瀬良を一睨み。七緒はハイヒールを高らかに鳴らして、部屋を出て行く。
残された俊哉と瀬良は困り顔で視線を合わせた。その様子を見ると、瀬良がまるで正反対な人間であることに俊哉は気付く。士官学校に入ってからずっと団体行動をしてきた俊哉に対し、ほぼ同じ年月を彼は一人で動いてきたのだ。きっと彼は、誰かと共に動く事が想像できない。
これは俊哉が積極的に訊いていくしかない。そう割り切ると、逆に楽になった。わからなかったら訊けばいい。瀬良に悪意はないのだから、きちんとその都度答えてくれるはずだ。
「とりあえず、いつもはどうしているんですか?」
案の定、俊哉が尋ねると瀬良はホッとしたように頬を緩めた。うん、と拙い仕草で頷く。
「会議とかなにもない日は、基本訓練かな。えっと、結構朝のうちに基礎体力系は済ませちゃうから、午後は誰かいたら剣道とか柔道とか。誰もいないようだったら、一人でできること。それが終わったら書類片付けてしまって、夜はまた基礎体力系のトレーニング終わらせてっていう感じなんだけど……」
想像はしていたが、訓練ばかりだ。それは強いだろうなと、感心するより、呆れの方が強くなってしまう。引き攣った顔で頷く俊哉に、瀬良は慌てて首を振る。同じことをしろとは言わない。告げられる言葉が容易に予想できた。
「すると、俺は何を……?」
「あっ、うっ、えっと、僕がトレーニングしているときとかは好きにしててくれていいよ。俺は剣術だけど、俊くんはえっと、拳銃だし。相手できないから。うん、そうだね……」
「わかりました。その時間は俺も自分の訓練をしています。書類作業というのは」
「報告書とか始末書とか。そう、時間は取られないけれど。うん」
「本格的な仕事と朝、北薗総括長が言っていたのは?」
「それはまだ平気だから気にしなくていいよ。明日、または明後日から作戦とか考えていくか、な?」
立て続けに質問する俊哉に、瀬良は想像通りすべて丁寧に答えてくれた。それを何度か繰り返して、今日やらねばならないことを把握する。
まず、瀬良と一緒に訓練場を見に行く。その後、先ほどの件の始末書を書いて、提出後、またトレーニングだ。おそらく、これほどの鍛錬を積む瀬良に俊哉はついてはいけない。しかし、仕事の際に彼に後れを取るようではだめだ。
「じゃあ、一先ず二時間後、だね」
「はい、あっ、えっ?」
「えっ?」
一緒に行くとばかり考えていたのに、瀬良は一人で行くつもりだったようだ。七年の個別行動の影響はかなり大きいらしい。これにどうにか慣れよう。俊哉は自分に深く頷きかけて、瀬良について行くことを告げた。彼は暫しきょとん、とした後、俊哉が面食らうほど柔らかに笑った。