1、掃き溜めの中の楽園
1、掃き溜めの中の楽園
楽園の夕焼けは美しい。
近年広がり始めた貧民街の手前にある、何の変哲もないビジネス街。そのとあるビルの七階に、永戸俊哉はいた。彼の傍らでは痩身の男が何かを熱心に説明している。それを聞き流しながら、俊哉は“ここ”について思いを巡らせた。
一切の灯りは存在しない。そう言って揶揄するように笑った男がいた。共犯者である彼は、友人というよりも絶対的な司令官の姿をしている。先が真っ暗だということか。尋ね返した俊哉に、彼は首を振った。知る必要などどこにもない、と。
未来に希望がない、という意味ならば理解できる。なぜならここは誇りも名誉もない掃き溜め。俊哉が先月まで席を置いていた帝国陸軍ならば、世間の人からの羨望と尊敬の念を集めた。だが、今いる場所は違う。もしここにいると伝えたとしても、知っている人はごくわずかで、その人からは、道路のゴミでも見たような顔をされる。ここにいること自体が恥だった。
人間としての尊厳も誉れも持たずに生きながらえる、恥知らずどもめ。
俊哉は胸の内でそう吐き捨てた。陸軍士官学校を経て、順調にエリートコース歩んできた。その実力を見込まれて、この作戦に抜擢されたことは嬉しい。だが、心底軽蔑している彼らと共に過ごさなければいけないのは、苦痛でしかなかった。
しかし必ずこの作戦を成功させてみせる。明るい未来のためだ。そこに、こんな薄汚れたゴミ捨て場は必要ない。
不意に哄笑が聞こえたような気がした。あの、残忍でありながらも美しく微笑む共犯者が、俊哉の肩を掴んで囁きかける。そんな風に肩を張っていては気づかれてしまう、と。
彼はとても頼もしい俊哉の仲間だ。いや、そう思っているのは俊哉のみ。作戦の指揮官である相川ですら、彼について言及したがらない。優秀であり、頼みの綱である。だけどわからない。どうして彼は、仲間を裏切ってまで俊哉たちの味方になったのだろう。
明後日、正式に俊哉はここに入隊する。そうすれば本格的に作戦が始動するのだ。覚悟はある。そして、やり遂げる決意も。
全ての緊縛からその身は解放されるだろう。共犯者はいつだかそう言ったことがあった。独り言のような響きを持ったそれは、不思議と俊哉の心を引き付ける。俊哉が見ていることを知った彼は、なんてことないと肩を竦めた。そして、呟く。
「その時、両肩に伸し掛かる重さをその身をもって感じればいい。それが、ここにある全てであって、なおかつ、選民の証だ」
誇らしげであったわけではなかった。彼はいつもの通りごく淡々とそう述べた。しかしその言葉の節々に、自分がここの人間であることを誇る何かが含まれている。俊哉には一生理解したくもない、何かだ。
夕焼けが滲む。幾層もの赤はすべらかな廊下に広がった。窓の向こうで桜が散る。
「永戸くん?」
声をかけられてハッと我に返る。俊哉が目を瞬くその隣で、痩身の男が首を捻っていた。生絞り、と書かれたTシャツにダメージジーンズを履いた彼は、到底社会人には見えない。ましてや仕事中とは思えない様相だ。名前は確か、そう。
「すいません、美野さん」
「あ、いやいや。ごめん、疲れているんだよなー。こんな広い場所を案内したわけだし」
美野千歳。諜報、情報などを主に扱う第漆部隊の隊長である。セキュリティのため、もろもろの登録に赴いた俊哉に、彼が社内を案内してくれていた。ラフな格好と締まりのない雰囲気には聊か反感を覚えるが、軍から来た俊哉にも分け隔てなく接してくれる。
「何か、大切な話を? ぼうっとしていました」
「いや、うちの面倒くさいシステムの自慢だったから気にしなくても。それより、そうだ。これをあげて、終わりだな」
ポケットから美野は平たい物を取り出した。よく見る、ICカードである。社員証のようなものらしく、見れば俊哉の名前や生年月日、そして顔写真が付いていた。
「それ、最重要だから。言っておくけど、絶対に失くすなよ。再発行するの、すごいめんどいのなー。それに、それがないとここまで来れない」
「逆に言えば、これがあれば入れる、と?」
尋ねた俊哉に美野は一瞬、不思議そうな顔をした。それから、目を輝かせて首を振った。妙に自慢げな顔に、嫌な予感がする。まずい。これは十中八九、意味のわからない話を並びたてられる。
「それを聞いちゃう? 聞いちゃうんだ、君って奴は! いいね、いいね。好感度大だよ」
「いえ、その……聞いてもわからないことでしたら……」
「遠慮する必要なんかないさ、友人よ! 今まで、そんな質問されたことなかったからなー。でも、残念なことにこれがあっても入れないよ。俺たちのセキュリティは万全だからね」
止める間もなく美野はセキュリティシステムについて喋り出してしまった。あぁ、うんざりだ。ため息を寸でのところで呑みこんで、俊哉は話を聞き捨てる。
監視カメラに光彩認識、更には指紋に至るまで。入り口に設置されたゲートで個人を確実に特定する。そうまでして、ここが閉鎖的である理由はわからない。ただ、非常に排他的だ。それが俊哉の興味の袖を引くほどに、ここは一切他人を受け付けようとしない。
「なぜ、そこまでセキュリティを頑丈にする必要が?」
唇から零れ落ちた疑問に、ぴたりと美野は口を噤んだ。やや、迷うように視線を巡らせる。そうして黙り込むと、案外綺麗な彼の顔が俊哉の視線に晒された。
「理由としてはまず一つ。ここはあってはならない存在だ。だけど、噂にはなる。だから、徹底的に外部の者は避けなければいけない。五階までは普通の会社みたいになっているのもそのためだ」
十二階建てのこのビルは、五階まではよくある商社のような作りになっていた。それも一種のカモフラージュらしい。頷く俊哉の前で、美野は口元を綻ばせる。まるで、幼子のように素直で柔らかな笑みだ。
「もう一つの理由は簡単。俺たち以外に、誰も要らないからだ」
きっぱりと言い切った美野は、心底ここの住人なのだろう。そのあまりの潔さに、俊哉は目眩すらしそうになる。
俊哉には不思議なのだ。共犯者は一度たりともここを誇らなかった。しかし同時に、ここを貶すこともなかった。そして美野の様子はどこまでも、ここの住人であることに喜びを感じている。
それがわからない。俊哉からして掃き溜めにしか見えないこの場所が、彼らには宝石箱にでも見えているようで。
「ま、そんなことはいいや」
美野はあっさりと締めくくると、俊哉の手にカードを握らせた。失くすなよ、と再度念を押される。しかと頷けば、彼は再びゆるゆると頬を持ち上げた。
「明日は引っ越しやら何やらで来ないんだっけ? じゃあ、あいつに会うのは明後日が初めてか」
「はい、そうなります。美野さん。その、第参部隊の隊長というのは……」
一体、どんな男だろう。明後日から俊哉が配属される第参部隊唯一の隊員であり、隊長というのは。俊哉が加わっても、たった二人だ。隊と呼ぶには少なすぎる。気のいい男か、それとも冷血な者か。不安と緊張、そして見定めてやろうという気が湧き上がる。
「あぁ、あいつね。俺はあいつとは結構長い付き合いだけど、うーんそうだなぁ」
貰った資料は読み眺めた。俊哉より二つ年下の彼は、美野と幼馴染である。童顔の愛らしい顔立ちに、華奢に見える姿。瀬良臺という名前だけが、目を引く。
「あいつ、臺はうん、強いな。すごく優しくて、怖がりで、不器用で、とんでもなくバカだけど、でも強い。個人プレーであいつより秀でている奴を見たことがない。あ、チーム戦は大の苦手だけど」
剣道と柔術に長け、日本刀を愛用する。義務として持たされている小火器を使うことは、ほとんどない。非常に優秀な戦力として認められており、現在、精鋭部隊である大字隊の隊長を任されていた。しかし、相棒を持ったのは七年も前。それ以後、彼は常に一人だった。
「ま、臺なら大丈夫だ。永戸くんがどこ出身であろうと、あいつバカだから気にしない。それがたまに嫌んなるかもしれないけれど、結構繊細だから仲良くやってくれ」
「はい」
当初、共犯者のいる隊に配属される予定だったのが、都合によって彼の隊に変わったのだった。ここの上層部は、何を思って俊哉を瀬良の隊に移動させたのか。全てに気づいてのことか、それとも軍出身の俊哉を気遣ってか。
俊哉が魂を置いてきた、帝国陸軍はここと最悪の関係である。俊哉も、ここを愚かで厚かましい者たちの集まりだと思っている。しかし、それはこちらとしても変わりない。だから、危険だった。敵である俊哉を良く思わない者は五万といるだろう。
――絶対にほだされるなよ。いや、ほだされると予言してやろうか。
瀬良の隊と決まったその日、共犯者は嘲笑を含んだ声でそう述べた。お前は必ず、瀬良に落とされる。しかしそれを許さない。
ほだされて堪るものか。そんな馴れ合いなど、とうの昔に捨てた。軍の、この国のより良い未来のために、作戦は何が何でも成功しなければならない。そのために情は必要ない。
いたく気を負った俊哉に、美野は気付かないようだった。遠く、貧民街に沈みゆく夕陽に視線を這わせて、彼を振り返る。
「まだ何か、わからないことはあるか?」
「いえ、大丈夫です」
「そっか。なら……」
美野が手を差し出した。反射的にそれを握りかけて、俊哉は戸惑う。これを取ったら最後だ。抜け出せない底なし沼に、足を踏み入れるような気がした。笑った美野は、彼の手を有無を言わせず掴む。
「ようこそ、永戸くん。我々のエデンに」
帝国軍の傘下に入り、陸軍と同列に並ぶこの組織の正式名称は知らされていない。皆がこの機密機関を俗称で呼ぶ。
一本の矢が羽の生やした林檎を貫く軍章が、夕日に瞬いた。あしらわれた金が輝く。
軍人は侮蔑を込め、住人は愛おしげにここをそう呼んだ。地上の楽園、Little Edenと。
初日、さんざん悩んだ挙句、結局俊哉は無難なスーツを選んだ。エデンの制服はまだ支給されていないし、だからと言って美野のようにラフな格好をしていくのも決まり悪い。だが、買って一度しか着ていないスーツは着心地が悪かった。なにより、己の風貌に馴染んでいない。
「仕方ない、か」
軍服の方が安心するなんて。自分を軽く笑い飛ばして、俊哉は引っ越したばかりのアパートを出る。そういえば、エデンの住人達はいつもどんな服装だっただろうか。美野、は例外だろう。その他に見かけた人も、別段畏まった格好はしていなかったかもしれない。では、あの制服は一体いつ着るのだ。
そんなことに頭を悩ませているうちに、エデンのビルに到着していた。一昨日貰ったICカードを使って入館する。気のせいかもしれないが、なんとなく、人目が痛い。
擦れ違う人々の服装は様々だ。しかし、スーツなど着ている者はいなかった。エデンの制服を着ている者もいない。まさか、何を着てもいい、と?
「えっ、何でもいいんだよ? いっそ裸でも」
七階、第二総括長室。事前に言われた場所で俊哉を待っていた総括長は、あっさりとそう言ってのけた。わざわざそんな畏まった格好で。そうとまで付け加えられてしまう。その自分はきちんとしたスーツなのだから、なんと反応していいかわからない。
「エデンの軍服は式典の時しか着ないしねぇ。しかも式典、滅多にないからねぇ」
すると、ほとんど使わないものらしい。なんとなく拍子抜けして、そうですか、と生返事をする。総括長である北園は困惑を隠せぬ俊哉を笑うと、軽く肩を叩いた。
「ま、気楽に気楽に。それより、ええっと、永戸くんは臺くんところの隊に入るんだよね? 肝心の臺くんがいないなぁ……、たまちゃんいる?」
北園は奥の方に向かって叫んだ。静まり返った総括長室と扉一枚を隔てた向こうは、随分と賑やかだ。事務員が忙しく動き回る様や、コーヒーのいい香りが漂ってくる。その中から凛とした返事が響いた。続いて高いピンヒールが床を叩く鋭い音。
「なんでしょうか、総括長」
サラリと一つに括った黒髪が揺れる。白い肌に整った顔立ち。上品な薄桃のカーディガンを着た彼女が歩くたびに、甘い香りとシフォンスカートが揺れた。それにそぐわぬほど高いヒールが、俊哉を威嚇するかの如く音を奏でる。
「忙しいところごめんね。臺くんってもう、出勤しているよね?」
「えぇ、二時間前に」
やってきた彼女がきびきびと答える。やっぱり、そういう顔で北園は頷いた。
「すると、いつもの感じかぁ」
「呼びに行きましょうか」
「いや、直に来るよ」
二人はどことなく呆れたように吐息を漏らす。丁寧に礼を言った北園に微笑んだ彼女は、ふと、俊哉に目を向けた。人形のように美しい顔に、思いがけず俊哉の心臓が高鳴る。
「あぁ、たまちゃん。知っていると思うけど、こちら永戸俊哉くん。本日から、臺くんところで働いてもらう新しい隊員だ」
北園の紹介に、彼女は優雅に礼をした。一瞬、花でも咲いたかと思うほどの可憐さに、俊哉はただただ目を奪われる。ゆっくりと視線を俊哉に戻すと、彼女はふわりと微笑んだ。
「はじめまして、永戸さん。私、この第二総括部で事務員として働かせていただいております、七緒珠子と申します。どうぞ、よろしく」
「じっ、自分は本日付でこちらに配属されました、永戸俊哉と申します。至らないことばかりですが、こちらこそよろしくお願いします」
慌てて俊哉が背筋を伸ばすと、七緒はおかしそうに目を細めた。上品だ。まさか、こんなところにこれほど美しい人がいるとは思わなかった。うるさい鼓動に、顔が赤くなっていないか心配になる。
「困り事があればいつでもどうぞ。私たちはあの奥の部屋に大抵おりますから」
はい、と返事をした俊哉を見て、北園が聊か呆れている。仕方あるまい。軍人を志してから早数年、ほとんど女人と話すことなど無かったのだから。
七緒は口元を隠すように手を使って、小さく笑った。恥ずかしげに俊哉は俯く。鼻先に向けられた視線が、不意に影を落とした。ハッと目を上げるも、既に七緒は俊哉を見てはいない。
歓迎されているわけではないのだ。円やかさを拭い去った横顔は、存外冷たく俊哉の目に映る。彼女の腹の底にある冷酷さが俊哉を軽蔑しているようだった。
「それにしても、瀬良さん随分と遅いですね」
「そうだねぇ。やっぱり呼びに行こうか」
時計を仰いだ北園が首を傾げる。時刻はすでに、始業時間である九時を回っていた。では、私が。そう七緒が言いかけた時、総括長室のドアが大きく開く。
「北園さん、おはよう!」
明るい橙を纏った無邪気な声が、部屋の中に転がり込んでくる。皆の視線を一身に受けた彼は、やや照れ臭そうに微笑んだ。写真の印象よりもずっと幼い。短めの黒髪は濡れていて、雨に濡れた犬を思い起こさせる。
彼はキラキラと輝く瞳を北園から順に動かし、七緒を見た途端に固まった。どうやら彼は、七緒が苦手らしい。対して七緒はこれ以上に無い、というほどの笑みを浮かべる。
「おはようございます、瀬良さん」
「お、おはようございます……」
怯えた様子で瀬良はサッとドアの陰に隠れた。七緒の鋭い視線が、逃がさないとばかりに追いかける。俊哉が責められたわけでもないのに、寒々としたそれにぞくりと背筋が震えた。そんな七緒は花のような柔らかな美しさとは程遠く、まるで蛇のようだ。こちらが本性なのだと気付き、思わず俊哉は落胆のため息を吐く。
「みんなであなたを待っていたんですよ、ずっと。さて、どうしてこれほどまで遅くなったんです? 瀬良さんのことですから、きっと仕方のない訳があるのでしょう?」
「ごっ、ごめんなさい、いや、ただ単に、いつも通りその……」
「なんですって?」
「あっ、すいません、何でもございません……」
首を小さく振って瀬良は言い訳を振り払う。子犬をいたぶる蛇。完全にその図を彼らに見てしまった俊哉は、妙にいたたまれない気持ちに満たされた。瀬良に対する庇護と、何とも言えない情けなさが混ぜっ返しになる。
「まぁまぁ、たまちゃん。臺くんをそう苛めずに」
溜まらず口を挟んだ北園のおかげで、七緒の一方的な攻撃は幕を閉じた。手招きをされて、瀬良がそろりと部屋の中に戻ってくる。チラリと七緒を窺う様が、幼子を思わせた。
「臺くんはいつも通り、朝からトレーニングでもしていたんだろう? お疲れ様」
「ちょっと集中しすぎちやって。遅れてすいませんでした」
そう言って彼は柔らかに笑った。北園も微笑みを返し、俊哉に視線を向ける。それを追い駆けた瀬良も彼を目に止めた。改めて見ても本当に印象が幼い。上に羽織った緑青色のパーカーが大きい所為か、矢鱈と体つきも華奢に見える。黒目がちな瞳で見上げられると、俊哉はどうにもむず痒かった。
「さぁ、ようやく本題だね。もちろんわかっているとは思うけど、臺くん、こちらが今日から君の隊員になる永戸俊哉くんだ。永戸くん、こちらが瀬良臺くん。第参部隊の隊長だよ」
北薗の紹介を受けて、瀬良が俊哉に手を差し出した。剣の使い手であることが、一目でわかる。軽く握ると、彼の手の感触が俊哉に修練の重さを感じさせた。
お前に瀬良臺は殺せない。はっきりと、共犯者が言ったことを思い出した。ほだされるなと忠告を受けたその後だ。いつでも彼を殺せるくらいの覚悟は持っておけ。そう言ったくせに、共犯者はすぐに俊哉を嘲笑った。いや、それは無理だろうけれど、と。
あの時は何を、と腹を立てたが今ならわかる。無理だ。俊哉に瀬良を殺すことは不可能だろう。そう思わせるような、重たい手のひらだった。
「今日からよろしく、俊くん!」
「あっ、は、はい……?」
俊くん? 笑顔の瀬良を前に俊哉は固まる。彼の訓練が伺えるこの手のひらに尊敬すら仕掛けたと言うのに、それは一瞬で崩れ去った。無邪気に腕を振られるがままになっている俊哉を心配したのか、彼はふと首を傾げた。
「えっと、どうかした?」
「い、いえ……、その、俊くん、とは」
戸惑う俊哉に助け舟を出したのは、意外にも七緒だった。助けというより、瀬良を苛める最大のチャンスと見たのだろう。踵を鳴らして近寄ると、いかにも悩ましいという顔で瀬良を見下ろす。
「小学生じゃあないんですから、会っていきなりあだ名呼びだなんて馴れ馴れしいでしょう。あくまでも上官と部下なのですよ。その辺は弁えたらどうですか?」
全ての音に棘を含めて、七緒が瀬良に進言する。ついでにツンと頬を突くと、瀬良の機嫌は一気に滑り落ちた。ちらりと俊哉を見上げて、申し訳なさそうに手を離す。そうされると、まるで俊哉が悪者のような気がしてくるから恐ろしい。
「あ、いえ、自分はそのような……。その、好きに呼んでくだされば、それで」
「本当!」
「はぁ、どうぞ」
結局そう言うしかないのだから、仕方がない。周りに花を散らして笑う瀬良に、俊哉は苦笑した。
なんなんだ、この人は。こんなのが、どうして隊長などを務めている。確かに彼は強いかもしれない。けれどもそれだけじゃないか。
尊敬の念が跡形もなく消え去り、再び侮蔑が舞い戻ってくる。どれだけ強かろうとも、瀬良を讃える気にはなれない。こんな馴れ合いなど、軍部ではありえなかった。
「あ、それから、そんなに堅苦しい言葉を使わなくていいから。その、僕のことも別に、うん」
「では、瀬良さんと」
「うん、じゃあそれで」
少しだけ寂しげに瀬良は眉を垂らした。俊哉はあえて気がつかない振りをして、あくまでも他人行儀に頭を下げる。名前を呼び合うなど、冗談ではない。彼と必要以上に仲良くする気もなかった。
この人は仲間じゃない。俊哉は胸の内で呟く。決して、仲間にはならないのだ。排除すべき敵であって、感情に騙される相手ではない。
「えーと、一通りいいかな?」
北薗が二人の顔を見回した。迷いなく頷く俊哉と視線だけを向ける瀬良。北薗は彼らに向かって微笑むと、七緒を呼んだ。意図を汲んだ彼女が一度、奥の部屋にと消える。
「本格的な仕事は臺くんに連絡が行っているはずだ。わかっているよね?」
「昨日の?」
「そう、それ。それは後日として、今日は永戸くんも初日のことだし、二人にお使いに行ってもらおうと思ってね」
俊哉を置いてやや話が進む。戻ってきた七緒が瀬良にメモと財布を手渡した。ざっと目を通した瀬良が俊哉にとメモを見せてくる。並んだ言葉に見覚えはなかった。アルファベットが幾つか並び、その下にポットだのコップだのと書かれている。
「足りないと思う物は好きに買って来てくれて構わないよ。今まで臺くんの一人部屋だったわけだし、必要な物もあるだろうから」
「もちろん無駄遣いは禁物ですからね」
厳しく七緒の声が飛んできた。手を挙げて返事をする瀬良に、首肯するだけの俊哉。やや、不安そうに彼女は瀬良を睨むものの、あまり効果はない。気の抜けるような笑みに、七緒もため息を吐き出した。
「それから……、永戸さんは服を調達した方がいいようですね」
幾分か、笑いを含んだ声で七緒が言う。それに瀬良も、北薗も俊哉を見上げた。視線に体が逃げかける。ごく普通の服装をしているつもりだったが、まさか変なところでも。そんな気に駆られる俊哉に、北薗がゆるりと破顔した。
「似合わないからね」
所詮軍人は軍を抜けてもやめられないらしい。慣れない格好は、本人が思っているよりずっと滑稽だったようだ。深々とため息をついて嘆く彼の肩を、瀬良が何度か優しく叩いた。