お約束とイレギュラー
一定のリズムで鈍い音が鳴り、体に振動が伝わる。音が聞こえてくる毎に私の頭を覆うもやのようなものが消え去り、台風の過ぎ去った後のような快晴がやってくる。
「起きろー!」
聞きなれた声に目を覚ました私は振り返ろうとするが体が動かない。七海が背中に乗っているからである。首を回そうにもフクロウでない私は彼女の顔を確認できるまでには至らない。
「邪魔だ」
と言いつつ、私は振り下ろされる拳に抵抗することなく、サンドバッグと化した。傍から見ると暴力的に思える光景だが、実際はそうではない。意識しているのか、それとも無意識的なのか私にはわからないが、七海は力任せに叩いているようで実は手加減をしている。それだけではない。叩くツボも心得ているようで、実に気持ちが良いのである。口では起きろと言っているが、彼女の拳は寝ろと語る。どっちなのだと、毎度のことながら困惑する私がいる。
七海と私は幼馴染である。漫画的な幼馴染だと考えていただければほとんど相違ないであろう。思えば、物ごころのついた時から七海は私の上で拳を振るっている気がする。主従関係をはっきりさせたいタイプなのかもしれないが、あいにく私は暴力には屈しないと人知れず誓っている。
家は隣同士で私の部屋と彼女の部屋は非常に近く、窓を開ければ屋根伝いに行き来できる。と言っても、私が訪れることはめっきりなくなってしまった。行く理由が特にないからだ。
良い意味で面倒見の良い、悪い意味でおせっかいな七海は、文句を言いつつも結局はやってくれる、非常に可愛らしい性格をしている。現に私がこうして惰眠を貪っているところに来て、起こしてくれる。後三分でも寝ていれば、遅刻は確定である。私はようやく布団から這い出た。
「ちょっと、何て格好してるのよ……!」
七海が悲鳴にも似た声を上げる。目線が下に降り、戻ってくる。その過程で彼女の顔が真っ赤になった。
「だって暑いじゃないか」
上半身裸で、下着だけ着けた私は、悪びれることなく七海と向かい合った。窓から侵入者が来ることを想定して制服を着て寝ろとでも? 暑いではないか!
「もう! 先に行ってるから!」
そう言うと七海は私の部屋を正規ルートで出ると、ドタバタと階段を下りていった。どうやってここに来たのだろうかと疑問に思っていると、今度は上がってくる音が聞こえる。先ほどよりもさらに顔を赤くした七海が再び顔を出す。
「早く着替えてよ!」
キッと睨み、吐き捨てるように言うと窓から自室へと戻っていった。彼女を見送り、ようやく私は着替えを始めた。
私は平凡な高校生である。こう宣言しておかないと、私が宇宙人だと読み違えて後々に地球を揺るがす大事件を巻き起こすであろうと期待している人をがっかりさせてしまうだろう。宇宙人は出てこない。平凡と言いつつ実は超人的な力を隠していることもなければ、両親が有名な魔法使いでもない。高校生以外のカテゴリーにあてはめられない高校生。それが私である。
平凡な高校生は、遅刻をしそうになれば走るものだ。私も走る。牛乳を一気飲みし、だらだらと支度をしていた五分前の自分を恨み、外に出る。食パンでも齧りながら行こうかと一瞬だけ考えたが、滑稽な光景になりそうなので止めた。大体、「遅刻遅刻~」と騒ぎながら口の中の水分を奪い取る食パンを齧りながらそれなりの速度で走るなんて芸当、常人にはできない。
だから、そんな芸達者な少女に曲がり角でぶつかるとは、夢にも思っていなかった。
私と少女はその場で尻もちを着いた。食べかけの食パンが二人の間に落ちる。拾ってあげるべきか。それはないか。
「失礼。怪我はしてませんか?」
私は極めて冷静に言った。内心では漫画の世界からやってきたような彼女に興味津々である。体育座りのように膝を曲げている彼女の白い太ももが私の目を奪う。そしてそのまま目線は下がり、さらに白みの増した下着が見える。漫画のような少女はこんな下着を履くのか、と私がまじまじと見ていると、少女は急いでスカートで下着を隠してしまった。
少女は顔を真っ赤にして、にらむように私を見ると、食パンを置いて走り去った。夏の日差しを受けて走る姿は眩しく、私の心は洗われるようだった。そして私は、どこかで見たことがある気がする、と思うのだった。
その理由は簡単だった。彼女の着ていた制服に見覚えがあったのだ。同じ高校のセーラー服を身に纏い、少女は再び現れた。
ホームルームの始まるチャイムと同時に教室に滑り込んだ私は、あきれたようにため息をつく七海を横目に息を切らせて席に着く。程なくして教師がやってくると、勿体ぶった口調で転校生を紹介すると言った。その転校生とは誰なのか? 言うまでもない。
「あ~っ!」
少女は私に気づくと目を見開いて人差し指を私に向けた。教室が騒然となる。皆が私と彼女を交互に見る。仕方ないから私は愛想笑いを振りまいた。
何を思ったか、不出来な担任は私と少女を隣同士の席にした。
「よろしく」
私が言うと、彼女はフンと鼻を鳴らしそっぽを向いた。
言い忘れたが、私は図書委員である。放課後、決まった曜日には図書室のカウンターで来もしない本好きを待たなければならない。
「何を読んでいるんだ?」
私は傍らで本を読んでいる後輩に聞いた。小柄で人形のような彼女は、億劫そうにゆっくりと顔を上げ、表紙を見せた。
『恋愛マナー入門塾』
と書かれていた。そんな塾があってたまるか。
「恋愛、してるのか?」
後輩は首を横に振った。
「いいえ。たまにはこういった本を読んでみるのも良いかな、と」
「面白い?」
「それほどでもないです」
と言い、後輩は活字を追いかけ始める。仮にも塾とタイトルをつけられた本だ。面白いはずがない。
「大塚はどんな人が好きなんだ?」
別に私が後輩に気があるから聞いているわけではない。暇と時間を持て余しているのだ。
「どうなんでしょうか。あまり考えたことがありませんから」
「やっぱり、本が好きな人か?」
私の質問に、後輩は首をかしげる。彼女の視線が私を捕らえた。
「そうですね。読書量までは求めませんが。ああでも、落ち着いて本を読める人が良いです」
「どういうこと?」
「他に人のいるところで本を読むのが苦手なんです。集中できなくて」
「私の前ではいつも読んでいるじゃないか」
「そうですね。先輩と一緒だと、落ち着きます」
私は声を失った。どういう意味で言っているのか、とはとてもではないが聞けなかった。
私の乱れた精神を整える時間を与えるように、生徒が本を返しにやってきた。
図書室の閉まる時間になり、ぎこちない雰囲気を主に私が出しながら後輩と別れる。フラフラと歩いていると、校門の前に七海が立っていた。彼女は私に気づき穏やかに微笑んで見せたかと思うと、すぐに眉間にしわを寄せた。
「たまたま生徒会の終わる時間だったから」
七海はそう言うと、一人で先を歩く。私は小走りで後を追った。
「最近、思うことがあるんだ。特に今日はそれが顕著なんだが」
「何よ、急に」
「私が男だったら、どんなに幸せだったろうか」
今朝ぶつかった転校生との出会いも劇的に映り、後輩との時間も何にも増して待ち遠しいものになり、七海との関係も今とは違ったことになっていたのではないか。
そんな気がしてならないのだ。