Doc 1, またいつもの火曜日みたいだ
広大な、何もない虚無の中で。
一人の男が、まばゆい光へと歩いていた。
「汝に呼ばれ、ここに参じた。……お話しください」
光そのものから、言葉では表現しきれない声が響いた。
男は恐れることなく、一人で立っていた。
「リハーサルのあとに俺が考えた計画、父さんは承諾してくれた?」
光は静かに耳を傾けた。
「完璧な資質と能力を持った人間を探すんだ。……いや、そいつのことは『アダム』と呼んだほうがいいかもしれない」
激しい風が虚無を吹き抜け、光が揺らいだ。
「アダムが降臨するのは、幾世紀も先のことだ」
男は額に手を当てた。
「そっちのアダムじゃないって、父さん。俺が言いたいのは、自分の祝福の半分を誰かに与えたいってこと。男でも女でもいい。そうすれば、俺の最高の宣教師になってくれるはずだろ? 今いる弟や妹たちみたいにさ」
「成せ。
その行いは汝自身の責任であり、責めを負うのもまた汝のみ……」
光は消え、男は漆黒の虚無に飲み込まれようとしていた。
「はいはい、父さん」
闇が完全に彼を呑み込む前に、男はポータルを開いた。
9,556,321,256回目のループのあと……
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リンゴォォォ!
キンッ!
目覚まし時計は、鳴り始めてすぐに止められた。
「朝の六時まであと五分? なんだよ、今日は祝日か……?」
男はソファから身を起こした。
「ヴァル! こっちに来て! 朝ごはんできてるわよ!」
明るくも優しい女性の声が、部屋に響いた。
「今行くー」
彼は弱々しい足取りで歩き出した。
まるで低血圧にでもなったかのように、ふらふらと。
キッチンにて。
「珍しいわね。鋳造所に置き忘れたトーストよりも暗い顔をして。どうしたの? お小遣いでも足りない?」
中年の女性が尋ねた。
「まあ……仕事の問題だよ。ほら、いろいろあるじゃん」
ヴァルは紅茶を淹れながら答えた。
やがて二人は席につき、一緒に朝食を食べ始めた。
「それで……本当なの?」
一口食べ終えた女性が尋ねた。
「何が?」
ヴァルが聞き返す。
「大学を辞めて、仕事に専念するって話よ」
ヴァルは少し考えてから答えた。
「うん、本当。あそこにいる時間が長いほど、あいつのことを思い出しちまうから」
「ヴァル……まだ、あの子のことを忘れられないのね?」
彼女は隣の椅子へ移った。
「うん。ミモリは、本当にいい姉ちゃんだったから。俺……少し時間が必要なんだ。ちゃんと気持ちに整理をつけるためにさ」
ヴァルはうつむき、静かに紅茶をすすった。
「とにかく、仕事に行かなきゃ。朝ごはん、ありがとう」
彼は立ち上がり、最後にもう一口だけ紅茶を飲むと、玄関へ向かった。
「ああ、気をつけてね。頑張ってくるのよ~」
女性は別れ際に、彼の頬へキスをした。
* * *
ヴァルは道を歩いていた。
少し先では、小さな人だかりが怪物から店を守ろうとしていた。
「そう、あれがアノマリーだ。普段は肉眼じゃ見えないけど、獲物を食うときになると姿を現す化け物。……あそこにいる蛇みたいなやつが、いい例だな」
蛇のような姿をしたアノマリーが、男に飛びかかった。
直後、別の人物がそれを叩きのめした。
ヴァルはバス停で待ちながら、襲撃を受けた店をもう一度だけ見やった。
「クリーナーが来てくれたぞ! ありがてえ!」
店主の老人が声を上げた。
彼らはイマジナーだった。
イマジナリーと呼ばれる超常能力を使える人間たち。
その能力は、本人が特に好んでいる概念をもとに発現する。
例えば、サッカーが大好きな人間なら、サッカーをモチーフにした能力を得ることがある。
バァンッ!
「これでお店にいたヘビは一掃できましたね! ……ヘビだけに。おやつ、もらえます?」
黒いスーツを着た若いクリーナーが言った。
「……今の、わざとやったダジャレか?」
ヴァルはぼそりと呟いた。
ちょうど到着したバスに乗り込む。
* * *
港の貨物ヤードに近いバス停で降りたヴァルは、いくつもの船が停泊する港へと向かった。
だが……。
今日は妙に静かだった。
それでも彼は中へ入り、最寄りの警備詰所へ向かった。
コン、コン……。
「……」
ヴァルはカレンダーをじっと見つめた。
「なんだ……日曜日か。そりゃ誰もいないわけだ」
彼は錆びついたドアを蹴り開けた。
詰所は小さく、やたらと蒸し暑かった。港を見渡すにはちょうどいい場所なのに、エアコンが設置されているはずの場所には、なぜか何もなかった。
ヴァルは眉をひそめた。
「……まあいい。俺が見回るか」
不穏な静けさを気にしながら、彼は詰所の脇にある開けた場所へ歩いていった。
かすかな唸り声が聞こえる。
ペリカンの鳴き声にかき消されそうなほど、小さな音だった。
倉庫へ近づくにつれて、その音は徐々に大きくなっていった。
そしてヴァルは、ふと疑問に思った。
――いったい、どこから聞こえてくるんだ?
次の瞬間、その答えが目の前に現れた。
三体のアノマリーが、物陰から姿を現した。
一体は、人間のような腕を持つ狼。
一体は、巨大な芋虫。
そして最後の一体は、熊だった。
ヴァルは熊を見た。
その口元は血で汚れていた。
そして、口の端から人間の脚が覗いていた。
「……あーあ。叔父さん、終わったな」
彼は構えを取った。
三体が一斉に襲いかかる。
ヴァルは突進してきた熊に回し蹴りを叩き込んだ。
――が、直後に狼に吹き飛ばされた。
間髪入れず、芋虫が突進してくる。
ヴァルは素早く体勢を立て直し、重い一撃でその頭部を叩き潰した。
芋虫は地面に崩れ落ちた。
だが、熊はすでに立ち直っていた。
バキッ!
熊の顎がヴァルの肩に食らいつく。
強烈な力に、骨が軋む音がした。
よろめきながら後ずさり、ヴァルは息を荒げた。
傷口に手を当てる。
「ハァ……ハァ……なるほどな……」
もう一度、息を吸う。
「……だから、こいつら一体を相手にするだけでも面倒くせえんだよ……」
彼はしゃがみ込み、何事もなかったかのように靴紐を結び直した。
熊が再び襲いかかる。
一秒も経たないうちに。
今度はヴァルをつかみ上げ、そのまま地面へ叩きつけた。
スープレックスだった。
ヴァルが着地した瞬間、狼が追撃の拳を叩き込む。
ついに、ヴァルの堪忍袋の緒が切れた。
彼は狼の顔をつかんだ。
そして――そのまま引き裂いた。
咆哮とともに、狼の亡骸を熊へ投げつける。
熊は唸り声を上げ、動きを止めた。
すると、その前脚が光り始めた。
奇妙なオーラが集まっていく。
「……?」
ヴァルは即座に身構えた。
次の瞬間、熊が加速した。
先ほどまでとは比べものにならない速さだった。
光を帯びた前脚が、地面へと振り下ろされる。
ヴァルはかろうじて回避した。
ドゴォォォン!
衝撃で足元の床が砕け散った。
コンクリートの破片が飛び散り、二体は港の下層へと落下していった。
しばらくして、瓦礫の中から先に這い出したのはヴァルだった。
熊が立ち直るのを待つつもりはなかった。
彼は走った。
* * *
四、五分後。
ヴァルは路地裏をよろめきながら歩いていた。
先ほどの戦闘で、全身が傷だらけになっていた。
一歩進むたび、体が重くなっていく。
誰かが病院まで連れていってくれればいいのだが。
そのときだった。
悲鳴が聞こえた。
耳障りで、不気味な悲鳴。
路地裏に反響する。
「クソ……またかよ……」
ヴァルは足を速めようとした。
すると、突然、悲鳴が止まった。
何かが背後に現れた。
ヴァルの動きが止まる。
完全に静止し、息を潜める。
目の前にいる何かを刺激しないよう、必死に気配を殺した。
……だが。
相手は、すでに彼を見つけていた。
骨のような尻尾が、凄まじい勢いで伸びてくる。
そして、ヴァルの胸を貫いた。
彼は抵抗しようとした。
しかし、化け物は尻尾を引き戻し、そのままヴァルを路地の反対側へと叩き飛ばした。
壁に激突する。
立ち直る間もなく、怪物が再び襲いかかった。
ヴァルは尻尾をつかんだ。
――ほんの半秒ほど。
次の瞬間、地面へ叩きつけられた。
一度。
二度。
何度も。
立ち上がる暇すら与えられなかった。
骨のようなアノマリーが飛びかかる。
そして、ヴァルの腹部に噛みついた。
激痛が走る。
彼の意識が遠のいていく。
そして――
ヴァルの人生は、そこで終わった。
* * *
数時間後。
「……」
「………………」
「…………………………」
「な……何が……起きた……?」
ヴァルはゆっくりと目を開けた。
弱々しく、体を起こす。
ゆっくりと。
ゆっくりと。
さらに、ゆっくりと。
「気分……最悪だ……」
彼は腹部に手を当てた。
「まるで……内臓を全部ぶちまけたみたいな……」
しばらく、その場に座り込んでいた。
やがて、どうにか立ち上がる。
両脚が震えていた。
彼は自分の体を調べた。
出血は止まっている。
だが、何かがおかしかった。
自分の肉体が……。
腐り始めていた。
「……は?」
ヴァルは困惑したまま、自分の体を見つめた。
いったい、自分に何が起きたのか。
答えは見つからない。
何をすればいいのかもわからない。
だから彼は、ひとまず路地の出口へ向かって歩き始めた。




