婚約破棄ものをスイスチーズモデルで考えたら、断罪劇は重大インシデントでした──ヒヤリハットは何度あった?
前回、『王妃をはじめ、王家の仕事を書いたら、今度は「断罪まで何してたの?」と聞かれました』というエッセイを書きました。
悪役令嬢もの、婚約破棄ものに出てくる王家や周囲の人々。
王太子が卒業夜会で公爵令嬢を断罪するところまで、皆さん何をしていたのでしょう。
そんなことを、酒を飲みながら延々と考えていたものです。
すると感想欄で、「ケーススタディ」「スイスチーズモデル」という言葉をいただきました。
スイスチーズモデル。
事故やミスがどうして重大な結果へつながるのかを考える、安全管理のモデルです。
穴の開いたスイスチーズを何枚も重ねる。
一枚一枚が、それぞれ事故を防ぐための防御層。
ただし、どの防御層にも穴はある。
人間が作るものですから、完璧ではありません。
けれど、一枚目の穴を抜けても二枚目で止まる。
二枚目も抜けても三枚目で止まる。
そうやって重大事故になるのを防ぐ。
ところが、何枚ものチーズに開いた穴が、たまたま一直線につながってしまったら。
事故が向こう側まで突き抜ける。
なるほど。
婚約破棄ものに、めちゃくちゃ使える。
いや、使うな。
私は介護員であり、介護福祉士でもあります。
なので、この手の話を聞くと、どうしても仕事の方へ頭が行きます。
たとえば転倒事故。
利用者さんが転倒しました。
では、
「本人が勝手に立ったから転びました」
で終わるか。
終われません。
もちろん、本人が立ったこと自体は事実かもしれません。
でも、そこで止めたら事故分析にならない。
なぜ立ったのか。
トイレへ行きたかったのか。
何か取りたかったのか。
ナースコールは手の届く位置にあったのか。
押したけれど職員が来なかったのか。
いつもなら一人で立たない人だったのか。
最近ふらつきが増えていなかったか。
歩行状態の変化は申し送られていたか。
薬が変わっていなかったか。
その時間帯の職員配置はどうだったのか。
ベッドや椅子、歩行器の位置は適切だったのか。
以前にも立ち上がろうとして危なかったことはなかったのか。
いろいろ見ます。
そして対策を考える。
コールの位置を変える。
定時のトイレ誘導を見直す。
環境を変える。
情報共有をする。
必要ならケアそのものを変更する。
もちろん全部やったところで、転倒を完全にゼロにはできません。
人間ですから。
利用者も人間。
職員も人間。
絶対に間違えない人などいません。
だから、
「職員が注意する」
だけではなく、
一人が間違えても重大な結果になりにくいよう、いくつか防御を重ねる。
ここで、婚約破棄ものへ戻ります。
王立学院の卒業夜会。
華やかな大広間。
楽団が演奏し、貴族の子弟たちが集まっている。
そこで王太子が、公爵令嬢を呼びました。
「○○公爵令嬢。こちらへ来い」
はい。
事故発生です。
私は、「君との婚約を破棄する!」まで待たなくていいと思います。
もう起きています。
大勢の貴族がいる宴席で、次期国王になるかもしれない王太子が、自分の婚約者である公爵令嬢を名指しして呼びつけた。
しかも横には側近たち。
場合によっては、守るように別の令嬢まで立っている。
この時点で、ただの恋人同士の喧嘩ではありません。
見物人がいます。
王太子という公的な立場があります。
公爵令嬢という家を背負った立場があります。
このあと王太子が、
「いや、やっぱり何でもない」
と言っても、
もう何でもなくない。
「あれ何だったんだ?」
となる。噂になります。
公爵家にも伝わります。
王家にも伝わります。
つまり、事故はもう起きている。
では、
「君との婚約を破棄する!」
これは何か。
事故の拡大です。
さらに、
「お前は彼女をいじめた!」
「階段から突き落とした!」
「王太子妃にふさわしくない!」
と、大勢の前で罪状を並べ始める。
被害拡大。
「国外追放だ!」
「修道院へ行け!」
「処刑する!」
そこまで行ったら、もう知らん。
二次事故まで起きています。
ただ、ここで一つ分けて考えたい。
事故が起きたことと、その事故を重大化させることは、同じではありません。
公爵令嬢を呼びつけた。
もう事故です。
でも、その瞬間に宴席の責任者なり王家の文官なりが、
「殿下。その件は、この場で扱うものではございません」
と割って入れば。
王太子を別室へ移す。
公爵令嬢も人目から外す。
その場では何も発表させない。
事情を確認する。
そうすれば、事故そのものは消せなくても、被害の拡大は防げる。
介護でもそうです。
事故を完全になかったことにはできなくても、事故が起きたあとに何をするかで、その後の結果は変わります。
だから、
ヒヤリハット。
事故発生。
被害拡大。
重大インシデント。
全部、同じ一点ではない。
婚約破棄ものだと、この全部を勢いよく駆け抜けてしまうことがある。
それはそれで物語としては面白い。
安全管理として見ると、頭を抱える。
でも。
ここで一番気になるのは、事故発生後ではありません。
事故が起きるまでです。
ヒヤリハット、何回ありました?
厳密には、これらすべてが現場用語としての「ヒヤリハット」に当たるわけではありません。ここでは、重大化する前に拾えた兆候として並べてみます。
王太子が、婚約者より特定の令嬢を優先するようになった。
一件目。
婚約者との予定をすっぽかした。
二件目。
側近たちまで、その令嬢を特別扱いするようになった。
三件目。
学院内で二人の噂が立った。
四件目。
公爵令嬢と王太子の関係が目に見えて悪化した。
五件目。
公爵令嬢が注意した。
六件目。
王太子がそれを「嫉妬だ」と受け取った。
七件目。
側近も同調した。
八件目。
誰かが「公爵令嬢が彼女をいじめているらしい」と言い始めた。
九件目。
証拠確認もしないまま王太子が信じた。
十件目。
断罪の相談を始めた。
十一件目。
卒業夜会でやろう、と決めた。
十二件目。
側近が誰も止めなかった。
十三件目。
当日まで誰も王宮へ報告しなかった。
十四件目。
……多いな。
しかもこれは私が今、適当に並べただけです。作品によってはいくらでも増えるでしょう。
重要なのは、これらの一つ一つが、その瞬間に国家を揺るがすほどの重大事故ではないことです。
王太子が一度、婚約者との約束を忘れた。
それだけなら謝ればいい。
特定の令嬢と少し親しくなった。
それだけなら距離を見直せばいい。
学院で妙な噂が立った。
確認すればいい。
「公爵令嬢がいじめている」と聞いた。
調査すればいい。
婚約を解消したいと思った。
国王や王妃、担当者へ相談すればいい。
そのたびに止められる。
そのたびに修正できる。
なのに全部抜けた。
ここでスイスチーズです。
一枚目。
王太子本人。
穴が開いた。
まあ、人間です。
間違えることもあるでしょう。
二枚目。
側近。
一緒に穴が開いた。
三枚目。
侍従や護衛。
報告しなかった。
四枚目。
王太子府。
気づかなかった。
五枚目。
学院。
何も拾わなかった。
六枚目。
王妃。
把握していなかった。
七枚目。
国王。
知らなかった。
八枚目。
宰相や王家の文官。
婚約という国家的案件なのに関与していなかった。
九枚目。
公爵家との連絡経路。
機能しなかった。
十枚目。
婚約破棄そのものの制度や手続き。
王太子が宴席で叫ぶだけで実行できるようになっていた。
全部の穴がつながった。
そして卒業夜会。
「○○公爵令嬢。こちらへ来い」
事故発生。
では、この中で一枚だけ先に穴を塞げと言われたら。
私なら、王太子本人ではなく、報告経路に開いた穴を塞ぎます。
いや、穴を塞ぐと言うのも妙ですが。
王太子が何かおかしなことを始めたとき、その一番近くにいる人間が、本人の意思とは関係なく上へ報告できる仕組み。
これです。
側近でもいい。
侍従でもいい。
護衛でもいい。
王太子が特定の令嬢を優先し始めた。
それだけなら、まだ何もしなくていいかもしれない。
婚約者との公式な予定を何度も変更するようになった。
記録する。
公務へ影響が出た。
報告する。
公爵令嬢との関係が明らかに悪化した。
報告する。
「卒業夜会で公爵令嬢の罪を暴いて婚約を破棄する」そんな相談を側近と始めた。
そこまで行ったら、
報告してください。
今すぐ。
王太子に、
「殿下、それはいけません」
と言える側近がいれば一番いい。
でも、それだけに頼るのも危ない。
言えない人もいるでしょう。
言っても聞かない王太子もいるでしょう。
だから、
「王太子本人が嫌がっても、一定の異常を把握したら上へ報告する」
という経路を作る。
国王や王妃が、
「そんなことになっているとは知らなかった」
と言うなら、
では、知る仕組みはありましたか?
という話になります。
そして、公爵令嬢本人を最後の防波堤にするのも違うと思います。
「もっと早く王妃へ相談すればよかったのに」
「もっと強く王太子を諫めればよかったのに」
「公爵家へ報告しておけばよかったのに」
それもできたかもしれません。
でも。
事故で被害を受ける側に、
「あなたがもっと上手に事故を防いでくれれば」
まで背負わせるのは、何か違う。
王太子の婚約者だからといって、王太子の安全装置まで担当させなくていいでしょう。
こう考えると、
「王太子が馬鹿だった」
だけで終わらせるのは、ものすごく危ないのです。
いや、物語としてはいいんですよ。
婚約破棄ものなんですから。
王太子が馬鹿でないと始まらない作品もいっぱいあります。
私はそれを否定したいわけではありません。
むしろ好きだからこんなに書いています。
これはあくまでケーススタディです。
婚約破棄テンプレを、介護現場で事故報告書を書くような目で眺めたらどうなるか。
それだけです。
そしてその目で見ると、
「王太子が悪かったので、本人へ厳重注意しました」
では、再発防止にならない。
介護現場なら、
原因。
職員の注意不足。
対策。
今後十分注意するよう指導した。
以上。
……いやいやいや。
それだけ?
となります。
注意したら人間は二度と間違えないのでしょうか。
そんなわけはない。
だったら王太子も同じです。
では、王太子を廃嫡しました。
これならどうか。
本人はいなくなります。
少なくとも、その王太子が同じ断罪劇を繰り返すことはないでしょう。
でも。
次の王太子が同じことをしたら?
弟が同じように育っていたら?
側近制度が同じなら?
報告経路が同じなら?
学院が同じなら?
王家の管理体制が同じなら?
婚約を取り扱う制度が同じなら?
また起きます。
問題を起こした人間を処分することと、問題が再び起きない仕組みを作ることは、同じではありません。
大事なのは、
王太子が間違えない国を作ることではない。
そんなものは無理です。
王太子が間違えても、
側近が止める。
側近も間違えても、
侍従が報告する。
そこも抜けても、
王太子府が拾う。
そこも抜けても、
王妃や国王が確認する。
そこも抜けても、
制度上、宴席で叫んだだけでは婚約破棄が成立しない。
そして事故が起きてしまっても、
その場で誰かが止める。
別室へ移す。
事実確認をする。
公衆の面前で被害を拡大させない。
何枚も重ねる。
人間はいい加減なものだからこそ。
一人の判断だけで重大事故まで突き抜けないようにする。
そう考えると、婚約破棄ものの断罪劇というのは、王太子一人の暴走というより、
国家の安全管理システムが綺麗に全部抜けた瞬間なのかもしれません。
そして私はまた思う。
卒業夜会まで、何してたの?
前回と同じところへ戻ってきました。
ただし今回は、少し聞き方が違います。
誰が悪かったの?
ではなく。
どこで止められたの?
事故が起きたあと、どこで被害拡大を止められたの?
そして、
ヒヤリハットは何度あった?
【事故報告書】
事故内容。
王立学院卒業夜会において、王太子殿下が公爵令嬢を公衆の面前へ呼び出し、婚約破棄および複数の罪状を宣告した。
原因。
王太子殿下の認識不足。
対策。
本人へ厳重注意し、今後同様の行為を行わないよう指導した。
……たぶん、その国。
また断罪劇が起きます。
前作の感想欄で「スイスチーズモデル」という言葉をいただきまして。
なるほど。
……断罪劇、重大インシデントでは?
となりました。
介護員であり介護福祉士でもあるので、事故と聞くと「誰がやった」より先に「どこで止められた」「その前にヒヤリハット何件あった」が気になります。
その結果がこれです。
感想一本から、また一本生えました。
効率がいい。
ちなみに一度寝落ちして、起きてから書いております。
明日は朝6時から仕事です。
いや、もう日付変わってるので今日です。
何してるんでしょうね。まぁ8時に予約投稿セットして寝ます。
とりあえず、王太子殿下。
「今後は気をつけます」だけでは事故報告書、通らないと思います。




